遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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パチンコと「感動」について【佐渡屋太郎-vol.249】

成長したので一回り大きな鉢に植え替えたガジュマルの苗木

いまは12年5月31日(木)の8時45分。今日の佐渡屋太郎はこんな早い時間から、原稿を書いている。実は一昨日の29日(火)に、今年2月から“焦げ付いていた原稿”をやっと仕上げて、関係者全員の了解を取り付け、印刷所に回すことができた。長い間、この仕事をしていると、1年に1本くらいはこんなことが起こる。それをどのように解決へ導くかが、ライターとしての腕の見せ所でもあるのだ。しかし、今回ばかりは“仏(ほとけ)の佐渡屋太郎”もさすがに関係者の態度に怒りが心頭にまで達し、原稿を書く気になれず、放って置いていたものだ。

しかし、私は駆け出しのライターではない。そろそろ片付けなければならないと、雑誌の担当者や取材先、さらにその本社の担当者に電話を掛けまくり、心を殺して調整役に徹した。その結果、私の含めた4者が何とか前向きにこの問題を考えるまでになり、互いの意思を尊重する“合意点”を見出すことができた。そして、その線に沿って原稿を書き、無事に原稿チェックが終了したというわけである。これは私にとって大きな「感動」であった。つくづくこの仕事をしていてよかったと思う。そこで昨日は自分に褒美を与えるために、朝からホームセンターに土を買いに行き、2鉢のガジュマルの植替えを行なった。心が晴れ渡ったなかでの、「感動」の植替えであった。

そんななかで、別に書き続けている原稿にも思わぬ展開が生まれてきた。これは膨大な量の原稿であるのだが、今週は迷走に迷走を続け、当初の構想までもがぐらつき始めていた。しかし、今日の明け方、その解決策となるアイデアが、夢の中に出てきた。多分、“焦げ付いた原稿”を処理したことで、頭の中が整理されて余白ができ、その余白に天からアイデアが降りてきたのだと思う。そこで6時に飛び起き、忘れないうちにその概要をパソコンに打ち込んだのだ。いま「感動」が「感動」を呼ぶ展開になってきている。こういうときには畳み掛けて仕事をしなければならない。なぜなら、“流れ”がこちら側に来ているからだ。

先日、「靫公園バラ園」で撮ったバラの写真

それでこのブログも書く気になった。実は、週末にダイナムのプライベートブランド機(PB機)について書くことにしていた。しかし、前回に書いた「ホッケースティックグラフ」が頭の中から消えず、ここ数日は“感動”という言葉がグルグル回るような状態となった。考えていたのは、“遊技機”と“感動”と“リピート率”のことだ。佐渡屋太郎は大学で「演劇」を専攻してから、“感動”や“ドラマ”は常に身近で接してきた大きなテーマであった。さらに青春時代には、“感動”と“ドラマ”を追いかけて奔放な生活を続けたために、最後には父親からついに“勘当”されてしまったのである。これは“感動”と“勘当”を掛けている。念のため。したがって、“感動”という言葉を持ち出されると、過敏に反応してしまう性向があるのだ。

そのせいか、前回の「ホッケースティックグラフ」で検証された「満足」と「感動」の間に横たわる深くて暗い川ではない、高くて厳しい山のことを考えていた。「満足」と「感動」は一体、どのように違うのか。レストランで出される料理、ミュージシャンが発表する楽曲、私がよく読む書物、私の回りにいる人々、私が熱中している数々の趣味など、身の回りのことに置き換え、いろいろと自分なりに検証してみた。そこで分ったことは、確かに「満足」だけでは、次なる行動には結びつきにくい。逆に、「感動」したものは、その対象を貪欲なまでに追い求め、どんどんと自分のなかに取り込んでいく傾向がある。

卑近な私の例で申し訳ないが、食べ物で言えば、天下一品のラーメン、ルー・デリーのカレー。これは「うまい」という感動がまずあって、それから中毒のように通いだした時期があった。そして、今でも定期的に通い続けている。ただ、ルー・デリーは残念ながら、数年前に閉店してしまった。そのほか、本、音楽のCD、映画のDVD、フィギア、植木、釣り、キャンプなど、いまハマっているものとの最初の出会いには、今となってはもう明確に思い出せないが、大きな「感動」があったはずだ。また、ミュージシャンや作家など最初の出会いで「感動」を与えてくれた人たちの作品は、多少の期待はずれはあったとしても、その人たちが大きく期待を裏切らない限り、ずっと聞き、読み続けている。それほど、「感動」には大きな力があることを再確認した。

