遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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またまた佐渡に帰ってきた【佐渡屋太郎-vol.179】

写真キャプション=大阪伊丹空港から新潟空港まで乗ったプロペラ機



いまは6月20日(日)の18時16分。先週末でやっと、パチンコ雑誌の記事をすべて書き上げた。しかし、まだ6月25日(金)締め切りとなっている他の雑誌の原稿が4本、計8ページがある。いま、その原稿書きの準備のために、資料整理をしているところだ。昨日の19日(土)はさすがに溜まりに溜まった疲れのために、ゲラの校正を早めに切り上げ、W杯の「日本VSオランダ戦」をテレビで観戦した。久し振りの“日常生活”に浸り、しみじみと幸せを感じた。

日本は一瞬の隙(すき)を突かれて1点に泣いたが、勝負はこうした“一瞬”で決まることが多い。逆に言えば、こうした“一瞬”をどのように突き、どのように守るかが勝負の分かれ目であり、実力の差になるのだと思う。素人の私には何を言う資格もないが、勝負は勝たなければならない。酒を飲みながら、久し振りで高校時代に経験した剣道の試合のいくつかを思い出していた。

写真キャプション=佐渡の畑から掘り起こし、大阪に持ってきた盆栽苗


それはすべて負けた試合で、負けた気がしないのに、負けた試合がいつまでも心に残っている。それは相手が自分よりうまかったと言うしかないが、それがいつまでも認められないのである。しかし、負けは負けである。勝った試合は思い出せないが、負けた試合はいまでも夢に見ることがある。まだ、自分のなかで清算されていないからだろう。いまでも、そのときの悔しさが蘇ってくる。だから、勝負には勝たなければならないと思う。勝つためのコツは、ただ1つ。勝つまでやることである。

その中で、威勢のいい本田選手には大いに期待している。野球の松井選手と同じ石川県の星陵高校出身。スポーツをしていたおじさんに言われ、サッカーを始めた中学生の頃から毎日、練習のことなどを日記に書いてきたという。しかし、彼はよく“ビッグマウス”と言われる。同じ“ビッグマウス”の佐渡屋太郎としては、書くことによって日々の検証を行なっている本田選手に、親近感と大きな将来性を感じている。デンマーク戦では是非ともきつい1発、できれば2発くらい決めてもらいたいものだ。彼ならできるはずだ。

写真キャプション=大阪で鉢に飢え直した盆栽苗の一部(左側)。一番奥の黄色のバケツに入っているのが瀕死のモミジ


さて、今日は原稿が一区切り付いた開放感もあり、したかかに酔っている。しかも日曜日である。今日くらいは飲んでもいいだろう。と言いながら佐渡屋太郎は毎日、飲んでいる。いま、私の心を悩ませているのは、佐渡から持ってきた9本の盆栽苗のうち、最も将来性のある“もみじの木”のうちの1本が、“瀕死の状態”にあることだ。実は、新潟へ取材に行ったついでに、6月3日(木)から6月6日(日)まで佐渡に帰ってきた。その取材は新潟県のパチンコホール組合の総会で、会場となったホテルの信濃川を隔てた対岸に、佐渡汽船の乗り場があった。これは“猫にかつぶし”、“馬にニンジン”である。帰らない手はない。

写真キャプション=信濃川の河口から日本海に出て行く佐渡汽船の「おけさ丸」


 そのことを母親に連絡したら、いとこのMから軽トラックを借りておくと言っていた。これは悪い予感だった。昨年、送り付けた膨大な荷物を点検し、要らないものを整理しろという暗黙の命令だろう。一方、私の構想は、昨年の夏以降に送った本を本棚に入れ、2万冊に及ぶ我が本たちの背表紙を眺めながら、悦に入った静かな時間を過ごすこと。さらに、昨年の夏は“引越し騒動”で海にも行けなかったので、今回はアブラメ(アイナメ)でも釣りながら、佐渡の海をじっくりと堪能することであった。この両者の見解の相違が、4日間の佐渡滞在を“天国から地獄”へと変えていった。

