遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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佐渡写真日記(その2)【佐渡屋太郎-vol.187】

いまは9月7日(火)の20時20分。前回、新たな試みとして、写真にキャプションを付けていく「佐渡写真日記(その1)」を書いてみたら、意外なほどに簡単に書け、しかも欲求不満を解消して余りある達成感があった。実は佐渡から帰ってきてから、いろんなブログを見る必要に迫られていた。それはある仕事でのことであったのだが、とても勉強になった。義務で書かなければならない人と、そんな条件下でも自分で考え、書くことに楽しみを見出している人たちのブログがあった。その中で考えて書いている人たちのブログは、総じて面白かったし、通して読むと書き手の変化が1つのドラマでもあった。

具体的に言うと、折角、書くという作業をしながら、だんだんやせ細っていく人がいる。その人たちは、途中で書き続けることができなくなり、ブログを中断してしまう傾向が強かった。一方、書くことで自分自身が研ぎ澄まされてくる人もいる。それは自分と向き合っているからで、その変化が実に読者として興味を引き付けられる。何か持っている人は、書くという作業によってどんどん成長していく。模索しながら、次第に自分が求めることを発見していくというドラマが、ブログのなかで実際に展開されているものもあった。

そのなかで、風俗関係のブログに興味を引き付けられた。おそらく、店や自分の宣伝のためのものなのだろう。自分の写真を入れて、前日の出来事やコメントを短く添えたものだ。本数も半端ではなく、1日に2~3本アップしているものもあった。出勤前や客待ちの間に写真を撮ったり、記事を書くのであろう。仕事前の昼食や仕事後のアフターや飲み会の写真もたくさん掲載されていた。そのなかには有名な風俗嬢やニューハーフがいたが、そんな子は自分の見せ方もうまいし、記事も面白い。そうした手際のよさを見ると、さすがに有名になる子は、人を魅きつける何かを持っていると改めて感心した。

その手法を色気抜きでパクったのが、前回の「佐渡写真日記(その1)」であった。写真を11点も載せたのだが、まだ重要な写真が何点も残っている。そこで、間髪を置かずに第2弾をぶち込むことにした。前回は軽めの写真が多かったが、今回はいよいよ佐渡屋太郎の“極私的な世界”に入っていくことにする。個人的には今回の写真の方に格段の思い入れがある。

SQ写真/10年9月号② 090


これは畑の東側の写真である。この一番左の木を見てもらいたい。この畑の敷地において最も大きく、佐渡屋太郎家を象徴する木である。樹齢は少なくとも60年、ひょっとすると100年を超えるのかもしれない。昔、この木は刈り取った稲を干すハゼの木であり、この木を軸に横木を渡して6段のハゼを作った。小学生の頃の佐渡屋太郎は、田んぼから刈り取った稲を一輪車に積み、あぜ道や畑の横を通って、このハゼ場まで運んでくるのが仕事であった。あぜ道から車道に上がる箇所には小川があり、大きな段差になっていた。そこに一輪車が通れるように2枚の板が渡された。勿論、急傾斜なっている。

刈り取った稲の20束を縄で縛って1括(くく)りにして、3~4括りを1輪車に載せる。刈り取ったばかりの稲は水分を含んでいるので、結構重いのである。まず、フラフラしながらあぜ道を通る。そして、渡し板の前で一服して態勢を整え、やや助走を付けながら一気に急斜面を押し上げるのだ。しかし、バランスを崩したり、押し上げ切れなくて、何回も転倒した。皆は稲刈りをしているので、誰も助けてくれない。半ば意地になって佐渡屋太郎は頑張ったのである。その小さい頃の自分の必死な姿を思い浮かべると泣けてくる。

