遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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佐渡から“寒ブリ”がやってきた【佐渡屋太郎-vol.232】

撤収を始めた“旧事務所”の様子

いまは2月10日(金)の19時13分。今週は京都の伏見や向島、さらに広島や大阪での打ち合わせや飲み会などで、バタバタしているうちに過ぎ去っていってしまった。何とも時の経つのは早い。その中で嬉しかったのが、月末の原稿締め切りを経験することにより、“新事務所”が機能的に整備され、十分に対応していけることが実証されたことだ。移転や整理によって様々な資料が散乱したが、1本1本の異なった分野の原稿を書くうちに、関連の資料が落ち着くところに落ちついてきた。

さらに、各種の機材もいくつかの問題をクリアし、また新たな機材も買い足した。それによって、機能性は前にも増してアップしている。今日はNHKラジオで国会での予算委員会の中継を聞きながら、古い友人たちに移転のメールやFAXを送った。久し振りに落ち着き、満ち足りた時間を過ごすことができた。夕方、買い物に出掛けたあと、今も酒を飲みながら、NHKラジオを聴き続けている。なかなか渋くていい。

“旧事務所”から“新事務所”に運び込まれた荷物の一部

今週は不思議と親族との関わりが多い週であった。その発端は2月5日(日)に掛かってきた弟・佐渡屋次郎からの電話であった。嫁であるUちゃんのお父さんが亡くなったという。それで7日(火)に、広島での葬儀に参列することになった。昨年、お父さんの様態が悪くなったときに弟から連絡があり、佐渡の母とも相談して、私が佐渡屋家を代表して、葬儀にいくことになっていた。そのとき打ち合わせた内容をすっかり忘れてしまったので、母に電話して細かなことを確認した。何とも頼りない佐渡屋家の代表である。

翌6日(月)は用事で京都に行っていたら、息子から電話があった。昨年11月から勤めていた大阪の会社で正社員になれたので、京都から大阪に引っ越すという。付いては保証人として住民票など必要書類を集めておいてほしいとのこと。それから、京都の街を歩き回る羽目になったが、ギリギリで何とか書類を手に入れた。次の7日(火)は5時15分に起きて、広島行き。10時からの告別式に参列し、喪主であるUちゃんのお兄さんに挨拶し、弟夫婦と2人の娘たちとも昨夏の佐渡以来の再会をした。

私は葬儀で棺の中のお父さんの顔を見ながら、16年前になる佐渡の夏を思い出していた。弟夫婦が結婚した年の夏に、Uちゃんのご両親が佐渡へ遊びに来てくれたのだ。そのとき、山の中腹にあった「佐渡ニューホテル」のビアガーデンからお盆の花火を見た。親類の人々やその子供たちも一緒で、何ともにぎやかな集まりだった。私は花火の写真を撮ったのだが、うまく写っていなかった。ただ、そのとき何とか撮れていたご両親の幸せそうな写真を今でも持っており、その写真を見ながらこの原稿を書いている。

しかし、そのホテルも平成14年に廃業してしまった。ホテルの支配人の息子は私の高校の同級生で、オープンの1年前に東京から転校してきた。やがてブラスバンド部の部長になり、指揮者でもあった。いま、何をしているのだろうか。そして、私の父が10年前に死去し、Uちゃんのお父さんも亡くなった。一方、弟の長女は今年、高校受験であるという。時の経つのは実に早いものだ。ウカウカしていると、置いていかれそうな勢いだ。

その日は、葬儀のあとすぐ大阪に戻って打ち合わせを1件こなし、夕方から息子と会ってマンションの手続きを行い、梅田で飲んだ。家の中で飲むことはあったが、外で一緒に飲むのは初めてのことだ。息子が生まれた頃、一緒にキャッチボールすることと、一緒に飲むことを夢見ていたような気がする。その夜、息子は正社員になったこともあって、実に雄弁であった。その姿を見て、頼もしさを感じたのは親の欲目だろうか。

