遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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佐渡屋次郎の偉業―佐渡日記2011①【佐渡屋太郎-vol.223】

新たなベランダに移り、太陽の光を受ける植木たち

いまは10月8日(木)の16時45分。無事に引越しも終わり、荷物もほぼ片がついてきた。思えば盆休みを前にした7月中旬から、ずっと全速力で走り続けてきたような気がする。しかし秋の訪れとともに、やっと落ち着いた日々が返ってきた。その幸せをいま、しみじみと噛み締めている佐渡屋太郎である。

そして今朝、新たなベランダに落ち着いた70鉢の植木たちが、太陽の光を浴びているのをずっと眺めていた。以前のベランダよりも、格段に日当たりが良くなっている。必死で苦労した甲斐があった。そして、やっと“大きな山”を越えたという達成感に浸った幸せな時間だった。こんな“黄金の時”は短い人生において、そんなに何回も訪れて来るものではない。だから、朝から酒は飲んではいけないので、コーヒーを飲みながら、ベランダで“至福の時”を過ごしたのである。

その間、いろんな原稿も書いてきたが、内容的にシビアなものが多かった。これも世相の反映だろう。さらに今月は、大阪の特殊景品の取材をする予定だ。またまたシビアな世界に入っていかなければならない。そこで今回のブログは、自主的に“やわらかい原稿”を書くことにした。この間に頭の休憩を取っておかないと、自分自身が持ちそうにないからだ。というのは口実で、本当はこの一連の原稿を書きたくてウズウズしていた。テーマはもちろん、夏に帰った佐渡での出来事である。昨年の砂利運びや藤ツルとの闘いに続き、今年も父の残した“畑の楽園”を守る重要な任務が待ち受けていたのだ。

“畑の楽園”の西側の南部で生い茂る“ジャングル化”した木々

しかし、昨年と違うのは、弟の“佐渡屋次郎”がいてくれたことだ。次郎は中学生時代、陸上競技の100メートルにおいて佐渡で1番速く走って優勝し、佐渡高校時代はそれまでなかったサッカー部を創り、大学時代もサッカーに身を捧げたスポーツマンである。体力的には、実に頼もしい人材と言える。ただ、7歳年下なので、私が佐渡を出たときには11歳で小学5年生であったと思う。したがって、私は佐渡屋次郎の勇姿を見たことがない。当時の私は一刻も早く佐渡や佐渡の家から出たかったが、弟と別れるのが一番つらかった。今では立派な“おっさん”だが、あの頃の弟はかわいい盛りであったのだ。

弟が佐渡で活躍している頃の私は、1つ目の大学を中退して父から勘当され、その後に行方不明になり、散々な青春時代を東京で過ごしていた。2つ目の大学に入ってから数年後、勘当が解けて久しぶりに佐渡の家に帰ったとき、弟は信じられないくらい大きくなっていた。いつもなら、まず相撲を取る。それが“兄弟の儀式”であった。私は中学2年のとき、野球部ではあったが何故か相撲大会に出ることになり、佐渡で4位になったことがある。しかし、そのとき高校生であった弟の体を見て、瞬間的に相撲を取るのを止めた。“負けるかもしれない”と思ったからだ。負けたら兄貴としての“威厳”を失ってしまうことになる。

その後の弟の人生を見るに付け、あのときの判断は正解だったとつくづく思う。ただ、弟には何回も言い聞かせているが、彼がいまこの世に存在しているのは、はっきり言うと私の“お陰”である。実は私と弟の間には、もう1人の弟がいた。生まれていれば私より3歳年下だった。その幻の“弟”が流産して数年後、私は母親から「弟か妹が欲しいか」と聞かれた。

そのとき、私が「いらない」といえば、弟は存在しなかった。「欲しい」と言ったからこそ、彼はこの世に“生”を受けることができたのだ。言ってみれば、私は彼の“命の恩人”である。そのことを一瞬たりとも忘れることなく、私と接するようにと口を酸っぱくして言っている。さらに、弟が生まれた直後に、父親から名前を2つ提示され、どちらがいいかと聞かれた。そのとき、私は“次郎”という名を選んだ。その結果、彼は由緒ある“佐渡屋次郎”となったのだ。言ってみれば、私は彼の兄であるだけでなく、“ゴット・ファーザー”でもある。