そして、夕方になると皆が総出の稲掛けとなる。女衆は下の1段から3段目に稲を掛ける。男衆は上段のハゼに足を掛けて跨(またが)り、下から放り上げられる稲束を受け取りながら、4~6段目に掛けていくのだ。このハゼの木に乗るのが一番カッコいいのだが、それは父親の役目だった。しかし、一番つらいのが稲を投げ上げる役だ。これは中学の野球部時代、佐渡で優勝した佐渡屋太郎の担当であった。

しかし、何百束も投げ上げるとさすがに疲れてくる。投げ上げた稲束が受け手に届かなくて落ちてくるときは、男としての最大の“屈辱”である。夕食の準備にために女衆が帰ったあと、暗闇の中で父親と稲束を媒介にして取り組んだ“男と男の仕事”であり、“男と男の闘い”でもあった。今は亡き父の寡黙でたくましかった姿を思い浮べると、佐渡屋太郎はまた泣けてくる。少し今日は、飲み過ぎているのかもしれない。そんな思い出がこの木には染み込んでいる。仏さん“送り”もこの木の近くでやった。

正直に言うと、私も息子とこうした“男の闘い”をしてみたかった。そうしたら息子も、もっと根性のある人間になったかもしれない。唯一の闘いは毎年夏に、私が通っていた佐渡の小学校の校庭でやっていた野球だった。あれは息子が中学2年生のときだった。中学1年生からレギュラーで、中学2年生のときに学校創立以来、初めて佐渡の郡大会で優勝し、船に乗って新潟での地区大会へ行き、3回戦で拉致被害者の横田めぐみさんの母校でもある寄居中学校に惜敗したのが、佐渡屋太郎の野球人生である。その佐渡屋太郎が渾身の力を込めて投げたボールを、中学2年生の息子は打ち返し、ホームランとなった。負けるはずのない闘いで負けてしまって、佐渡屋太郎のプライドは痛く傷ついてしまった。しかし、これが“勝負の世界”である。また、別のフィールドで闘いたいと思っている。どこからでも掛かって来いと言いたい(ただし、野球以外にしてほしい)。

SQ写真/10年9月号② 106


さて、気分を変えよう。佐渡には金北山(1,173m)という最高峰がある。その麓(ふもと)に湧き出る水は甘くてうまい。したがって、その清水は行列ができるほどの人気がある。この水で氷を作り、さらに焼酎を割って飲むのが数年前からの私の習慣になっている。私の母親は昔、美人であって、今でもこの清水を汲んできてくれる奇特な人たちがいる。そのお陰で1年中、この清水を飲んでいるようだ。しかし、息子が帰ってきたときくらいは、自ら汲みに行くのである。また、今年も行ってきた。昨年は焼酎「大五郎」の4ℓボトルで10本ほど汲んでいたが、今年は20ℓのタンクを使うようになったようだ。さらに今回、もう1つタンクをホームセンターで買い足し、40ℓを汲んできた。

SQ写真/10年9月号② 107


佐渡といえば魚である。しかし、買う場所によって、倍以上も値段が違う。魚を買うなら「キング」しかない。安いし、種類も豊富だ。刺身が200円台で売っている。その秘密は仕入れのルートにあって、ここでは漁師からの直売システムを採っているという。

SQ写真/10年9月号② 109


壮観である。佐渡の海の豊かを感じさせる。本来、魚はこんな値段であるはずではなかったのだろうか。佐渡の人間は魚をドンドン食べ、カルシウムに満ちた骨太の若者たちに、東京や大阪に大挙して攻め込んできてもらいたい。この値段を見て驚いた人も多いだろう。100円台で新鮮な魚が食べられる。醤油と味醂と酒で煮付ければ、最高の肴になる顔ぶれが勢ぞろいしている。これを食っていれば、誰にも負けない体になる。

SQ写真/10年9月号② 081


さて、今回のテーマの1つである青モミジに突入する。これはいとこのMの庭の片隅にあった青モミジである。地植えなら、このくらいの大きさの頃が可愛いらしい。しかし、これからグングンと大きくなっていくことだろう。何と言っても、この涼やかな姿がいい。しかも、生命力に満ち溢れている。この力を私の鉢植えにもほしい。