“新事務所”に拡げられた資料類の一部

2人のじいさんたちは死んだが、孫たちは確実に成長している。そして、あと数年経つと、この孫たちが佐渡屋家をリードしていく“主役”になることだろう。さらに、数年経って機会に恵まれれば孫たちは結婚し、私や弟夫婦にも孫ができるかもしれない。孫が生まれれば成長し、やがて私たちは確実に死んでいく。いよいよシナリオの“終点”が見えてきた。だから、死ぬまでの間に、“もう一花咲かせたい”と私は切実に思うようになった。いま、そのプランを具体的に詰めていて、近頃は夢にも出てくるようになった。自分でも抑え切れないような激しいエネルギーを感じる。

そんな矢先、佐渡近くを震源とする地震があった。2月8日(水)の21時01分に発生し、震度5強、マグニチュード5.6の大きなものだった。そのニュースを見たとき、ビックリした。私のエネルギーがその地震を起こさせたのではないかと、密かに実感したのだ。こんなことは人には言えない。私の“野望”が佐渡の地を揺るがせたようだ。幸い、さしたる被害がなくて胸を撫で下ろしている。

その後、Uちゃんから電話が掛かってきた。葬式へ行ったお礼である。その前に佐渡の母に電話をしているとき、ちょうど地震が起こったという。そのとき、母親は「いま、揺れているようなので、少し待ってくれ」と慌てふためいて叫んだそうだ。その情景を思い浮かべて、私は大笑いした。弟の佐渡屋次郎にも、その話を少し脚色して教えてやったら、大笑いしていた。ただ、その震源が佐渡屋太郎であったことは伏せておいた。

佐渡から送られてきた“寒ブリ”8キロの全貌

佐渡といえば、昨年暮れに佐渡から“寒ブリ”を送ってもらった。これが、今回のテーマである。やっと話がつながった。実は、これ以降の文章は1月5日(水)に書いたものだ。しかし、あまり身内のことを書き過ぎたので、掲載をためらっていた。ただ、おじさんである漁師のSちゃんと元やくざで今はタクシー運転手をしているTちゃん兄弟は、私の大好きな人物で、その“豪快な生き方”は幼かった佐渡屋太郎に大きな影響を与えた。今回は、過激な表現を削りながら、“寒ブリ”を仲介にした心暖まる物語を紹介する決心をした。以下、その文章を校正しながら、続けてみる。

さて、正月といえば、生まれ故郷である佐渡の味が恋しくなるが、昨年末に異変が起きた。それは、佐渡沖の寒ブリ漁がまれにみる“豊漁”で、10キロ以上の大物もどんどん上がっているという。ニュースによく出てくるのが、両津湾内の漁場の1つである黒姫沖。定置網の「大謀網」(だいぼうあみ)で、多くの漁師が網を掛け声とともに引き上げる。獲物が大きいだけに、その光景は見ていても豪快そのものだ。

そのニュースを見ていて、あることが閃(ひらめ)いた。私の親戚のおっさんの1人は、内海府で漁師をしている。小さい頃は夏休みになると、親類のにいちゃんたちと一緒に遊びに行ったこともある。一緒に泳いだとき、その泳ぎのうまさに、さすが“漁師”であると感心したことを憶えている。

そのおっさんには“伝説”がある。ある年、漁に出ていったとき、それを追うように台風が接近してきて、音信が途絶えてしまった。残された家族や親類は悲嘆の底に落とされ、一縷の望みにすがるしかなかった。しかし、2日経っても3日経っても、一向におっさんからの連絡はない。もうこれは諦めるしかないと皆が思い始めたとき、沖の方から1隻の小さな船がヨロヨロと港に入ってきたそうだ。近づいてきてよく見ると、甲板に何かがうずたかく積み上げられている。