次郎は佐渡へ帰ると、毎年のように同級会や友達との飲み会で、夜はほとんど家にいたことがない。昼間は奥さんや2人の娘を連れて海やプールに行くので、この時間帯も家にいない。私も息子が小さいときは、親類の子供や近所の子供まで一緒に連れて、毎日のように佐渡の様々な海岸に通っていた。あの頃はしんどかったが、今となっては楽しい思い出だ。しかし、子供が中学生くらいになると、だんだん佐渡に行きたがらなくなる。親と遊ぶより、友達と一緒に遊んだ方が楽しいからだ。かくして私の場合は、ここ10年近く、1人で佐渡へ帰るようになった次第である。

ところが今年は、これまでと状況が一変した。まず弟の奥さん(Yちゃん)と2人娘は、佐渡に2日いただけで、奥さんの実家のある広島に行ってしまった。さらに、例年は4~5日しか盆休みを取れなかった弟が、今年は私と同じくらいの期間、休みを取れたという。だんだん、彼も偉くなっているのであろう。その結果、2人の帰る日を合わせ、弟の車で一緒に帰ることになった。私が帰り分の電車代を弟に払うことで、負担を少なくしてやろうという兄の優しい心遣いである。

佐渡屋次郎の偉業により、明るく健康的になった西側南部の雑木林

そして驚くことに、昼間は“畑の楽園”の整備に、自分も参加したいとの申し出があった。弟もこのブログをたまに見ているようで、昨夏に書いた佐渡屋太郎“渾身”の「藤ツルとの闘い」と題した記事を読んで、“感動した”と言っていた。ような気がする。もしかしたら私の勝手な思い込みかもしれない。さらに、その整備作業が始まったとき、佐渡屋次郎はポツリと、ある重要な発言をした。それは「実を言うと、俺も小さい頃は、“樵”(きこり)になりたいと思っていた」という衝撃の告白である。

私たちの父は、木を愛し、木をわが子よりも大切に育ててきた。またその一方で、多くの木を彫り、ヤスリで磨き、木の持つ美しさを堪能した人間であった。そして最後に多くの木と、多くの木彫品を残して死んでいった。その木を愛して育てる気持ちは、私の体に数年前から急激に、しかも恐ろしく強い力で乗り移ってきた。その結果、私はいろんなところから木の苗を抜いて来ては育てるという、異常行動をする“おっさん”になってしまった。しかし、それは私だけではなかった。父のDNAは弟の佐渡屋次郎にも、確実に受け継がれていたのである。

ただ彼の場合は、私のような木を愛し、育てるという遺伝子ではなかった。木を彫り、ヤスリで磨くというDNAであったようだ。それは今回の衝撃の告白によって、明らかになったと私は思う。つまり、父の遺伝子は見事に2つに分かれ、2人の息子に引き継がれたのである。兄の佐渡屋太郎は近頃、“植木屋”になりたいと思うようになってきた。そして、弟の佐渡屋次郎は現代版の“与作”のように、木を切りたいという欲望にまみれた異常な“おっさん”であることをカミングアウトした。多分、2人娘が成人した後は、“きこり”になりたいと思っているはずだ。私の予想では、弟はこれから、木を彫り、ヤスリを掛け、木を愛(め)でていく人間になるはずだ。それは私が断言する。

こうして考えると、“血のつながり”は非常に恐ろしく、根深いものであることを今更ながらに痛感している。その結果として、父の“魂”は、2人の息子の体の中で、今も確実に生き続けているわけである。そのことを実感するとともに、父の木に対する執着が、いかに強いものであったかを身を以って思い知らされた。これは天国方面に向けて、強く報告しておきたい。

それにしても、弟を作っておいて、本当によかったと思う。父の木に対する“異常愛”の半分を受け継いだだけの私でも、正直言って重過ぎると感じる昨今だ。ましてや、これをすべて受け継いだとしたら、果たして真っ当に生きていけるかどうか分らない。改めて、父の木に対する“異常愛”の計り知れない強さに驚愕する。また、その半分を引き受けてくれた弟にも、深く感謝したい。

そして今夏、2つの遺伝子が結合した結果、兄弟2人で“畑の楽園”にある木や竹を切りまくったのである。今回の母からの命令は、竹藪の中の枯れた竹を撤去してきれいにすること。さらに、“植木ジャングル”の最前列にある松の枝をすかして光と風の通りをよくすることであった。しかし、今年はスポーツマンで筋肉の固まりのような弟が参加することになった。そこで、計画を大規模に拡張し、“畑の楽園”の西側に並ぶ木々の枝打ちをアイツにやらせることにしたのだ。

