遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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山を崩す(2012佐渡日記①)【佐渡屋太郎-vol.261】

手前にある第1の山と、その土を運ぶ佐渡の原住民ではない、弟の佐渡屋次郎

いまは12年8月20日(月)の16時20分。8月11日(土)から17日(金)までの7日間、故郷の佐渡に帰ってきた。本来は19日(日)までいるつもりだったが、弟である佐渡屋次郎の車で一緒に帰ってくるため、あいつの日程に合わせることにしたからだ。お陰で私の分だけで、米=30kg、植木苗=ダンボール2箱分、本=ダンボール1箱分、フォークギター=1本、衣類=キャリーバック1個分、土産や雑貨=ダンボール1箱分など、大量の荷物を佐渡から持ってくることができた。

今日は朝から打ち合わせで京都へ行き、帰りに扇風機を買ってきた。いままで居間にあるものを必要に応じて持ってきて使用していたが、この暑さでは常備しなくては仕事ができなくなった。それで仕事場専用のものを買ってきたわけだ。大型の扇風機であるが、在庫一掃セールなので2000円でいいといわれ、大いに得をした気分になっている。さっきまで、その扇風機にあたり、氷を一杯いれた麦茶を飲みながら、佐渡での出来事を思い出していた。何とも幸せな時間であった。そして私はこの幸せな風のことを、“2000円の風”と名付けることにした。

ご察しの通り、いま佐渡屋太郎の頭は“佐渡ボケ”の状態にあり、物を考えることがひどく面倒くさくなっている。したがって、また例年のごとく、佐渡日記でも書きながらリハビリをしていこうと考えているところだ。これまでの佐渡での作業を振り返ってみると、09年8月=京都からの引越し荷物の受取、同年9月=引越し荷物の整理、10年6月=ジャリ運び、10年8月=籐ツルの撤去、11年8月=竹薮整備、木の枝落としという流れで進行してきた。

作業が終わって平坦に均された第1の山。山が撤去されて随分と見晴らしがよくなった

そもそもこうした重労働が始まったのは、私が引越しのため、自分の荷物を半ば強引に佐渡へ送ったことがきっかけになった。その立場の弱さから、母親の命令に逆らえなくなり、ジャリ運びを行なうことになった。このとき母親の頭の中で、息子たちは“労働力として使える”という新たな発想が生まれたのだと思う。その一方で、私は10年8月に偶然、竹薮を中心にして猛威を振るう“籐ツル”の存在を目撃した。その惨状を見たとき私の頭の中で、父が死んでから半ば放置されていた“畑の楽園”に、人の力による管理が必要であることを痛感させられた。

そして、11年8月に弟の佐渡屋次郎が参戦することによって、“畑の楽園”の整備は、佐渡屋家における夏の定例行事へと定着していくことになったのである。この3年間における急激な状況の変化について、先程から“2000円の風”にあたりながら、しみじみと回想していた。私にとっては実に意外な展開であった。本来なら、子育ての終った佐渡屋太郎の夏の帰省とは、先祖の墓参りという義務を果たすこと。そして、“畑の家”に安置した2万冊に及ぶわが蔵書と再会することに当てられるはずであった。それは、これまでの人生をしみじみと振り返る“静かな時間”を過ごすことでもあった。

それが一転して、なぜ大量の汗を流し、筋肉痛に見舞われながらの、過酷な肉体労働の日々になってしまったのか。この点をさっきからずっと考えていた。1つ目の原因は、生前に見境なく木を植えまくった父の所業にある。この問題のすべてはそこから始まっている。その父が死んでから、今年は10年目の夏を迎えることになった。この10年間に、植えた木々がどれほど成長したかを、父は見ることができなかった。それは不幸というべきか、幸せというべきか、いろんな判断の仕方があると思う。

同時に、その過酷な管理作業にも参加できない。父が生きていたら、どのような伐採方法を取るのだろうか。この点には個人的な興味がある。多分、一人でコツコツと枝切りをしていたと想像する。もし父が生きていたら私と弟は、これほど大胆に幹や枝を切り落とすことができなかったはずだ。それほど私たち兄弟は、父が植えた木を切りに切りまくったのである。父が生きていたら、木の枝にさえ、触らせてもらえなかったのではないかと思う。

第1の山の撤去されたあとを反対の北側から見たところ。薄色の土は山を切り崩して均らした部分

2つ目の原因は、母も私も弟も何やかやと言いながら、結局は“畑の楽園”を心の底では愛していたことだ。私が2年前、“籐ツル”を見て異常な闘争心を駆り立てたのも、この楽園を守りたいという本能的な情動(エモーション)が働いたからだと、今になって思い返している。また、それまで佐渡の友達と連夜のように飲んでいた佐渡屋次郎が、人が変わったように畑へ通うようになったのも、何か彼なりに惹きつけられるものや使命感があってのことだろう。一方、母は父が死んでからも畑やその周辺を、綺麗に保っておくという義務感に支配されている。田舎ではだらしなくしていると、何を言われるか分からないからだ。しかし、自分ではその作業の全てを行なうことができない。そこで息子たちに指示を出し、自分の理想の形に近づける試みを実践しているわけである。

このように三者三様の“畑の楽園”に対するスタンスはあるが、この楽園を父が生きていた頃のような状態に維持しておきたいという思いは共通している。そして、その思いが3人を、過酷でときには危険な作業に立ち向かわせる原動力になっているのである。何と美しい“家族愛”ではないか。作業が過酷であればあるほど、3人の連帯は強まり、この作業に参加したくてもできない父の存在感が増してくるという不思議な構造になっている。ここまで計算して木を植えたのなら、父は稀代の“策士”である。しかし、私が見る限り、単なる地方に住む収集癖のある“おっさん”であった。

