遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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ポカラとバフのこと【佐渡屋太郎-vol.270】

ロッジ近くの農家の庭先で泥浴びをして寛(くつろ)ぐバフ(水牛)

いまは12年12月21日(金)の17時35分。やっとのことで、最も長い原稿を書き上げた。書き始めてからほぼ1週間も掛かってしまった。しかし、1番の“大物”が片付いたので、心底からホッとしている。年末というか、正確に言えば12月28日までに書かなければならない原稿があと2本ある。単行本用のパチンコに関する残り10ページの原稿と、葬儀雑誌の特集3ページ分の記事である。ただ、ここでひと休みしたくなった。新たな原稿書きに入っていくことを頭が拒否している。そこで、ブログでも書いてみる気になった。あまり時間は掛けられないが、写真を見て疲れた頭が休まるようなものにできないかと考えてみた。

そこで思いついたのが、前回すこし書いたバフ(水牛)のことであった。幸い、前回スキャンしたバフの未掲載写真が2点残っており、ペワ湖の写真も2点ほどあった。そこで今回、新たに私が借りていたロッジの近所にいた子供たちの写真をスキャンし、何とか1回分の写真が集まった。これだけあれば何とかなるだろう。バフののんびりした写真でも眺めながら、年末までのあと“一山”(ひとやま)を越えようという作戦だ。今さら言うもの何だが、私はバフが大好きだ。不思議と心惹かれるものがある。前に会社を作ったとき、その社名を「バフバフプロ」としたくらいだ。

あのスローモーな動き。暑い時には泥や水のなかに浸かって、テコでも動きそうにない頑固さ。そして近づいて目を見ていると、何かすべてを分かっているような奥深さがある。ひょっとしたら、稀に見る哲学的な思索をしている動物ではないのか。この世には本当はアホだが、賢しこぶっている人間は多い。しかし、逆に本当の“賢人”は、アホに徹していることが多いと私は経験的に知っている。その点で言えば、バフのあの間抜けたアホ面(づら)こそ、侮ることができない“賢さの象徴”なのである。前回、ネパールいるジャンキーが、バフに姿を変えると書いたが、並みのジャンキーではバフになることはできない。悟りを開き、下らない人間に帰ることを捨てた賢いジャンキーしか、バフになることはできないのだ。

ペワ湖の湖水に浸かって体を冷やすバフの群れ

バブに関しては、いろんな思い出がある。十数年前には、急にバフに会いたくなり、和歌山の白浜アドベンチャーワールドまで行ったことがある。あそこでは広い柵のなかに他の動物と一緒に十数頭のバフが放たれており、自然に近いバフの姿を見ることができる。それからよく行くことになった。来年もまた生のバフに会いに行きたい。ペワ湖でのバフについても、忘れることができない思い出がある。ある日、「ハナ」と一緒に船を出し、湖の真ん中で泳いでいたときのことだ。泳ぐのにも疲れ、少し暗くなってきたので帰ろうと思ったとき、湖の向こうから私たちの船へ静かに向かってくる物体があった。映画の「ジョーズ」のような動きであった。しかし、その物体は黒く、かなり大きい。最初は恐竜ではないかと思った。当時、イギリスのネス湖の恐竜“ネッシー”が話題になっていた。だから、ペワ湖に恐竜がいても不思議ではない。この場合、“ペッシー”とでも言うのだろうか。

薄暗くなった湖面を、音もなく近づいてくる恐竜は、実に不気味であった。しかし、「ハナ」は一向に吠えようともしない。その間に、その物体はどんどんと船に近づいてくる。慌てて私は、船の上に上がった。以前、タイのサムイ島で泳いでいるとき、太いロープが浮いていたので、取りにいこうとしたことがあった。近づいてつかもうと思ったら、ニョキッとその端が持ち上がった。何とロープと思った物体は“海蛇”であり、鎌首をもたげて私を睨んでいたのである。慌てて逃げたが、海蛇は追いかけてきた。あのときは死に物狂いになって泳いだ。いまでもたまに夢に見ることがある。そして、今度は恐竜かと思った。バッグからカメラを出して、望遠レンズに交換し、撮影の準備をした。

