遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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小葉田先生との思い出【佐渡屋太郎-vol.253】

『島唄の奇跡-白百合が奏でる恋物語、そしてハンセン病-』(吉江真理子著、2005年、講談社刊)

いまは12年6月28日(木)の16時25分。いよいよ月末の締切り期に入っているが、何だか気合いが乗ってこない。昨日は短い原稿を仕上げて送り、これで波に乗れるかと思ったら、今日は長い原稿で引っかかってしまった。考えてみたら、このブログの原稿も30日(土)までに書かなくてはならない。そこで順序を変更し、このブログを月末に向けてのジャンピングボードにすることにした。

前回はタケノコのことを書いて、ややすっきりした。しかしあと1つ、「本」のことが、ずっと胸の底でモヤモヤしていた。これを書いて吐き出してしまえば、爽快な気分で他の原稿に向かえるのではないかと思ったわけだ。ただ、この件は非常に永くなるので多分、本題には辿りつけそうにない。したがって、パチンコに関する記事を読みたい方は、今回はパスしていただきたい。本題に関しては、これを書いた後ですぐに着手したいと思っている。

さてその「本」とは、与那原恵氏が書いた『美麗島まで―沖縄、台湾 家族をめぐる物語-』(2010年、ちくま文庫)というものである。実は、ここに辿り着くまでにもいくつかの変遷があった。いま考えれば、直接の要因となったのは、部屋の片隅に積み上げてあった『ヤマト嫁-沖縄に恋した女たち-』(吉江真理子著、1999年、毎日新聞社刊)であったと思う。それを読み終わって、この人の年齢が知りたくて調べているうちに、『島唄の奇跡-白百合が奏でる恋物語、そしてハンセン病-』(吉江真理子著、2005年、講談社刊)という著作があることを知り、アマゾンで注文して読んだ。

『街を泳ぐ、海を歩く-カルカッタ・沖縄・イスタンブール-』(与那原恵著、1998年、講談社文庫)

力作であり、名作であった。著者の1つの疑問がどんどんと輪を拡げ、沖縄や石垣島に秘められた歴史の暗部に誘い込んでいく。そこで、これまた部屋の片隅に積んであった与那原氏の『街を泳ぐ、海を歩く-カルカッタ・沖縄・イスタンブール-』(1998年、講談社文庫)を読んでみた。そのなかでカルカッタのハウラー橋での印象的なシーンがあった。私もハウラー橋には強烈な思い出を持っている。この本の中にある著者の行動を見て、面白い感性を持っている人だと思った。それで経歴を調べるうちに、前記の著作があることを知り、アマンゾンで注文して読んだ。力作であり、名作であった。

彼女たちの著作は以前、私が沖縄にはまり込んでいるときに、何冊か読んだ記憶がある。そのときは、書いてある内容に興味のほとんどがあったため、著者に関しては失礼ながら“沖縄好き女の子”程度の認識しかなかった。しかしその後も、いろんな取材を続け、沖縄を中心にした著作を発表していたようだ。そして、両人とも書き始めてから30年近くの時間が経ち、地道に沖縄を掘り続けていくうちに、これだけの名作に辿り着いたことを知った。これは私にとっても大きな感動だった。それだけ沖縄自体が数奇な運命を辿ってきたとも言えるし、それにずっと寄り添って沖縄のことを考えてきたこの人たちの継続的な思いが、大きな感動を生む著作となって結実したのだと思う。

私はまだ懲りずに「感動」ということを、考え続けている。パチンコとはまた別な次元ではあるが、いま「時間の経過」と「偶然」ということを考えている。これも「感動」の大きな要素となる。私と同年代である2人の女性が、沖縄、石垣島、台湾を舞台に、実在した人たちの“時間”を遡っていく。その作業にも長い“時間”を必要としたし、いくつかの“偶然”がなくては真相が究明されなかった。いわゆる“Seek and Find”で、まるで冒険のようなスリリングな緊張感と、闇に隠された事実の全貌が解き明かされたときの静かな感動が、この2冊の本には詰まっていたのだ。