そこはかとない色気を感じさせるバラの花びら

さて、これから本題のパチンコと「感動」の話に入る。前回はスタッフの接客が、顧客の再来店意思に大きな影響を与えていることを見た。しかし、よく考えてみると、顧客をホールに引き付けている最も大きな要因は、遊技機であり、勝って儲けられるという期待感ではないかという結論に至った。いくら素晴らしいスタッフがいても、負けると分かっているホールに客は行かないからだ。その点で考えると、パチンコは実に「感動」的な要素を持った優れた遊技であることが分る。その「感動」の威力は、最盛期には3000万人の遊技客を擁し、一時期より減ったとはいえ、いまなお多くのパチンコファンを持っていることからも証明できるだろう。

それを前回の図式に当てはめて考えると、パチンコという遊技が持つ「感動」が、顧客の「再来店意思」(リピート率)を高め、多くの顧客を得ていることになる。要するに、パチンコ営業の根幹は、パチンコという遊技が本来的に持っている「感動」という要素にあるわけだ。では、その「感動」はパチンコという遊技のどの部分から生まれてくるのか。これも前回の顧客の回答を拝借すれば、「期待を超えるような出玉があった」からではないだろうか。ではなぜ、パチンコファンはホールに行く習慣を身に付けたのだろうか。多分、遊技を始めた初期の段階で大勝ちして、「感動」した経験を持ったからだろう。

こんな分りきったことを、何をいまさら言うのかと思っている人も多いと思う。ここから話を徐々に詰めていこうと思う。まず1つ目は、パチンコにおける「感動」の質と、「再遊技意思」との関連性だ。「感動」の質から言えば、パチンコで勝ったときの「感動」は他ではなかなか得られないほどの“強烈”なものである。これはギャンブルにも共通したものがある。さらにその「感動」は、他では見られないような強い「再遊技意思」に結びつくという特徴だ。

たとえば、パチンコで大勝ちした翌日は、時間が許せばまた同じホールへ行き、同じ台で打ってみる人は多いだろう。一方、釣りで大物を釣り上げたり、レストランで感動するほどおいしい料理を食べたとしても、翌日にまた行く人の比率はパチンコほど多くない。それには、時間的な制約や体内的なシステムもあるだろう。逆に言えば、身近で手軽なパチンコは、その気になればいつでも行ける環境がすでに出来上がっている。

見事に咲きそろったバラの赤と緑のコントラストがいい

では、パチンコで得られる「感動」はどれくらいの強さがあるのだろうか。正論を言えば、違った質の「感動」、価値の異なる「感動」を比較することはできない。それを承知で比較するとして、パチンコで5万円ほど勝ったときの「感動」、好きなミュージシャンや作家の新作から得られた「感動」、大物を釣り上げたときの「感動」、レストランでおいしい料理に出会ったときの「感動」を、血圧や脈拍などの“興奮度”で比較するとどうなるのか。パチンコで勝ったときの「感動」はかなりの強さを持っているように思う。

ただ、その「感動」は釘の読みやテクニックなどの要素が介在するが、多くの部分は偶然性に支配されている。また、本を読んで賢くなるとか、名画や名曲に接して人生を豊かにするという生産的な「感動」ではなく、ストレス解消や癒しのための非生産的な「感動」の部類に属するのではないかと思う。だから、パチンコやギャンブルの感動は“射幸心”(偶然の利益や幸福を得ようとすること。まぐれ当たりをねらうこと)などと言われ、あまり良いものとは思われていない。それどころか、この“射幸性”が高まると風紀や社会秩序が乱れると危険視さえされている。さらに、この「感動」の強さは当然の結果として、これまた強い「再遊技意思」を生み出すことになる。その結果、「パチンコ依存症」や経済的な破綻を引き起こす例も現れてくるわけだ。

たくさん撮ってきたバラの写真を2回にわたって掲載した

では、なぜパチンコという遊技が、これほど強い「感動」や「再遊技意思」を生み出すのか。確かに、パチンコやパチスロは面白いゲームであると思う。穴に玉が入れば気持ちいいし、絵柄が揃えば達成感を得られるだろう。しかし、その「感動」の源泉は、ゲームの結果が金品での報奨に結びつくからであると思う。大当りしても何も得られない純粋なゲームであったら、これほどの多くのファンは得られなかっただろう。それはゲームセンターに導入されたパチンコ機やパチスロ機の動向を見ればよく分る。