しかし、ピントが合って浮かんできた画像は、見慣れたあのバフの顔であった。しかも、目が血走り、口から泡を吹いていた。あとでロッジのオーナーであるラムに聞いて分かったのだが、バフのうちの何頭かは、ペワ湖を泳いで向こう岸に渡り、草を食べて帰ってくるのだそうだ。しかし、その距離は半端なものではない。きっと、私が湖の真ん中で遭遇したバフも必死で泳いでいたに違いない。“必死になっているバフ”――これほど似合わないものはない。その姿が可笑しくて、今でも思い出して笑ってしまう。私は見てはならないものを見てしまったのだろうか。

ペワ湖に入って体を洗うネパーリーの若き乙女

その後のある日、朝起きると誰かがロッジのラムと話していた。私も呼ばれて行ってみると、そいつは山で“マジックマッシュルーム”を採ってきたという。それでロッジに売りに来たわけだ。ラムはヒマラヤトレッキングのガイドもしており、何でも知っている。私が「本当にマジックマッシュなのか」と聞いたら、ラムは「間違いない」と太鼓判を押した。それで夜、ラムに買ったマジックマッシュをオムレツにしてもらって食べたが、それからたいへんなことが起こった。あのペワ湖を泳ぐ“必死なバフ”の顔が浮かんできて、笑いが止まらなくなったのだ。その顔に似ていた私の友人の顔も浮かんできて、さらに私は腹がねじれるほどに笑った。

その笑いは結局、明け方まで止まらなかった。途中で、キノコがもたらした症状であることに気づいた。その間、私の目からは涙が流れ、口からはよだれが出てきた。そして、笑いすぎて腹筋が痛くなった。しかし、笑いは一向に止む気配がない。私は強烈に痛む腹筋を抱えながら、涙とよだれを流し続け、このまま“笑い死”するのではないかと思った。“恐怖の中の笑い”――これも不気味であるが、バフの顔がその恐怖を打ち消してくれた。その日の昼過ぎ、目を開けたら窓の向こうが明るかった。その時、私が最初に思ったのが、“生きている”という素朴な実感だった。窓の外には、木々の緑がしたたるほどに輝いていた。あれは“笑い茸”であったと確信を持って思う。そのことをラムに言うと、しばらく考えたあとで決まり悪そうに、「ノー・プロブレム」と答えた。

しかし、ラムは真面目で逞しい男であった。カトマンドゥの貧しい家に生まれ、12歳の時に家を出て、歩いてこのポカラまでやってきたという。それからトレッキングの荷運びをしながら、金を貯めてロッジの土地を買った。その後はガイドをして大金が入るたびに石やセメントなどの材料を買って、自分でひと部屋ずつ作っていった。私がいたときは5室までできていた。途中で結婚して、生まれた娘が大病に罹ったために大金を使い、当初の計画が大幅に遅れてしまったという。彼の目標はこの敷地に2階建ての20室を作り上げることだという。当時は私より年上の30歳であった。

ロッジの近所にいてよく遊んだネパールの悪ガキたち

ある日、私はこれから冬のヨーロッパに向かうので、ダウンのジャケットや寝袋の日干しをしていた。そのダウンジャケットは、北九州で一緒に住んでいた私の“旅の師匠”からもらったものだ。チョモランマ登頂のとき日本アタック隊が着ていたものと同じで、品質は第1級品であると師匠は言っていた。ただ、師匠が10年以上も使い、私も九州時代とこの旅に出た中国からチベットで着ていた。軽く、暖かく、極寒の地でも十分に私の体を寒さから守ってくれた。しかし、何しろ耐用年数を過ぎていた。そのせいで、よく生地が破れて羽根が飛び散るのだ。私は必死になって、そのたびに切れ口を縫った。その結果、フランケンシュタインのように縫い跡だらけのジャケットとなってしまったのだ。さらに、1回も洗濯をしなかったので、襟口や袖口は汚れで黒ずんでいた。

そのジャケットを見たラムは、「おれに譲ってくれ」と言った。真摯な顔で、「山に上る自分には必要なものだ」と主張した。やはり、見る目を持った男である。しかし、それは私にも必要なものであった。ただ、私にはこんな縫い跡だらけで汚いジャケットを、果たしてヨーロッパでも着られるのかという一抹の不安があった。さらに、このジャケットはラムが着るのに相応しいという天の声も聞こえてきた。それで1日ほど考えたあとで、「山に行く時に着てくれ」と渡した。そしたら、ラムは調理場の奥から汚い袋を取り出してきて、「これを日本に持って帰ってくれ」と袋ごと私に渡した。