『美麗島まで―沖縄、台湾 家族をめぐる物語-』(与那原恵著、2010年、ちくま文庫)

それで、話は『美麗島まで』に戻る。これはいわゆる“ルーツもの”で、東京で生まれた著者が、父母の故郷である沖縄・首里、さらに母方の祖父が医師として赴任したロシア、医院を開業した台湾、そして戦後に帰ってきて建設した那覇の“オランダ屋敷”までの足取りを辿っていくノンフィクションである。著者は12歳で母を亡くしている。そして、この本を書き始めたときは、父も死んでいた。頼りになるのは、母が残した写真アルバムと様々な文献、そして当時を知る人たちの証言である。

祖父が台湾で開業した医院は、文化サロンのようになっており、多くの著名な人たちが訪れた。そのなかに、小葉田敦という歴史学者がいた。それについて著者は、「南風原朝保(祖父)は、当時の台湾でブームとなっていた『沖縄学』の内地から来た研究者たちと熱心な交流をはかっていた。雑誌『南島』には著名な海事学者・須藤利一や歴史学者・小葉田敦(一九〇五~二〇〇一)らも加わっていた。小葉田は昭和五(一九三〇)年、その二年前に設立された台北帝国大学助教授に着任しているが、彼と琉球史のかかわりのなかでもっともよく知られているのは、十五世紀から伝えられる四百四十年にわたる琉球王国の外交文書『歴代宝案』の発掘、写本の作成である」と記している。

取材で奈良に行ったとき、撮影した近鉄奈良駅前の行基像

ここまで読んで、私の心臓は急に激しく脈打ち出した。さらに文章は、「歴代宝案は琉球王府が保管していたが、廃藩置県後に明治政府によって東京の内務省に保管される。この文書は関東大震災で消失してしまうが、昭和八(一九三三)年、久米村の人たちによってもう一組、秘匿されていることが明らかになる。小葉田らは台北帝国大学在学中の昭和十一(一九三六)年に、この久米村保管の歴代宝案からほぼ完璧に近い形で写本を作った。現在、琉球王国外交の全容が解明されているのは、この台北帝国大学の写本がいまに残されたことに負う部分が大きい。というのも久米島保管の歴代宝案もまた沖縄戦の最中に散逸してしまったからである」と続いている。

そして、最後に「小葉田が『その時代の直接の文書として『歴代宝案』のごときは稀有なものといわねばならぬ』(小葉田敦『史林談叢』)と喝破したことの重みをいま痛感する。小葉田は終戦後二年目に台湾を離れた。その直前に輸送船が米軍の爆撃によって沈没し、妻子を失うという悲劇も体験しているが、それについて語ることはほとんどなかったという」と締めている。この『史林談叢 史学研究60年の回想』という本は、93年に私がいた出版社で作ったものだ。私は打ち合わせで、当時88歳であった小葉田先生のお宅を何回も訪問した。

何回目かの打ち合わせの折に出身地を聞かれ、私は「佐渡です」と答えた。そのときの先生の驚いた顔をいまも思い出す。そして、「では、あんたは本間寅雄、田中圭一、児玉信雄を知っているか」という質問をされた。「本間寅雄は佐渡博物館の館長で、田中先生と児玉先生は私の高校の日本史の先生で、児玉先生からは直接、習ったこともあります」と答えた。先生の専門は、貨幣史・鉱山史・貿易史で、佐渡金山に何回も研究に訪れ、地元の郷土史家とも密な関係を持っていた。69年には『日本鉱山史の研究』で、日本学士院賞も受賞している。それから私は何回も先生に呼ばれ、学士院会員でもあった大学者の前で、佐渡のことを語ることになるわけである。

それから、会うたびに「死ぬ前にもう一度、佐渡に行きたい。あんたが連れて行ってくれんかね」と先生は言うようになった。「連れて行ってもいいですが、佐渡で何かあると、帰りは“クール宅急便”になりますよ」と私は答えておいた。少しも偉ぶることがなく、人の話を熱心に聞き、子供のような好奇心を持った人だった。先生のお宅を出るとき、いつも爽やかな気持ちになった。偉い人というのは、こういう人のことをいうのだなとそのとき思った。その後、私は多くの人と会って話したが、あのときのような“爽快感”を味わうことはなかった。