こうして考えると、パチンコという遊技の面白さや「感動」は、“換金”と大きな関係を持っていることが見えてくる。これが他のレジャーやアミューズメントと異なる点である。ゴルフや釣りに賞金が掛かっていれば、もっと遊技人口は増えるだろうし、逆に競馬やマージャンに当てたり勝ったときの見返りがなければ、あんな馬の競走を見に行ったり、徹夜で牌を並べる物好きはそんなにいないだろう。こうしてみると、パチンコの「感動」は勝った時の達成感とその見返りに、多くの部分を因っていることになる。そして、それはギャンブルの構造とほとんど変わらない。

では、ギャンブルはどうして大きな「感動」や強い「再遊技意思」を生み出すのか。それが、先の「射幸性」(偶然性)という言葉に結びつく。たとえば、ゴルフや釣りに大きな賞金が掛かっていたとしても、プロやセミプロなどの実力のある人がかなりの確率で勝ち取ってしまう。小説や音楽などヒットが出れば大きな報酬が得られるが、そんな才能のある人はごく1部に限られている。だから、一般の人はその作品を買い、創り上げられた「感動」を分け与えてもらっているのではないだろうか。

一方、ギャンブルは偶然性の要素を多く持っているので、誰でも勝てるチャンスはある。その可能性に賭けて出資し、スリルを味わって楽しみ、勝てば大きな達成感を味わって「感動」する。しかし、その勝負に負け続けても、強い「再遊技意思」に支配されて依存症となるケースもあり、家庭崩壊や財政破綻を招く危険性も多く孕(はら)んでいる。また、ギャンブルの技術を努力して磨いても、それが仕事や勉強のように着実な成果として現れにくい。対象となるギャンブル自体に、直接的な生産性がなく、多くの偶然性に支配されているからだ。したがって、ギャンブラーに対する社会的な評価も低い。

バラはどのように撮っても絵になるからうれしい

大体、こんなところがパチンコにおける「感動」の構造だろうか。しかし、世の中にはギャンブル好きは多くて、破綻しない程度にやっている分には、他から文句を言われる筋合いはない。ただ、強い「再遊技意思」が生まれるだけに、その点は十分に注意する必要がある。逆に、パチンコ業界はこの強い「再来店意思」に長い間支えられて、今日までやってきた。実に、恵まれた業態であったと言えるだろう。しかし、その「再来店意思」にも翳りが見えてきている。

その原因は、パチンコにおける「感動」が少なくなっているからだと思う。この「感動」とは、前述のように「遊技機よって期待以上の出玉を得る」ことだ。しかし、人間の脳は1度味わった快楽にはすぐ慣れて、さらに強い刺激でないと快楽を感じられなくなってしまう構造を持っている。まさに、井上陽水が歌う「限りない欲望」である。その結果、登場してきたのは歴代の“爆裂機”である。しかし、そのたびに規制が掛かり、一進一退の攻防を続けている。ただ、この路線を続けていくと、顧客が痛んでいくし、社会的な非難も高くなる。もうこの路線以外を目指すとしたら、出玉や換金額に限度を設けて、せめて「勝ち率」だけでも上げていくしかなくなる。

こうして考えてみると、パチンコ業界というのは、人間の“欲望”に乗った恵まれた業態であると感心する。しかし、あるときは、その“欲望”と戦わなくてはならない局面も出てくる。この“欲望”は人間の本能に根ざすものであるから、実に強烈なものだ。だからこそ、欲望に乗りながらも、限りない欲望を制御していくことが求められる。そうした毅然とした切り替えがないと、欲望に業界自体が押し潰されてしまう。逆に言えば、そうした制御を行なうことを条件に、稀有な業態の営業が許されているわけだ。

結局、分りきったことをなぞって、当たり前のところに着地してしまった。しかし、個人的には最後に“制御”という言葉に行き着いたことで、先が見えてきた。考えてみれば、この業界で最も欠けているのが、“制御”や“自制”ではないかと思い当たった。次回の遊技機価格の高騰に対する“PB機”の登場も、この視点で考えるといろんなことが見えてきた。(佐渡屋太郎)

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