頭と胴体を切り離された“寒ブリ”の無念な姿

ことの真相は、次のようなことだった。沖に行ったおっさんは、漁場で台風に遭遇して翻弄された。そのとき、無線もやられてしまった。しかし、その台風を何とかやり過ごしたとき、“イカの大群”に出会った。どんどん巻き上げても、海面はイカで埋め尽くされていたという。おっさんは狂ったようにイカを次から次へと巻き上げ、生簀が一杯になると、甲板に放り出していった。このときの興奮をどのように表現すればいいのだろうか。それはパチンコで、何十連チャンしたときのトキメキをも超えるものであったと想像する。

おっさんのアドレナリンは放出を続け、イカを採りまくった。しかし、甲板がイカで埋め尽くされると、ふと我に返った。“これ以上、釣ったら船が沈んでしまう”。そこでやっと正気に戻り、港に帰る決心をした。しかし、まだイカの大群は海面を埋め尽くしていた。後ろ髪を引かれる思いで、ポイントを後にした。そして、今にも沈みそうな船を騙し騙し、ヨロヨロと港に帰ってきたというわけだ。そのときのおっさんは満面の笑顔であったという。もう死んだものと諦めていた親族の悲嘆の表情とは好対照であった。

その笑顔を見て、親族は当初こそ喜んだが、やがて時が経つとともに、感情は怒りに変わっていった。おっさんの個性は“飄々”としているのが特徴だった。しかし、漁師を続けるのも金が掛かる。使った軽油代以上の水揚げがなくては採算が取れない。さらに、より多くの漁獲量を上げるために、大きな船を持とうとしたら、相当な投資も必要になる。これは決していい職業とは言えない。そして何より、命がけの危険が伴う。もともと百姓一族であったわが家系では、おっさんが漁師になることに、皆が“反対”であった。

そもそもおっさんは、佐渡屋太郎のばあさんの妹の息子である。その妹は、私の保育園時代の先生であった。妹は、漁師町出身で騎兵隊の隊長であった人と結婚した。その結果として生まれたのがおっさんである。おっさんは両津高校の水産科を出て、漁師になった。弟は佐渡高校を卒業し、関東の国立大学を受けに行ったまま行方不明となった。それから数十年後、その弟が佐渡に帰りたいと言ってきたとき、体には刺青(いれずみ)があった。

私の保育園時代の先生であったおばさんは、ヤクザであった弟(私にとってはTおじさん)に、「佐渡に帰ってくるなら、刺青を消してこい」と条件を付けた。弟は刺青をすべて焼き潰して、佐渡に帰ってきた。私が大学生の頃、佐渡に帰ったときにパチンコ屋に行くと、高校時代の音楽の先生であった通称“ベートーヴェン”とTおじさんは、いつも壁際でパチンコを打っていた。いま、その「佐渡センター」もなくなってしまった。Tおじさんはハンサムで、「足があと10センチ長かったら、石原裕次郎のように映画俳優になっていた」と言っていた。

考えてみるに、この兄弟は早世した漁師町出身であった“父親”のDNAが相当に入っている。長男は海の香りが忘れられずに漁師になった。そして、弟は血の気が多い漁師気質を受け継いで、東京でヤクザなった。弟は東京にいた頃はダンプの運転手で、佐渡に帰ってからは、タクシーの運転手になった。ある年、Tおじさんに両津の港まで送ってもらったが、私の町から20分で両津の船着場まで着いた。普通だったらいくら飛ばしても30分は掛かる。追い越し禁止車線をまたぎながらのスリル満点の運転であった。前を走るすべての車を追い越して、車は港に着いた。それはまさに芸術というべきテクニックで、命が縮まる思いをした。

出刃包丁がなかったので、力ずくで解体された“寒ブリ”の新鮮な部位

正直に言うと、私は小さい頃から一族において批判の対象になっているこの兄弟を、“憧れ”の気持ちを持って見ていた。その理由の1つは、生き方が豪快であり、エネルギッシュであること。ただし、採算は取れていない。2つ目は純粋であること。私のばあさんと父親が死んだとき、こんなに剥き出しの感情で悲しんでくれた人はいなかった。この兄弟は大声で、ばあさんと父親の偉かったことを語ってくれた。これは“仁義”である。心と心を剥き出しにした、本当の人間と人間の付き合い方を知っている。