昨年、西側の南部は私が“藤ツルとの激闘”によって、椿の木と竹薮を生き返らせるという偉業を成し遂げた。そこで今回は、その北部にも手を付けることにしたわけだ。そこには、杉や柿をはじめ名も知らぬ大木が鬱蒼と茂り、畑への日当たりを悪くしていた。ただ、そこの枝打ちといっても、その枝はかなり太いものがおおい。それを脚立に乗り、さらに高いところにあるものは、下の枝に乗って上の枝を切るという作業になった。「きこりになりたかった」という弟にとっては、まさに欲望を満足させる打って付けの任務となったのではなかろうか。

柿木を中心にして、枝を茂らせる雑木林

これらの木は、海から吹き付ける風を遮るため、父が植えたものだと思う。以前に書いたように南側の杉は大きくなり過ぎたので切り倒された。しかし、北側の杉はまだ4~5本が残されていた。杉の木を切っただけで、冬の風当たりが強くなったと、畑の横に住むいとこのM兄が言っていた。やはりそれなりに防風林としての効果はあったのだろう。さらにその間に、雑木たちが成長して大きくなり、その前に柿や植木が並んでいる。

柿の木は私が小さいことからあったので、ばあさんが植えたものだと思う。その実で干し柿を作っていた。しかし、その他のものは父によって植えられ、父が死んでからも成長を続けていた。その結果、母にとってもすでに手に負えなくなり、密林の“ジャングル状態”になっていたわけだ。その下は畑になっているが、日当たりが悪く、コンニャクイモくらいしか植えていない。

“きこり”と化した弟は、黙々と作業を行なっていた。きっと夢であった“きこり”になりきっていたのだろう。夢に見た“晴れ舞台”で自己陶酔をしていたに違いない。しかし、この作業はスポーツマンである弟にとっても、かなりハードなものであったようだ。一度、胸が苦しくなって、畑の家で横になっていたという。彼の心臓は“スポーツマン心臓”で、普通の人の2倍くらいの大きさになっているという。しかし、これも言ってみれば一種の“心臓肥大症”で、あまりいいことでないそうだ。その頃、私は竹薮の中で藪蚊や蛇と格闘しながら、せっせと竹を切っていて、そのことは知らなかった。

柿木の枝を払い、明るくきれいになった畑

休憩のときに、「オメ(おまえ)もキーツケロヨ(気を付けろよ)」と言われたが、私の心臓は小さいけれど、剛毛が生えている。数々の“修羅場”を潜ってきたお陰だ。こんな作業でへたばってはいられない。それにしても、2人にとってかなりの重労働であったことは確かだ。その結果、“畑の楽園”の西側は見違えるような明るく健康的な雑木林となった。これは佐渡屋次郎が“きこり”となって成し遂げた、まさに“偉業”である。ただ兄としては、彼がこの作業の喜びによって目覚め、本当の“きこり”になると言い出さないことを祈るばかりだ。

いま“畑の楽園”の防衛団は新たに弟を加え、母と私の3人となった。しかし、この3人が何をしているのかというと、結局は父が残したものの整備と管理である。もっとはっきり言えば、父の“尻拭い”をしているわけだ。父は生きているとき、“人に迷惑を掛けること”が最も嫌いであった。弟が若い頃に、道を外れた恋愛をしたとき、泣きながら弟を諭したという。相手の家族に迷惑を掛ける息子を、体を張って阻止したのである。私が京都の出版社をやめるとき、名古屋でのいとこの結婚式を終え、新幹線に乗ってから京都まで車両の間に立ちながら大声で論争し、さらに京都の私のマンションについてからも夜中の3時まで私を説得に掛かった。

私はこれまで多くの人と喧嘩や論争をしてきたが、父よりタフな相手はいなかった。父の論理は単純明快で、妻や子供に迷惑を掛けるようなことはするなということである。当時、父は68歳であった。その老体で、馬鹿息子の道に外れたと思う行動に対し、体を張って止めに掛かってきたのである。私は自分の考えを必死になって何回も説明した。父は自分の考えを何回も繰り返してきた。互いの考えはいつまで経っても併行線を辿り、あとは体力勝負になった。しかし、父は一歩も譲らなかった。このとき、私は自分の考えを変えるつもりはなかったが、父には負けたと思った。