 最初の命令は、換気扇の取り外しだった。その次は洗濯機の修理、さらに物置の整理、収納棚へのカーテンレールの取り付け、買い替える冷蔵庫とテレビの下見と店員との交渉、米搗きや送付用の米の荷造りなど、矢継ぎ早に命令が下って息付く暇もなかった。元はと言えば、佐渡屋太郎の“ビッグマウス”がいけなかった。初日の夜、酒を飲みながら、「困ったことがあったら、何でも言え」と母親に言ってしまったのだ。そして、その一言が3日目の悲劇を生むことになる。

佐渡の家の前庭に佐渡屋太郎が植えたモミジの苗木。実に風流な眺めとなった


 実は今年の春、母親は以前から気になっていた家の前庭と後庭の改修と、私の書庫と化している“畑の家”の周りの抜本的な補修に取り組んでいた。問題は、“畑の家”であった。家の周りの道をセメントで固めた工事は、値段は高かったがよかったと思う。そのほかに、表の道から家に続く細道に“砂利”を敷くことを考えたそうだ。水溜りができないようにするのと、道を固めるのが目的だった。問題はその“砂利”の量であった。業者はトラック2車分で十分だと言ったのだが、「雑草が生えないように、3車分を入れてくれ」と頼んだという。

写真キャプション=“畑の家”までの道に分厚く敷かれた“砂利”(作業前)


 2日目に“畑の家”での作業が終わり、軽トラで母親と家に帰ろうとしたら、その分厚く敷かれた“砂利”に、トラックのタイヤが嵌まってしまった。タイヤはキュルンキュルンとフル回転するが、一向に抜け出せない。その音を聞きつけて、いとこのMが家から飛び出してきた。自分の軽トラを潰されてはたまらないと思ったからだろう。4輪駆動に切り替え、何とか“アリ地獄”から脱出できた。私は軽トラに“4駆”の機能があることを初めて知った。さすが軽トラである。私も軽トラを1台ほしくなった。

 その夜、母親は告白した。「実は砂利を厚く敷きすぎて失敗した。そのことを思うと、夜も眠れない」という。自分で“砂利”を掘って他に移動してみたが、「私の力ではどうしようもない」と俯(うつむ)いた。実に悲しそうな表情で、よく女性が使う手である。佐渡屋太郎もこの手で、何回も騙された経験がある。しかし、言わんとすることは十分に理解できた。つまり、その“砂利”を私に運べと暗に言っているわけである。

写真キャプション=あまった“砂利”の運び先。前の道まで“砂利道”を延ばすことにした


 その日のサービスはよかった。うまい刺身も食べさせてもらった。しかし、私は皆様もご承知の通り、毎日のように酒を飲んで、体力は急激に低下している。年齢的にも気力・体力とも下り坂の一途にある。果たして、あの“砂利”の量はどのくらいあるのだろうか。しかし私は母親のために、“命”を掛ける決心をした。

 翌朝9時、私と母親は決死の覚悟で、“畑の家”に向かった。そして、私は鍬で“砂利”を1輪車に積み込み始めた。その物音を聞きつけ、またMが家から出てきた。「そんなことをしていたら、日が暮れてしまう」という。鍬ではなく、四角スコップを使えという指示だった。やはり、米作りをしている“作業関係”の専門家である。

 そして最後に、「仕事だと思うな、運動だと思ってやれ」と言い残して家に帰っていった。私より6つ年上なので黙って聞いていたが、実に偉そうであった。そういえば、私の腹は昨年から急激にせり出している。身長は174センチあるが、体重はあっという間に82キロになってしまった。久し振りに会った人は、太ったとは言わないが、「ごつくなった」という表現をする。

写真キャプション=作業後の“畑の家”への道。“砂利”は薄くなり、神聖な雰囲気さえ漂ってきた


 しかし、四角スコップはきつかった。鍬だったら腰を伸ばして作業ができるが、スコップは腰を低くかがめないと、“砂利”を掬うことができない。私は高校時代、剣道のやり過ぎで、ヘルニアの1歩手前まで行っている。最初のひと掬いをしたとき、腰にピリッという電流が走った。これは“ぎっくり腰”の前兆である。

 恐る恐る2回目を掬ってみたら、何とかいける。体をだましだまして、“砂利”を1輪車で運ぶことは、合計30回にも及んだ。汗が滝のように流れ、続けて作業すると酸欠状態になって、このまま死ぬのではないかとさえ思った。そして開始から3時間後に見事、馬鹿みたいに厚く撒かれた“砂利”は薄くなり、“畑の家”への導線の細道は、神社の参道のような高貴なたたずまいに変わっていった。