随分、前置きが長くなったが、母親を通して、私はその漁師のおっさんに寒ブリを送ってくれと頼んだのである。私はおっさんがこの豊漁で、以前のイカと同様にアドレナリンを出しまくっているのではないかと思っていた。しかし、漁法は前述の通り、“大謀網”であった。小さな船しか持っていないおっさんは、網引き要員でしかないという。しかし、網を引くと何本かの“寒ブリ”を持って帰れるそうだ。その寒ブリを送ってもらった。実に見事な寒ブリであった。重さは8キロを超えていた。

刺身、ズケ(漬け)、しゃぶしゃぶ、ブリ大根、照り焼き、兜煮、バター焼きなど、あらゆる手法を駆使して、寒ブリをしゃぶり尽くした。8キロの寒ブリは相当な量であった。いまの心境を正直に言うと、寒ブリはしばらく見たくないというほどに堪能した。その料理を食べたあとに、古い写真帳を取り出して、小学5年生の佐渡屋太郎とおっさんが写っているモノクロの写真をY嬢に見せながら、シコタマ佐渡の思い出話を語ってしまった。しかし、どれだけ男と男のドラマをY嬢が理解したかは分らない。願わくば、あのWという漁村の海でもう1度、小学生の頃に戻って泳いでみたい。

ふるさとの味には、それによって喚起される豊穣な思い出がある。その思い出を噛み締めながら、思いは時空を飛び回る。あのころ少年であった佐渡屋太郎は、いつの間に“おっさん”になったのだろうか。その記憶の境目がまったく欠落してしまっている。思えば、私もいろんな風景と人間の感情を体感してきた。だからこそ、“寒ブリ”の味わいが分る年になったということだろうか。私はSちゃんとTちゃんは最高にカッコいいと、今でも思っている。こんなことを言うのは、佐渡屋一族のなかで私しかいないのではないか。送られてきた“寒ブリ”は、忘れかけていた“仁義”の味がした。(佐渡屋太郎)

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撤収を始めた“旧事務所”の様子

いまは2月10日(金)の19時13分。今週は京都の伏見や向島、さらに広島や大阪での打ち合わせや飲み会などで、バタバタしているうちに過ぎ去っていってしまった。何とも時の経つのは早い。その中で嬉しかったのが、月末の原稿締め切りを経験することにより、“新事務所”が機能的に整備され、十分に対応していけることが実証されたことだ。移転や整理によって様々な資料が散乱したが、1本1本の異なった分野の原稿を書くうちに、関連の資料が落ち着くところに落ちついてきた。

さらに、各種の機材もいくつかの問題をクリアし、また新たな機材も買い足した。それによって、機能性は前にも増してアップしている。今日はNHKラジオで国会での予算委員会の中継を聞きながら、古い友人たちに移転のメールやFAXを送った。久し振りに落ち着き、満ち足りた時間を過ごすことができた。夕方、買い物に出掛けたあと、今も酒を飲みながら、NHKラジオを聴き続けている。なかなか渋くていい。

“旧事務所”から“新事務所”に運び込まれた荷物の一部

今週は不思議と親族との関わりが多い週であった。その発端は2月5日(日)に掛かってきた弟・佐渡屋次郎からの電話であった。嫁であるUちゃんのお父さんが亡くなったという。それで7日(火)に、広島での葬儀に参列することになった。昨年、お父さんの様態が悪くなったときに弟から連絡があり、佐渡の母とも相談して、私が佐渡屋家を代表して、葬儀にいくことになっていた。そのとき打ち合わせた内容をすっかり忘れてしまったので、母に電話して細かなことを確認した。何とも頼りない佐渡屋家の代表である。