繰り返すが、私はこれまで多くの人と喧嘩や論争をしてきたが、父ほどタフな相手はいなかった。目の前にいる老人の底知れない“粘り”や“体力”はどこから出てくるのかと思い、空恐ろしくなったのだ。果たして、私は自分の息子に対し、ここまで体を張れるのか。それは親の愛情とも責任感とも解する見方もあるが、私が感心したのはそんなことではない。論争としての観点で言えば、父の主張は完全に破綻している。私は妻や子供に一時的な迷惑は掛けるかもしれないが、もっといい環境を作れるという自信を当時は持っていた。

そのとき、私が感心して、空恐ろしくなったのは、父が持つ底知れない強靭な“エネルギー”である。この“エネルギー”は一体、どこから出てくるのか。それから5年後、父は親類の家のコタツに入り、女子高生であったその家の娘と話しながら、眠るように静かに死んでいったという。あのとき、父は女子高生とどんな話をしていたのだろうか。それの内容を、切に私は知りたい。いずれにしても、最高に幸せな死に様であった。そして、幸せな人生を送った人であったと、いまさらながらに思う。

佐渡屋次郎によって切り落とされ、畑に積み上げられていった雑木の枝の一部

もし、あのときの論争で、父の“エネルギー”がかなり消耗したのであれば、父の死の責任は私にある。これも馬鹿息子を持った父の運命であったと言うしかない。他人事のように言うが、“運命”とはそういうものだ。その後、佐渡に帰ると、毎年のように父が残した膨大なコレクションの処理に困った母から、いろんな相談を受けるようになった。

タンスに残された数多くのスーツやコート、押入れの中に整然と詰め込まれた茶器や陶器。家のいたるところに置かれた石の置物。今年、弟が発見した梱包された絵画や版画、さらに初版本を復刻した文学全集のダンボールの山。その一方で、“畑の楽園”に残された数々の木々や植木があることは前述の通りだ。こうした現象の中で、佐渡屋太郎は父が死んでから10年にわたり、そのコレクションの全貌を見せられることになった。そして、やっと父のエネルギーの“源泉”を知ることに至ったのである。

その結論は、父のエネルギーの源泉は、“物を集める”ことにあったという発見である。これには2つの推論がある。つまり、1つ目はエネルギーがあったから、“物を集めた”という考え方。あと1つは、“物を集める”ことによって、エネルギーを徐々に強くしていったという考え方である。これは私から見たら、答えは実に簡単だ。正解は後者である。そもそもある対象に興味を持つ人がいる。その興味をさらに深めていこうとしたら、“のめり込む”しかない。“のめり込む”ことによって、更なる興味が湧いてきて、より大きなエネルギーを注ぎ込むことになる。そして最後には、そのエネルギーは無限の高まりを見せるのである。

あるものに興味を持って集め始めると、さらにもっと多くのものが欲しくなり、“エネルギー”はものすごい勢いで高まっていく。その欲望は、ほとんど“病気”である。これを井上陽水流に表現すれば、「限りない欲望」ということになる。ただ、父の場合の特徴は、その対象が実に拡かった。盆栽、面、柱、石、陶器、古くは切手、コイン、マッチ箱、カメラ、手作り模型、私が生まれる前は自分で籠を作り、ウグイスやメジロを飼っていたという。その鳥籠(とりがご)を見たが、実に精巧なつくりであった。さらに言えば、お金を貯めるのも好きだった。

いまの私から見れば、誰からも咎(とが)められることなく、さらに収容スペースに困ることもなかった父は、最高に幸せな“コレクター”であったと言える。まさに、父の人生は、ことコレクションに関して言えば、“やりたい放題”であったと想像する。その結果、永年にわたって父は、膨大な“エネルギー”を体内に貯め込むことになったわけである。これは、私の周囲にいる人々に強く発信しておきたい。

佐渡屋太郎をエネルギーに溢れた“大きな人間”にしたいのなら、私の収集癖に文句を言ってはならない。それがすなわち、佐渡屋太郎を平凡で“小さい人間”にすることと同義であることを認識してほしい。私自身で言えば、もっと資力を持ち、“やりたい放題”ができる男にならなくてはいけない。ただ、私の場合で言えば、対象はB級で実に細(ささ)やかなものだ。酒や女や政治や保証人の判子(はんこ)で、身上(しんしょう)を潰してきた先祖からみれば、実に高尚で安全な“道楽”ではないかというのが、私の主張である。