SQ写真/10年9月号② 076


今年6月、帰省したときに鉢上げをした青モミジ。何とか生きていてくれた。掘り起こしてすぐ、鉢に入れたのが勝因だろう。同じときに掘り出して大阪に持ってきたものは、2本とも枯れてしまった。しかし、母親に聞くと1度は枯れても、時期になれば生き返ってくるという。その言葉を信じて、まだ枯れ枝を捨て切れないで取ってある。佐渡に帰っていたときは、この庭に椅子を持ち出し、酒を飲みながらこの青モミジを眺めるのが、夜の楽しみだった。涼しい風と虫の声に囲まれ、この枝ぶりの将来像を思い描くのが至福のときで、毎晩2時間~3時間を前庭で過ごしていた。

SQ写真/10年9月号② 175 そして佐渡での最終日、ジャングルの片隅で成長している青モミジを発見した。こんな誰も見ない片隅にいるより、庭に持ってきてその生命力に溢れた姿を多くの人に見てもらった方がいいというのが、佐渡屋太郎の判断であった。しかし、太い地下茎で命を繋いでいたことも、掘り起こすうちに分かってきた。その地下茎を三角スコップで断ち切り、家に持ってきた。しかし、家にあった鉢は小さ過ぎた。そのため、残った地下茎をさらにノコギリで切って、やっと鉢の中に収めることができた。この状態で生き続けていけるかどうか不安である。はっきり言って、切り過ぎだと思っている。しかし、その姿は雄大だった。他の2本がたちまちかすんでしまった。それくらい迫力のある青モミジであった。

SQ写真/10年9月号② 168


また、今回も懲りずに盆栽苗を持ってきてしまった。何としても大阪のベランダで青々として茂る“青モミジ”がほしかった。そのため、また父が残した植物園から“盗掘”をしてしまった。しかし、一番大きな有望株は、大阪に着くまでに葉が枯れ、小さなものも瀕死の状態だった。今回はそのほか、杉と竹の苗なども持ってきた。その経過はこのブログで報告していきたい。竹と杉はいま必死に頑張っている。

SQ写真/10年9月号② 082


さて、いよいよ今回のブログの最後に近づいてきた。すなわち、最高の見せ場である。まず、この写真の中央にある小さな木を見てもらいたい。これは「ネズミサシ」という。この枝をネズミの通り道に置くと嫌がるので、ネズミ除けにしたことからこの名前が付いた。短縮して「ネズ」とも呼ばれる。確かに小さくはあるが、樹齢としては少なくとも30年以上の古木である。主に岩場や尾根などの痩悪地に成育し、成長の遅い木として知られる。根元の平均年輪幅は0.43mm/年であり、その代わり材は緻密で針葉樹林のなかでは最も重い幹比重(0.54)を持つそうだ。盆栽の世界では「杜松(としょう)」という。

SQ写真/10年9月号② 074


その「ネズミサシ」に父親が狂ったのが、私の中学生の終わりから高校生の初めの頃であった。訳の分からない柱を何本も当時、納屋であった裏の家に持ち込み、来る日も来る日もヤスリ掛けをしていた。冬の日、高校から雪の中を自転車で帰ってくると、裸電球の薄暗い中、黙々と柱を磨いていた。私が高校2年生のとき、家を建て替えた。そのとき、初めて姿を現したのが、この「ネズミサシ」の床柱であった。一応、父の職業は学校の教師であったが、山の方の学校にいるときにいろんな人と知り合いになり、この柱や面をもらったのか買ったのかは知らないが、家に持ち込んで来ては磨いていた。定年までの15年間は、木工師か庭師のような生活をしていた。今回、東京のおじさんたちが家に来たとき、この床柱の話題になった。母によると、この床柱は樹齢300年であるという。もうこれだけの木は佐渡にはないのではないかということであった。このほかにも父は何本もの「ネズミサシ」の柱を磨き、知り合いの人たちにあげて喜ばれたそうだ。