さて、今年は昨年にも増して過酷な作業となった。その理由は、積み上げられた土の山を切り崩すという“土方作業”が加わったからだ。しかも、その山は2つもあった。それが今回のテーマである。この夏の共同作業は、この山の切り崩しと木の枝切りや倒れた竹の撤去。私的な課題としては、植木苗の採集、本の整理と持ち帰り本の選択、3年前に送った引越し荷物の整理、そのうえ母の調理助手までやらされて、さらにそれら全てをほぼ完璧にやりこなしたという充実の夏期休暇となった。

お陰で、いま指先は腫れて従来の1.5倍くらいの太さになり、手足には多くの切り傷が付き、私の体は文字通り“満身創痍”の状態になっている。また、外見だけではなく、手足は筋肉痛に見舞われ、腰は重い鉛を抱えているようで背中をまっすぐにすることも痛くてできない。さらに、今年は佐渡で大阪風にいうと“メバチコ”、佐渡風にいうと“メグリ”ももらってきた。いま、左目が“お岩さん”のように腫れている。これが蚊に刺された外傷によるものか、汚れた手で目をこすったことによる内症なのかも分からない。とりあえず、ホウ酸による消毒を行なっている始末だ。

第2の山はこの池を掘り下げたときに出た土で作られた

さて、今回のテーマとなる山の1つ目は、畑の東側通路に積み上げられた土盛りであった。これは母の知り合いが置いていったものであるという。捨て場所がないかというので引き取ってやったというが、少なくとも4~5年は置いていったそのままの状態になっていた。母は知り合いがそのうち通路へその土を拡げ、均(な)らしてくれると思っていたという。何事も最後まで“詰め”を行なわず、自分本位の思い込みで放ったらかしておく悪癖が母親にはある。その悪癖によって、これまでいろんな事件や問題を起こしてきた。

まさに、今回もその悪癖の典型である。多分、その知り合いは引き取ってもらった土を均すことなど、考えてもいないだろう。その場合は、「均らしてくれるのなら、引き取ってやる」と、はっきり言わなくてはならない。それでいて、その知り合いのことを怒っているのである。まったく始末の負えない人間である。今更言っても直らないけれど一応、「その全ての責任は、あんたにある」と私は指摘しておいた。そして結局、その“均らし”の作業は、私たち兄弟に回ってきたのである。

その山を切り崩して一輪車に積み、通路に均等に撒いていくという方法を採ることにした。私と弟が山を切り崩して土を一輪車に積み、弟がそれを通路の奥から順に撒いていく。それを母が鍬で均していくという役割分担だ。汗が滝のように流れ、息が切れ、休憩時には狂ったように麦茶を飲みまくった。いくら飲んでも、喉の渇きは癒えることがなかった。途中、熱射病と心臓破裂で死ぬかと思ったが、2時間くらいでその作業は終了した。これが第1日目の午前中に与えられた第1の課題であった。

午後は2つ目の山への挑戦である。この山は、水溜の池を大きくするため、機械で掘ってもらったときに出た土の山であった。畑の北東の隅に積み上げられていた。この工事を行なったのは、もしかしたら父がまだ生きていたころではないかと思う。池の周りに竹垣が組んであったが、こんな作業は母にはできない。そうであるとするなら、この山はもう10年以上も放置されていたことになる。この山に関する母の指示は、ここに積み上げられた土を、竹薮の横にある焼却場へ持って行けというものであった。

池の土を積み上げてできた第2の山と背後にいる“ゆうだけ番長”

そのためには、第1の山の土を均らした東側の通路を通り、3年前に私が均らしたジャリ道を抜けて行かなくてはならない。ほぼ50mの距離がある。しかもその道は上り坂になっていて、いま均らしたばかりの土に一輪車のタイヤが埋まる可能性もある。私はその指示を聞いていて、“言(ゆ)うだけ番長”という言葉を思い出した。それは、懐かしき漫画『夕やけ番長』(梶原一騎/原作、荘司としお/画)を文字(もじ)ったもので、いまは民主党の政調会長になっている前原誠司氏のニックネームになっている。まさに母は言うだけで、自分がその作業をしないものだから、作業の辛さや効果を深く考えることなく、好き放題のことを妄想している。

その“ゆうだけ番長”に対し、私は「他の土地より少し高くなるが、山を均らすだけでいいのではないか」という提案をした。同じ奴隷である弟も、その意見に賛成した。ただ、均らすだけと言っても、その作業は実に過酷なものであった。スコップで掘った土を低い方の地面に向かって放り投げていく作業を、炎天下で黙々と続けなければならない。母はその土を池の反対側の少し低いところにも持っていきたいというので、一輪車で運ぶ作業も追加された。その作業も2時間くらい掛かったであろうか。地面は見事に平坦になり、畑として使えそうな立派な区画となった。

平坦に均された第2の山。少し他より高くなったが、十分に畑として使える

母はちょうど北東側の境界線に当たるので、果樹でも植えようかと言っていた。私は自分が好きなナシやモモを提案したが、虫が付きやすいとか手間が掛かるということで全て却下されてしまった。一体、どんな果樹を植えるのだろうか。来年以降の楽しみがまた1つ増えた。こうして、2つの山は均され、随分と見晴らしがよくなり、活用できる土地も増えた。母の懸念も山のように切り崩され、平安な気持ちになったことであろう。昼飯まえに、この2つの課題をクリアしたことは、実に順調な滑り出しであった。このあと、14時すぎに遅い昼食を採るために、近くの冷房の効いた中華料理屋に行き、やっと人間らしい気持ちを取り戻したのであった。なお、京都に帰ってきてから雑用に追われ、アップが1週間おくれたことをお詫びしておきたい。(佐渡屋太郎)

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