水浴びをしてその水の冷たさに縮み上がるわんぱく坊主

なかにはヤク(チベットにいる牛)の歯のお守りやペンダント、指輪など年季の入った骨董品の数々が入っていた。ラムが若い頃から集めてきた“お宝”のすべてだったのだろう。それと交換してまでラムはあの汚いジャケットを欲しかったのだ。そのとき、私は“求めれば必ず得られる”という教訓を得た。日本へ帰ってきてから師匠のお母さんが危篤になった。そのことを聞いて、佐渡屋太郎は“ヤクの歯のお守り”を持って、北九州に駆けつけ、おかあさん頭の上のベッドに括りつけた。

九州にいた頃は師匠とともにさんざん怒られてばかりであったが、旅に出てからはいつも私のことを心配してくれていたという。結局、10日ばかり頑張ったが、あの気の強かったおかあさんも病魔には勝てなかったようだ。師匠はその柩(ひつぎ)の中に“ヤクの歯のお守り”を入れてやったそうだ。師匠のジャケットがポカラで“ヤクの歯のお守り”となり、それを持って師匠のおかあさんはあの世に行ったわけだ。この1件から“世の中の物はぐるぐると回る”という教訓を得た。

それ以降の厳しくて危険でつらい旅を思うに付け、あのポカラでの日々はバフに象徴されるように、のどかで心癒されるパラダイスであったと思う。その3年前には師匠とカトマンドゥで出会って命を救ってもらい、やはりポカラで半分夢の中にいるような穏やかな日々を過ごしながら、私の足の怪我は回復していった。その師匠とも不思議な因縁で結ばれている。あの人は返還される前から友人と沖縄や先島に入り込んでいた。結局、その友人は島の娘と結婚して沈没し、いま3人の子供を抱えて島の町内会長をしている。しかし、師匠は故郷の北九州に帰って英会話教室を開き、日本を出たり入ったりの生活をしていた。私が日本に帰ってから一度、京都に遊びに来たこともある。そのとき、私のアパートにおかあさん危篤の電話が入ったのであった。師匠は飛んで帰り、私は仕事をしていたので、休みの日にすぐ後を追ったのだった。書きながらいろんなことを思い出してくる。

手作りシャワーで水浴びを楽しむ開放的なネパール少女

その数年後、師匠は九州の教室を畳んで、再び石垣島へ行き、最初はグラスボートの船長をして、その後は飲み屋を開いたと聞いていた。そんなある日、会社から帰ると、1人の女の子がいた。元妻のやっている古道具屋の常連で、毎週にように広島からやってきては古い絵葉書を買っていくという。それで元妻と友達になり、家に遊びに来たのだ。その夜は酒を飲みながらいろんな話をした。聞くとその女の子は沖縄にもよく行くという。とくに石垣島が好きで、変なおじさんがやっている飲み屋があって、そこに入り浸っていると言っていた。そのおっさんはギターが上手くて、気が乗るとライブもやっているそうだ。それで私はピンときた。「もしかして、その変なおっさんはこんな顔をしていないか」と、1枚の写真を見せてやった。そのときの彼女の驚きの表情は、いま思い出しても笑えてくる。

写真は師匠が白衣をきて、父親の病院でイカサマ助手をしているところを撮ったものだ。多分、彼女が知っている姿とは、全くかけ離れたものであったと思う。そのとき得たのは“世の中は意外に狭い”という教訓であった。それから彼女がメモしていた石垣の飲み屋に電話して、久し振りに師匠の声を聞いた。それでいたたまれなくなり、GW(ゴールデンウィーク)に師匠に会いに出かけた。沖縄の本島で待ち合わせて、石垣、竹富、西表を巡りながら、また“バカ旅”を楽しんだ。西表では台風のなかを崖の上にテントを張って一夜を明かした。よく吹き飛ばされなかったものだと思う。バフの話をすると、やっぱり師匠に行き着いてしまう。あの人はポカラでは全くのバフであった。そして、日本に帰ってくると一応は人間の姿になるが、見る人が見たらバブの片鱗がありありと分かる。近頃は年を取ったので、沖縄から近いフィリピンの“秘密の小島”に通っているそうだ。フィリピンでは思いっきりバフになって、のんびりとした時間を過ごしていることだろう。(佐渡屋太郎)

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