翌6日(月)は用事で京都に行っていたら、息子から電話があった。昨年11月から勤めていた大阪の会社で正社員になれたので、京都から大阪に引っ越すという。ついて保証人として住民票など必要書類を集めておいてほしいとのこと。それから、京都の街を歩き回る羽目になったが、ギリギリで何とか書類を手に入れた。次の7日(火)は5時15分に起きて、広島行き。10時からの告別式に参列し、喪主であるUちゃんのお兄さんに挨拶し、弟夫婦と2人の娘たちとも昨夏の佐渡以来の再会をした。

私は葬儀で棺の中のお父さんの顔を見ながら、16年前になる佐渡の夏を思い出していた。弟夫婦が結婚した年の夏に、Uちゃんのご両親が佐渡へ遊びに来てくれたのだ。そのとき、山の中腹にあった「佐渡ニューホテル」のビアガーデンからお盆の花火を見た。親類の人々やその子供たちも一緒で、何ともにぎやかな集まりだった。私は花火の写真を撮ったのだが、うまく写っていなかった。ただ、そのとき何とか撮れていたご両親の幸せそうな写真を今でも持っており、その写真を見ながらこの原稿を書いている。

しかし、そのホテルも平成14年に廃業してしまった。ホテルの支配人の息子は私の高校の同級生で、オープンの1年前に東京から転校してきた。やがてブラスバンド部の部長になり、指揮者でもあった。いま、何をしているのだろうか。そして、私の父が10年前に死去し、Uちゃんのお父さんも亡くなった。一方、弟の長女は今年、高校受験であるという。時の経つのは実に早いものだ。ウカウカしていると、置いていかれそうな勢いだ。

その日は、葬儀のあとすぐ大阪に戻って打ち合わせを1件こなし、夕方から息子と会ってマンションの手続きを行い、梅田で飲んだ。家の中で飲むことはあったが、外で一緒に飲むのは初めてのことだ。息子が生まれた頃、一緒にキャッチボールすることと、一緒に飲むことを夢見ていたような気がする。その夜、息子は正社員になったこともあって、実に雄弁であった。その姿を見て、頼もしさを感じたのは親の欲目だろうか。

“新事務所”に拡げられた資料類の一部

2人のじいさんたちは死んだが、孫たちは確実に成長している。そして、あと数年経つと、この孫たちが佐渡屋家をリードしていく“主役”になることだろう。さらに、数年経って機会に恵まれれば孫たちは結婚し、私や弟夫婦にも孫ができるかもしれない。孫が生まれれば成長し、やがて私たちは確実に死んでいく。いよいよシナリオの“終点”が見えてきた。だから、死ぬまでの間に、“もう一花咲かせたい”と私は切実に思うようになった。いま、そのプランを具体的に詰めていて、近頃は夢にも出てくるようになった。自分でも抑え切れないような激しいエネルギーを感じる。

そんな矢先、佐渡近くを震源とする地震があった。2月8日(水)の21時01分に発生し、震度5強、マグニチュード5.6の大きなものだった。そのニュースを見たとき、ビックリした。私のエネルギーがその地震を起こさせたのではないかと、密かに実感したのだ。こんなことは人には言えない。私の“野望”が佐渡の地を揺るがせたようだ。幸い、さしたる被害がなくて胸を撫で下ろしている。

その後、Uちゃんから電話が掛かってきた。葬式へ行ったお礼である。その前に佐渡の母に電話をしているとき、ちょうど地震が起こったという。そのとき、母親は「いま、揺れているようなので、少し待ってくれ」と慌てふためいて叫んだそうだ。その情景を思い浮かべて、私は大笑いした。弟の佐渡屋次郎にも、その話を少し脚色して教えてやったら、大笑いしていた。ただ、その震源が佐渡屋太郎であったことは伏せておいた。

佐渡から送られてきた“寒ブリ”8キロの全貌

佐渡といえば、昨年暮れに佐渡から“寒ブリ”を送ってもらった。これが、今回のテーマである。やっと話がつながった。実は、これ以降の文章は1月5日(水)に書いたものだ。しかし、あまり身内のことを書き過ぎたので、掲載をためらっていた。ただ、おじさんである漁師のSちゃんと元やくざで今はタクシー運転手をしているTちゃん兄弟は、私の大好きな人物で、その“豪快な生き方”は幼かった佐渡屋太郎に大きな影響を与えた。今回は、過激な表現を削りながら、“寒ブリ”を仲介にした心暖まる物語を紹介する決心をした。以下、その文章を校正しながら、続けてみる。