いけない。私の主張に力が入りすぎた。振り返って父のことを考えると、そのエネルギーを持ってすれば、息子2人をねじ伏せるくらいは訳のないことであった。しかも、“人に迷惑を掛けるな”という大義名分を持っていた。これは“鬼に金棒”の独壇場である。しかし、“人に迷惑を掛けるな”と言っていた本人が、その残したコレクションによって、“大きな迷惑”を親族に負わせているのだ。その一番の被害を蒙っているのが母親である。この人は、小学校の頃は保健委員になるほど清潔好きで、整理することと捨てることが大好きな、“コレクター”にとっての天敵であった。

父が死んでから数年間は、母は父が残したものを焼いたり、人にあげたりしていた。生きていたときには言えなかった鬱憤を、一気に晴らすような母の執念を見たような気がした。それを知って驚いた私が、そのすべての行動にストップを掛けた。そのときから父の“魂”が、私に下りてきたのではないかと思っている。いま私は父に成り代わって“自省”をしている。私(父)には2つの大きな特性があった。“物を集めたい”という欲望と、“人に迷惑を掛けるな”という理念である。

佐渡屋次郎の頑張りによって、ジャングルから明るい雑木林に変わった“畑の楽園”の西側南部

しかし、この理念は失敗だった。これは本人も予想していなかったはずである。“人に迷惑を掛けるな”と言っていた本人が、人に迷惑を掛けることになってしまった。さらに、“物を集めたい”という欲望は、息子2人に引き継がれている。その結果、父の残した2人の息子という最も少ないコレクションは、人に“迷惑を掛ける”ことをしながら、“物を集める”人間になってしまった。父としては死後、自らの存在理由であった理念を、欲望の結果である遺物(コレクションと息子たち)によって、完全に否定されることになったのである。

弟のコレクションは、衣類である。今年は2階の押入れの中の布団を投げ出し、自分用のクローゼットを作っていた。自分の家で収容し切れなくなった多くのスーツやブレザーが掛けてあった。もちろん、母は激怒していた。私も今年に送った読了本を“畑の家”の本棚に詰めながら、「もう一杯になったから、また新しい本棚が要るな」と言ったら、「これ以上、どこに本棚を置く場所があるか」と母はマジ切れしていた。こうして脳に強い刺激を与えることによって、母にはボケずに長生きしてもらいたいと思っている。これが馬鹿息子たちにできる、精一杯の“親孝行”である。

佐渡屋次郎の力によって、切り落とされていった雑木林の枝の山

父は生前、私がいくら本を佐渡に送っても怒らなかった。それどころか、私がもらった“畑の家”の書庫部屋をフローリングにしてくれた。それからどんどん、本棚と本が増え続けても何も言わなかった。唯一、言った言葉は「同じ本が何組もある」ということだけだった。私が送った本を本棚に並べながら、“重複収集”に気付いたのであろう。私は余りにも多くの本を集めているうちに、以前に買ったかどうかの記憶が怪しくなってきている。その結果、同じ本を何回も買うことになるのである。“迷ったときは買う”。これが私の哲学だ。

しかし、几帳面な父はその書名を息子より明確に記憶していた。多分、私が集めた本の背表紙を、“畑の家”で何回も眺めていたはずだ。その姿を思い浮かべると、佐渡屋太郎は泣けてくる。いまの私は、“畑の家”で自分が集めた本の背表紙を眺めることが、何よりの幸せと思っている。これほど私のコレクションを、詳細な内容は判らなくても、行為として理解してくれた人は父以外にはいなかった。そして、いまの私の寂しい気持ちを、最も分かってくれるのは、実は父ではなかったのかという思いに至ったのである。

今から思えば私にとって父は、“同病”の先輩であり、同じ気持ちを分かち合える“同志”でもあったはずだ。それなのに、死ぬまでつまらぬ意地を互いに張り合い、つねに些細な喧嘩をしていた。これを“近親憎悪”という。でき得(う)れば、コレクターの先輩として父と一度、じっくり話し合ってみたかった。そして、私は心の底から父の“尻拭い”をすることに、最高の幸せを感じている。それを天国方面に強く発信して、今回の意味深いブログの原稿を終わることにしたい。      (佐渡屋太郎)

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