遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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離婚と「はな」のこと【佐渡屋太郎-vol.268】

梨ノ木地蔵の由来を教える説明板

いまは12年12月6日(木)の12時35分。やっと11月分の原稿と個人的な最大の課題を片付け、いま放心状態になっている。仕事部屋には晩秋のかなりきつい日差しが差込み、その暑さに耐えられず、さっきから窓を開けて風を通している。原稿のことはともかく、ついに個人的な最大の課題が終結した。その課題とは“離婚”であり、この3年間にわたって、断続的にあの手この手で先方と交渉してきた“難題”であった。この間、自分の中に隠れていた全ての感情が噴出し、さらにそれを強固な精神力でなだめ、つねに諦めず、微かな出口の灯りを頼りに歩み続けてきた。

いま秋風に吹かれながら、この3年間を思い返すと、“敵もさるもの”であったとつくづく思う。この“さる”は“猿”ではない。しかし、常識が通じないという点においては、強靭な“猿”を相手にしているような緊張感と空恐ろしさがあった。最後は佐渡屋太郎が強引にねじ伏せて、寝技に持ち込み、ついに勝負を終わらせることができた。当然ながら、双方とも無傷ではない。しかし、今になってみて初めて言えるが、実にいい“ファイト”であった。敵もあっぱれであったし、私もそれなりに立派に闘った。その爽快感が、いま冷たい秋風とともに体に染み込んでくる。

最後は離婚調停に持ち込んだが、双方の合意が得られたのは11月22日(木)であった。調停員のおっさんが、「今日は何の日か知っていますか」と満面の笑みを浮かべて聞いてきた。何と“いい夫婦の日”に離婚が成立したのである。そして、11月28日(水)にめでたく相手の籍は、私の籍から抜かれた。この逆説的な偶然はいったいどういうことなのだろう。神は果たして、この離婚を祝福してくれているのか。はたまた、その罰としてさらなる試練を私に与えようとしているのか。しかし、この道を私は避けて通ることができなかった。ただ、それだけのことである。

お堂の横にある大型の地蔵。この顔が何とも愛らしい

これでまた、佐渡屋家に新たな伝説が生まれることになった。先日、報告を兼ねて息子で長男の佐渡屋虎太郎に電話をしたら、この件はすでに先方から伝えられており、「いい日に離婚したな」と笑われてしまった。この“いい日離婚”は今後、長男・虎太郎の口から広く世間に拡められていくことだろう。だから、先回りして敢えて公表に踏み切ったわけだ。同棲してから25年、結婚してから24年、別居してから12年、ついにこの問題に終止符が打たれたのである。息子が成人するまでは離婚はしないという双方の合意はあったものの、この話し合いを始めた3年前からも長い時間が流れてしまった。この件の噂を聞いた親族や友人から、散発的な連絡はいまでもある。随分、心配をしたことを今になって聞いた。闘いの渦中では誰からも声を掛けられることもなかったが、じっと見守っていてくれたのであろう。それら心優しい人たちに、改めて感謝の気持ちを伝えたい。佐渡屋太郎は離婚したその日から、次の計画に向けて動き回っている。今後の近いうちに新たなニュースをお届けできることだろう。

さて、今回の件を見通したように今夏、佐渡に帰っていた時にある考えが、天から私の頭に降りてきた。それは、オヤジの兄である“K山のおじさん”に会っておかねばならないという強い指令であった。次男のオヤジが生きていれば84歳になるから、長男であるおじさんはもう90歳近くになるはずだ。私の長男の虎太郎が小さい頃はよくK山に連れて行き、手打ちのそばをご馳走になった。また、あるときはアメリカ人のジムと中国人の趙さんを連れて行って驚かれたこともあった。しかし、虎太郎が大きくなると、いとこの子供たちや近所の同じ年頃の佐渡っ子たちを連れて、海での泳ぎや野球をして過ごすことが多くなった。そして、K山に行く機会も徐々に減っていったのだ。