写真キャプション=運んだ“砂利”よって神聖な道はさらに延び、ほとんど前の道まで続く参道のようになった


 それ以降、母親の口から私の荷物の整理のことは一言も発せられなかった。それはそうだろう。命を賭けて親孝行をした“恩人”に対し、それなりのインセンティブがあって当然だ。こうして、佐渡屋太郎は自分のコレクションを守ったのである。しかし、砂利運びはつらかった。昨夏の引越し以来、私はこうしたハードな肉体労働を何回も経験させられている。しかし、こうした命がけの作業なくして、コレクションを守り切れないのも厳しい現実としてある。これはコレクションが私に課している“苦行”のようにも思えてくる。

 あと、佐渡に帰って驚いたのは、このブログのことを母親をはじめ、東京に住んでいて佐渡にも家を持っているおじさんやおばさんも知っていたことである。おじさんたちはちょうど佐渡へ帰っていて、3日目の夜に呼ばれておばさん、母親と共に飲んだ。ちなみにおばさんは母親の妹であり、おじさんも佐渡出身で東京へ出て、“一旗”を上げた傑物である。

写真キャプション=盆栽用に苗木を掘り起こしたジャングル植物園の入口


 実は、その息子である私のいとこは毎日新聞に勤めており、このブログを見つけたという。世の中、悪いことはできないものだ。すべてが筒抜けである。おじさんとおばさんは、息子がプリントアウトした私の佐渡に関する記事を、いくつか読んでいるという。私の弟である佐渡屋次郎には、数年前にブログのことを話したことはあるが、みんなが知っているとは夢にも思っていなかった。せいぜいブログの記事をネタに、佐渡の話に花を咲かせてもらえれば幸いである。

 昔、佐渡における親類の宴会では、話のうまいおっさんがいて、一族の昔話をおもしろ、おかしくしてくれたものだ。その話を女性たちは笑ったり泣いたりしながら聞き、日頃のつらい労働のストレスを発散していた。小さい子供たちは、一族が経てきたいろんな話を聞き、人間はどのように生きるべきかを学んだ。私もその1人だ。登場人物は自分の知っている人たちや先代のことが多く、実に臨場感があった。現在ではそうした集まりも次第に小さくなり、“語り部”(かたりべ)の多くはあの世に行ってしまった。

 その“語り部”は大体が酒飲み(大酒を飲む人のことの蔑称)であり、小説家の心を持っていた。しかし、佐渡には小説家という職業がなかったため、その人たちの中で人望と行動力のある人たちが、政治に打って出て、町長や町会議員になった。そして、選挙による散財と保証人の判子の押しまくりで、やがてその家は衰退していく。しかし、次の代がその逆境を跳ね返して、家を立て直していくという繰り返しだった。気付いてみると佐渡屋太郎も年を取り、そろそろ“語り部”になりつつある。

 母親やおばさんは昔の話をしたくて、うずうずしているようだった。しかし、アホと言われながら、その話をリードしていく“酒飲み”がいない。だから、私のところに擦り寄ってくるわけである。その背景には、実に濃密な一族の人間関係があった。年が近い子供たちはみんな兄弟のようにして育った。それをつないだのは、親類が協同して行なう田植えや稲刈りであり、“語り部”が活躍するのは結婚式や葬式の場であった。だから、いま母親を1人で佐渡に残しておいても何の心配もない。兄弟や姉妹のようにして育った親類が何人もいるからだ。

 いずれにしても、私のコレクションは守られた。東京のいとこは、親の家の8畳の部屋に詰め込んでいた本や骨董品をすべて処分されたという。これは人徳と親孝行の度合いの差ではないかと思っている。しかし、油断は大敵だ。“女心と秋の空”――いつ母親の心が変わるか分からない。今後も“一瞬”の隙を付かれることのないように、この勝負を勝ち抜きたいと思っている。

 今回は「マルハンとダイナムの行き方」というテーマで書き出したのだが、前フリだけで1回分の原稿量となった。これもすべて、酒のためである。しかし、今日は書きながらいろんなことを考えた。お蔭様で腰の調子は大分よくなった。しかし、明日から“原稿地獄”の始まりである。また、首を洗って次の“決戦”に臨みたいと思う。(佐渡屋太郎)


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