その中で一番立派なものを、自分が建てた家の床柱にした。これは父親の人生において、1つの大きなドラマであったと思う。自分が精魂込めて磨いた床柱を、家の中心に据える。これほどの喜びはなかったのではないか。さらに、家長としての威厳も十分に示した。私の評価も一変した。父は家を建てるとき、毎晩のように大工の家に行って話しこんでいた。普段は寡黙であるが、好きなことに関しては非常に社交的になる人間であった。

SQ写真/10年7月号② 112


ただ、惜しまれるのは、仏間の長押(なげし)を通すために、この床柱を削ったことである。そのため、この見事な柱に長押の板が食い込む結果となった。その工事をしたとき父は不在で、大工による勝手な判断であった。それを何回も見て、悲しそうな顔をしていた父の姿を思い出す。これはセンスの問題だ。私が大工だったら、こんなことは間違ってもしない。その大工は、「ネズミサシ」の床柱の価値を分かっていなかったに違いない。

SQ写真/10年7月号② 107


これが裏の家の2階である。以前は、父と母の部屋であった。その天井壁の四方には様々な面が掛けられている。鬼、能面、佐渡の文弥人形、のろま人形、説教人形の面、さらに佐渡屋太郎が昔、土産としてあげたインドのサドゥーや韓国の面も飾ってある。いま佐渡へ帰ると、私はこの部屋で寝ている。約60体の面に睨まれながら、爆酔しながら爆睡している。神経の細い人間は、怖くて寝られないのではなかろうか。

SQ写真/10年7月号② 123


今年の夏は、その中の馬の首の掛け位置がおかしかったので、深夜で酔っているにもかかわらず直してやった。それが気になって眠れなかったからだ。大した親孝行ではないか。父親の未完成を息子が完成させてやったのだ。几帳面な父がなぜこんなことをしたのであろうかと不思議に思う。これで、すべてが収まるとことに収まった。

SQ写真/10年7月号② 124


こうしてみると、私が放浪時代に贈ったインドのサドゥー(修行僧)の面もなかなかのものである。これはヤシの実で作られている。贈った本人が忘れているのに、ちゃんと保管してくれていた。こうした収集癖と保存本能を尊敬する。とにかくやりたいことをやり、その成果をいろんな形で残してくれた父親であった。

SQ写真/10年7月号② 119


そのなかで私が一番好きなのは、この布袋まがいの老僧の木彫りである。これは父が心酔していた山奥に住む老彫り師の作品だ。失敗作で捨てられていたのを父がもらってきて、残りを彫り、懸命に磨いて仕上げたものであるという。その老師は片腕がなかった。足で木を固定し、片手で彫っていたのである。この像にも片手がない。その老師を私は見たことがないが、この像のような人ではなかったかと想像する。一度、大阪に持ってきてテレビの上に置いていたが、この像が「佐渡へ帰りたい」と言ったので、持ち帰ったものだ。やはり片腕の老師は、父の部屋の床の間にいるのが一番似合っている。

SQ写真/10年7月号② 129


今回の2回にわたる写真日記は、私にとって実に意義深いものとなった。“収集癖”の固まりであった父を回顧し、私の“収集の道”が決して間違っていなかったという確信を得ることができた。これらのブログは、主に佐渡方面に強く発信しておきたい。私も父の残したものの良さが、次第に分かるような年齢となった。以前は母のことを書き、今回は父のことを書いたので、私の肩の荷もだいぶ軽くなったような気がする。飲み過ぎでもし私の方が早く死ぬことがあっても、このブログの記事から弔辞を抜粋してもらいたい。死人からの弔辞は採用されないかもしれないが、私が書くべきことはだいたい書いたような気がしている。実に爽快な気分だ。明日からはまた、せっせと収集に励むことにしよう。(佐渡屋太郎)

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