おじさんに会ったのは、10年前のオヤジの通夜と葬式。さらに4~5年前、おじさんとおばさんが軽トラに乗っていて坂を踏み外して転落するという事故があり、その見舞いに病院へ行ったのが最後だった。さらに、K山の家にはもう14年も行っていない。だから、元気なうちにもう1度、顔を見ておきたいという気が突然、起こったのかもしれない。幸い、畑での作業が14時頃にケリが付いた日があったので、弟の佐渡屋次郎とまだK山に1度も行ったことがないといういとこのH嬢を連れて出発したのだ。このK山に行くのには、私の街から山道を登り、車で30分ほどかかる。その途中に、今回のテーマとなる「梨ノ木地蔵」がある。

いろんな表情をした地蔵たちはいったい何を思っているのだろうか

「梨ノ木地蔵」の由来については、説明板の写真を見ていただきたい。私の母親は少々、霊感が強くて信心深いので、よくここには連れてこられた。ここには私や弟、そしてあと1人の「身代わり地蔵」がある。実は私には、長男の下に8ヵ月で流産した長女の「はな」がいた。「はな」が流産したとき、母親が地蔵さんを作ってここに祭ってくれた。実にやさしい配慮であり、傷心していた佐渡屋太郎の心はどれくらい、その地蔵の存在に救われたか分からない。そのとき、私や弟の地蔵があることも初めて聞いた。奉納した1年間は堂内に置かれ、参拝者に見守られている。しかし、1年を過ぎると外に出され、他の多くの地蔵たちと一緒にされてしまうのだ。私はそれから数年間、「はな地蔵」が置かれた場所を覚えておいて、夏に帰るとお参りをしていた。

しかし、ある年にお参りに行くと、木下の根の上に置かれていた「はな地蔵」がなくなっていた。新たな地蔵が増えるごとに整理が行われ、その時に他の場所に移動させられたのだろう。近くを探したが、「はな地蔵」は見つからなかった。それまでは「はな地蔵」だけを拝んでいたが、それ以降はすべての地蔵が我が子のような気持ちになった。いま、「はな地蔵」はどこにいて、どんな状態になっているのだろうか。冬は冷たい北風に煽られ、雪の下に埋もれることもあるだろう。しかし、春は桜の花びらが舞い、心弾むような暖かい風に包まれることもあったはずだ。そう思わないと、私の心ははち切れてしまいそうだった。あれからちょうど20年が経っている。生きていれば、少し生意気でピチピチの「20歳の女性」になっていたはずだ。

しかし、物言わぬ「はな地蔵」はその間に、顔の彫りは摩耗し、もしかしたら首が落ちているかもしれない。この落差は、いったいどういうことだろう。「はな地蔵」が摩耗していったように、私の「はな」に対する思いも次第に弱いものになろうとしていた。しかし、佐渡から帰って、この「梨ノ木地蔵」の写真を見ていたら、また「はな」のことを思い出した。実際の「はな」の顔は、私と先日別れたばかりの元女房のお母さんしか見ていない。そして、死んでからの年数を数えていて、今年ハタチになることに気付いた。その瞬間、「ハタチのはな」の顔が目の前に浮かんできたのだ。そして、急に「はな」のことが身近に感じられるようになった。「K山に行け」という指令は、もしかしたら「ハタチになった私を見に来て」という「はな」からの強い誘いであったのかもしれない。

いま、私の目の前には「ハタチになったはな」の顔や姿が、ありありと浮かんでいる。あのとき、私は「はな」を連れて帰ってきたのではないかと思う。「はな」も地蔵を卒業し、観音菩薩の姿に成長してきたようだ。昔、この梨ノ木地蔵を盗んで、売ろうとした東京の人間がいたそうだ。しかし、持って帰ってから様々な不幸が相次いで、そいつの身の回りで起こった。それで怖くなり、地蔵を戻しにきたという話も聞いたことがある。

年代の古いものは顔が摩耗し、首の落ちたものもある

私は地蔵から魂だけを抜き、京都に連れて帰ってきた。それは「はな」が望んだことでもあった。決して、私が誘拐してきたわけではない。せいぜい、これから仲良く暮らしていこうと思う。それにしても、この佐渡の梨ノ木地蔵は、実にワイルドな風習である。一度、冬に佐渡へ帰ったとき、暗い境内で雪に埋もれかかった「はな地蔵」を見たことがあった。これは親にとって、何とも残酷で、心が切り刻まれるような“痛い”光景であった。そのとき、佐渡の厳しさを改めて思い知らされた。