奈良公園で鹿と一緒に写真撮影する人間の親子

戦争が終わったとき、先生は家族を先に日本へ帰すため、基隆(キールン)の港に行った。人でごった返す輸送船に、何とか家族を乗せ、岸壁から離れていく船を見送った。そのとき、どこからともなく米軍機の爆音が聞こえてきて、目の前でその輸送船が攻撃された。そして、火ダルマとなった船は基隆の沖合いで、音もなく沈んでいった。その船には先生の奥さんと、3人の息子が乗っていた。それを当時42歳であった先生は、じっと見つめていた。こんなことが実際にあった。これが歴史である。このことは、知り合いであった先生の孫弟子から聞いたような気がする。先生のことを思い出すたび、この光景がまるで自分が体験したことのように、目の前に鮮明な映像となって浮かんでくる。そして、そのたびに私は泣けてくる。こんなことがあっていいのだろうか。しかし、これが歴史である。

先生の本は500部刷って、100部が配り本ということで、先生の買い切りとなった。先生が再婚した奥さんから、「佐渡屋さん、本を書いてお金を払うというのは、一体どういうことなんですかね」と聞かれた。話好きの面白いおばあさんであった。いつも私の佐渡の話を、そばに座ってニコニコして聞いていた。その問いに対し、私は「それが世間というものです」と答えておいた。その意味が、奥さんに分かったかどうか分からない。しかし、その本はほんの数ヵ月で完売となった。佐渡からも大量の注文があった。ここで私はまた、泣けてくる。しかし、重版しようとしたら、社長の許可が下りなかった。これが世間というものである。

鹿とともに写真撮影をする人間の若者

私は95年にその出版社を辞めた。先生は結局、佐渡に行くこともなく、01年8月8日の末広がりの日に、96歳の“大往生”を遂げた。そして、佐渡博物館の館長であった本間寅雄氏(筆名=磯部欣三)は06年に、79歳で亡くなった。『佐渡金山』(1992年、中公文庫)、『良寛の母おのぶ』(1986年、恒文社刊)など多数の著作がある。定説を覆す反骨精神と、何年にもわたって取材を繰り返す粘り強さは、佐渡人の典型であると私は思う。田中先生は佐渡高校教諭から筑波大学の教授に栄転し、退官後は群馬県立女子大学教授となった。87年には『佐渡金銀山の史的研究』で、第9回角川源義賞を受賞している。

ウィキペディアには「身長190cm、体重100kg以上と日本人としてはかなり大柄な体格をしており、高校時代には柔道部に所属し、県大会では優勝を勝ち取ったとされる」とあるが、これはまったくの間違いである。丸顔で小太りの小柄なおっさんである。誰がこんなことを書いたのであろうか。もし、佐渡人の証言なら信用しない方がいい。中国人の如く「白髪三千畳」で、何事も大げさに語るのが佐渡人の特徴である。したがって、私のこの記事も、話半分に聞いておく方が賢明だろう。児玉先生の情報はないが、まだご存命であることを願っている。時間はとめどなく流れていく。歴史は残酷であるが、それが歴史であるということなのだろう。

今回は前フリに力が入りすぎて、本篇を書くスペースと精神的な余力がなくなった。お陰で私の気分はすっきりとしたが、読者の怒りの顔が見えるようだ。明日、当初に想定していた「パチンコ村の構造(後篇)」を書くことにして、今回はこれで終わりたい。最後に、小葉田先生は99年に、『想い出の記 引揚を経験した一歴史家の足跡』という本を私家版で出している。どんな内容なのだろうか。さすがにアマゾンにも出品がない。また、コレクターとしての血が騒いできた。「時間の経過」と「偶然」が身に沁み、すっかり『美麗島まで』に、はまり込んでしまった佐渡屋太郎であった。(佐渡屋太郎)

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