さて、正月といえば、生まれ故郷である佐渡の味が恋しくなるが、昨年末に異変が起きた。それは、佐渡沖の寒ブリ漁がまれにみる“豊漁”で、10キロ以上の大物もどんどん上がっているという。ニュースによく出てくるのが、両津湾内の漁場の1つである黒姫沖。定置網の「大謀網」(だいぼうあみ)で、多くの漁師が網を掛け声とともに引き上げる。獲物が大きいだけに、その光景は見ていても豪快そのものだ。

そのニュースを見ていて、あることが閃(ひらめ)いた。私の親戚のおっさんの1人は、内海府で漁師をしている。小さい頃は夏休みになると、親類のにいちゃんたちと一緒に遊びに行ったこともある。一緒に泳いだとき、その泳ぎのうまさに、さすが“漁師”であると感心したことを憶えている。

そのおっさんには“伝説”がある。ある年、漁に出ていったとき、それを追うように台風が接近してきて、音信が途絶えてしまった。残された家族や親類は悲嘆の底に落とされ、一縷の望みにすがるしかなかった。しかし、2日経っても3日経っても、一向におっさんからの連絡はない。もうこれは諦めるしかないと皆が思い始めたとき、沖の方から1隻の小さな船がヨロヨロと港に入ってきたそうだ。近づいてきてよく見ると、甲板に何かがうずたかく積み上げられている。

頭と胴体を切り離された“寒ブリ”の無念な姿

ことの真相は、次のようなことだった。沖に行ったおっさんは、漁場で台風に遭遇して翻弄された。そのとき、無線もやられてしまった。しかし、その台風を何とかやり過ごしたとき、“イカの大群”に出会った。どんどん巻き上げても、海面はイカで埋め尽くされていたという。おっさんは狂ったようにイカを次から次へと巻き上げ、生簀が一杯になると、甲板に放り出していった。このときの興奮をどのように表現すればいいのだろうか。それはパチンコで、何十連チャンしたときのトキメキをも超えるものであったと想像する。

おっさんのアドレナリンは放出を続け、イカを採りまくった。しかし、甲板がイカで埋め尽くされると、ふと我に返った。“これ以上、釣ったら船が沈んでしまう”。そこでやっと正気に戻り、港に帰る決心をした。しかし、まだイカの大群は海面を埋め尽くしていた。後ろ髪を引かれる思いで、ポイントを後にした。そして、今にも沈みそうな船を騙し騙し、ヨロヨロと港に帰ってきたというわけだ。そのときのおっさんは満面の笑顔であったという。もう死んだものと諦めていた親族の悲嘆の表情とは好対照であった。

その笑顔を見て、親族は当初こそ喜んだが、やがて時が経つとともに、感情は怒りに変わっていった。おっさんの個性は“飄々”としているのが特徴だった。しかし、漁師を続けるのも金が掛かる。使った軽油代以上の水揚げがなくては採算が取れない。さらに、より多くの漁獲量を上げるために、大きな船を持とうとしたら、相当な投資も必要になる。これは決していい職業とは言えない。そして何より、命がけの危険が伴う。もともと百姓一族であったわが家系では、おっさんが漁師になることに、皆が“反対”であった。

そもそもおっさんは、佐渡屋太郎のばあさんの妹の息子である。その妹は、私の保育園時代の先生であった。妹は、漁師町出身で騎兵隊の隊長であった人と結婚した。その結果として生まれたのがおっさんである。おっさんは両津高校の水産科を出て、漁師になった。弟は佐渡高校を卒業し、関東の国立大学を受けに行ったまま行方不明となった。それから数十年後、その弟が佐渡に帰りたいと言ってきたとき、体には刺青(いれずみ)があった。