こんな寄り道をしながら、私たちはK山の家に着いた。おじさんもおばさんも元気だった。ただ、おじさんは足が腫れて、ソファに横になっていた。原因不明だというが、もしかしたら壊疽かもしれない。さらにおじさんが掛かっている医者は、あまり腕が良くないと母親が言っていた。なるべく早く、国立の佐渡病院に行くことをこの場から進言したい。そのおじさんと話していたら、窓の向こうに小屋が見えた。昔、トイレとして使っていた建物で、今は物置きになっているという。私にとっては思い出深いトイレである。

もう時効なので、その話をして笑わせようと思ったが、少し失礼かもしれないと止めておいた。しかし、いまとても披露したくなった。これも記録として残しておいた方がいい。私が小学1年生か2年生のとき、正月に両親とK山の家に遊びに行った。両親は夕方になって帰るといったが、私はいとこのTちゃんとの遊びに夢中になり、何日か泊まっていくと言った。怒った父親は「もう帰ってくるな」といって山を降りていった。私は何不自由なく遊んでいたが、1つだけ怖いものがあった。それが窓の向こうにあるトイレだった。

当時は汲み取り式だったが、そんなことは我が家と同じだったので驚きはしない。問題はその下にある排泄物の状態だった。多分、冬で雪が2mも積もっていたので、汲み取りができなかったのであろう。積み重なった排泄物はマッターホルンのような急峻な山となり、その山頂は便器から顔を出すくらいになっていた。それは便器をまたいで腰を下ろすと、尻の穴を突き破るような勢いであった。トイレは2室あったが、運の悪いことに両方ともそんな状態であったのだ。幼い佐渡屋太郎にとっては、衝撃的な光景であった。ここで排泄をするどころか、トイレの戸を開けて、そのおぞましい光景を見ることも2度とできなかった。

山に囲まれるように佇むK山の家。トイレ小屋は一番奥にあって見えない

それからは、必死になって大便を我慢することにした。しかし、おじさんとおばさんはあれを食べろ、これも食べろと勧めてくる。それは恐ろしいくらいの執拗さであった。当時、私の赤飯好きと餡餅(あんもち)好きは有名で、おだてられるといくらでも食べていた。しかし、そのときは油汗をかき、はちきれそうな腹を抱えながら、必死で赤飯と餡餅に向かい合っていたのだ。その時もトイレのことは言い出せなかった。そして、何日後かに、ついに我慢の限界点を迎えた。一応、トイレに向ったのだが、戸を開ける勇気もなく、その前で漏らしてしまった。その量は半端なものではなかった。

仕方なく、それをパンツに包んで縁の下に投げ入れた。縁の下には稲を干すハゼ木が突っ込まれており、いずれ発見されることになるだろう。何か非常に悪いことをしたような気がした。そんな事件があった後、急に家に帰りたくなった。しかし、ここで帰ると言ったら、おじさんやおばさん、そしてTちゃんは気を悪くするかもしれない。そこで私にとって最後の頼みの綱は、当時はまだ生きていたK山のばあちゃんであった。ばあちゃんは働き者であったが、腰が曲がり耳も遠かった。その遠い耳に口を付け、「帰りたい」と泣きながら佐渡屋太郎は訴えたのである。

すると、ばあちゃんは何も言わずに立ち上がり、身支度を始めた。そして、玄関まで行くと、私の長靴に唐辛子を何本も入れてくれた。それから後ろも見ずにどんどんと歩き出したのだ。私も遅れまいと駆け足でその後を追った。当時は積雪量も多く、車もあまり走っていなかったので、曲がりくねった山道に積もった新雪を踏みしめながら歩いた。歩くと長靴の中の唐辛子が暖かくなってきた。耳の遠いばあちゃんとは一言も交わすこともなく、静かな雪景色の中を懸命に歩いた。その光景を今でも思い出す。結局、3時間も歩いたのだろうか。やがて、懐かしい我が家が見えてきた。