私の保育園時代の先生であったおばさんは、ヤクザであった弟(私にとってはTおじさん)に、「佐渡に帰ってくるなら、刺青を消してこい」と条件を付けた。弟は刺青をすべて焼き潰して、佐渡に帰ってきた。私が大学生の頃、佐渡に帰ったときにパチンコ屋に行くと、高校時代の音楽の先生であった通称“ベートーヴェン”とTおじさんは、いつも壁際でパチンコを打っていた。いま、その「佐渡センター」もなくなってしまった。Tおじさんはハンサムで、「足があと10センチ長かったら、石原裕次郎のように映画俳優になっていた」と言っていた。

考えてみるに、この兄弟は早世した漁師町出身であった“父親”のDNAが相当に入っている。長男は海の香りが忘れられずに漁師になった。そして、弟は血の気が多い漁師気質を受け継いで、東京でヤクザなった。弟は東京にいた頃はダンプの運転手で、佐渡に帰ってからは、タクシーの運転手になった。ある年、Tおじさんに両津の港まで送ってもらったが、私の町から20分で両津の船着場まで着いた。普通だったらいくら飛ばしても30分は掛かる。追い越し禁止車線をまたぎながらのスリル満点の運転であった。前を走るすべての車を追い越して、車は港に着いた。それはまさに芸術というべきテクニックで、命が縮まる思いをした。

出刃包丁がなかったので、力ずくで解体された“寒ブリ”の新鮮な部位

正直に言うと、私は小さい頃から一族において批判の対象になっているこの兄弟を、“憧れ”の気持ちを持って見ていた。その理由の1つは、生き方が豪快であり、エネルギッシュであること。ただし、採算は取れていない。2つ目は純粋であること。私のばあさんと父親が死んだとき、こんなに剥き出しの感情で悲しんでくれた人はいなかった。この兄弟は大声で、ばあさんと父親の偉かったことを語ってくれた。これは“仁義”である。心と心を剥き出しにした、本当の人間と人間の付き合い方を知っている。

随分、前置きが長くなったが、母親を通して、私はその漁師のおっさんに寒ブリを送ってくれと頼んだのである。私はおっさんがこの豊漁で、以前のイカと同様にアドレナリンを出しまくっているのではないかと思っていた。しかし、漁法は前述の通り、“大謀網”であった。小さな船しか持っていないおっさんは、網引き要員でしかないという。しかし、網を引くと何本かの“寒ブリ”を持って帰れるそうだ。その寒ブリを送ってもらった。実に見事な寒ブリであった。重さは8キロを超えていた。

刺身、ズケ(漬け)、しゃぶしゃぶ、ブリ大根、照り焼き、兜煮、バター焼きなど、あらゆる手法を駆使して、寒ブリをしゃぶり尽くした。8キロの寒ブリは相当な量であった。いまの心境を正直に言うと、寒ブリはしばらく見たくないというほどに堪能した。その料理を食べたあとに、古い写真帳を取り出して、小学5年生の佐渡屋太郎とおっさんが写っているモノクロの写真をY嬢に見せながら、シコタマ佐渡の思い出話を語ってしまった。しかし、どれだけ男と男のドラマをY嬢が理解したかは分らない。願わくば、あのWという漁村の海でもう1度、小学生の頃に戻って泳いでみたい。

ふるさとの味には、それによって喚起される豊穣な思い出がある。その思い出を噛み締めながら、思いは時空を飛び回る。あのころ少年であった佐渡屋太郎は、いつの間に“おっさん”になったのだろうか。その記憶の境目がまったく欠落してしまっている。思えば、私もいろんな風景と人間の感情を体感してきた。だからこそ、“寒ブリ”の味わいが分る年になったということだろうか。私はSちゃんとTちゃんは最高にカッコいいと、今でも思っている。こんなことを言うのは、佐渡屋一族のなかで私しかいないのではないか。送られてきた“寒ブリ”は、忘れかけていた“仁義”の味がした。(佐渡屋太郎)

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