その前に来ると、ばあちゃんは手で「行け」という合図をして、私の家に寄ろうともせずに、今来た雪の道をまたすたすたと引き返していった。あの時の小さな後ろ姿は、いまでも瞼の裏に焼き付いている。これが私とばあちゃんの秘密の“逃避行”であった。ウンコが取り持つ奇妙な縁だ。このとき、私はばあちゃんの凄さと無言の契(ちぎ)りというものを知った。その後、耳が遠いことで他の親類の子供たちがばあちゃんを馬鹿にすることがあったが、そのたびに容赦なくぶちのめした。そして、ばあちゃんに目で合図をすると、いつもニコニコと笑っていた。その後も、ほとんど話はしなかったが、目と目でお互いの信頼は確認し合っていたと、幼い私は思っていた。そして、ばあちゃんはそれから10数年後、私との2人だけの秘密を胸に抱え、彼岸に向かってあの雪道を歩いたときのように、すたすたと歩いて行ってしまった。

14年振りに訪ねたK山の家の前で思索にふけっていたおばさん

こんな高尚な話の後にするもの不謹慎であるが、弟の佐渡屋次郎もまたK山で、排泄に関わる事件を起こしている。これも家系なのだろうか。弟は新婚早々、嫁のYちゃんを連れて、K山に行った。可愛いYちゃんを見て、K山の一家は大歓迎をし、弟はしこたま酒を飲まされた。私の場合の赤飯や餡餅もそうであったが、山の人は歓迎の意を表すために、食べ物や酒を無理強(じ)いする傾向がある。それで弟はフラフラになり、トイレに行くと言って外へ出ていった。その頃もまだ外のトイレを使っていたようだ。

しかし、しばらくして気付いて見ると、弟はいつまで経っても帰って来ない。トイレにでも落ちたのではないかと、懐中電灯を持って皆で探し回ったそうだ。しかし、弟の姿はどこにもなかった。仕方ないので、その晩は酒の酔いもあって皆が寝てしまった。そして明け方、さすがに心配になったYちゃんが敷地の周りを探したところ、朝靄(あさもや)の中で変わり果てた弟の姿を発見して凍りついた。何と弟は、以前にニワトリを飼っていた小屋の中で倒れていたのである。それも尻を丸出しにしてウンコを垂れ、口からはゲロを吐き出していたという。この姿を金網越し見て、新婚早々のYちゃんはどのように思ったのだろうか。

これも佐渡屋家の不名誉な伝説の1つである。しかしこの件に関しては、未だにYちゃんは口を閉ざしている。一方、夏に帰ると今でもこの話をして、我が家は弟以外の皆で笑い合っている。幸い、弟も高校生と中学生の娘を持つまでになった。Yちゃんの寛容な心に、私たちは佐渡屋家を挙げて感謝しなければならないだろう。しかし、K山はワイルドな風習に満ちている。Tちゃんが青年団長のとき、その集会について行ったことがある。集会場は古いお堂のようなところだった。そこで大きな盃に日本酒をなみなみと注ぎ、飲み干しては次に回していくのだ。宮古島のオトーリのようなものだ。酒好きの佐渡屋太郎にとっては、格好の場であった。次第に気持ちよくなってきた。しかし、飲み終ったヤツは、次々と外へ出て行ってまた戻ってくる。そしてその飲み回しは、いつまで待っても終わらないのだ。

それは、団長であるTちゃんが終りを告げない限り、延々と続くのだという。さすがの私も気持ち悪くなって、外へ出てみたら、数人が涙を流しながら、ゲロを吐いていた。しかし、Tちゃんは一向に終了宣言をしない。この時ばかりはTちゃんの顔が鬼に見えてきた。その晩は皆が乗ってきた車の中で、死んだようになって寝た。こんな厳しい掟のなかで、皆が支え合いながら山の村を守ってきたのであろう。そして、ばあちゃんもその厳しさの中で、鋼(はがね)のような肉体と精神を鍛えてきたのだと思う。トイレに入れなかったり、ニワトリ小屋で寝ているうちは、まだまだ修行が足りないということである。(佐渡屋太郎)

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