遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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2013年06月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年08月

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13年における挿し木の中間報告(その1)【佐渡屋太郎-vol.292】

挿し木鉢から植え替え直後のサクラ2本

いまは13年7月31日(水)の14時28分。さて、とり急いで“植木シリーズ”の第2弾に突入する。我が“植木歴”を振り返ると、昨年の12年における特記事項は“実生”(みしょう)であった。11年秋から12年の初めにかけて、歩いている時の見つけた木の実をやたら鉢に埋め込んだ。その結果、誕生したのがナンキンハギとシラカシである。まだ、十分に成長はしていないが、ツブラシイの3本もその頃のものだ。今年になってなぜかシナノキが4本出てきて、種で植えたものかどうか確信が持てなくなっている。

いま数えてきたら、ナンキンハゼが7本、シラカシが6本もあった。現在、ベランダの鉢置場は飽和状態になっており、このナンキンハゼとシラカシを少々、持て余している。いずれもがどんどんと大きくなっているのだ。昨年の秋に刈り込みを行なったが、そのとき伐採した枝の挿し木の何本かも根付いてしまった。今後はさらに刈り込んで幹に曲を付け、盆栽仕立てにしても面白いだろう。いずれにしてもこのまま置いておくことは物理的にできない。

植え替えから13日が経過し、大きな新葉が出てきたサクラ2本

そして、13年となる今年の特記事項は、何といっても“挿し木”である。3月ころから散歩や取材から帰ってくるときに、新葉の出た枝を無闇と持ち帰ってきた。この木に対する収集願望がどこからくるのか自分でも不思議であるが、いまだによく分からない。とにかく、木をみるとそれが鉢のなかで縮小された形で根付き、元気に育っている姿を想像して、ムクムクと収集欲が湧いてくる。本来ならもっと形を良くする作業をしなければならないのだが、私の実力はまだ全然そこまで達していなくて、いまは根付かせることに精一杯の状態だ。来年あたりからそうした作業に着手していくことになるだろう。

しかし、いまは盆栽の本やブログを見て、いろんな樹種を集めることに夢中になっている。最近はガジュマルやフジが盆栽になっているのを見て、大いに意欲を燃やしているところだ。ガジュマルならベランダに5~6鉢はあるし、フジは09年に佐渡で“格闘”した。竹薮に入れば、その残党がいくらでもあるはずだ。それを盆栽に仕立てて、垂れるような花が咲けばどんなに綺麗であろうか。そんな盆栽の写真を見てうっとりしている。いまは“針金掛け”のいろんな技が編み出されているようだが、私はあまりこれが好きではない。さらに平べったい盆栽鉢も嫌いだ。樹形は味わい深い方がいいが、懸崖などあまり作り込んだものには感動しない。自然で古味を感じさせ、さらに生気に溢れているもの。今年の冬は成長した植木たちを大胆に刈り込み、少し針金を掛けて整形してみたいと思っている。

植え替え直後のクチナシ

さて今年の挿し木は、サクラ、ウメ、クチナシ、ハナミヅキ、サツキ、ツツジ、スズカケノキ、ユキヤナギ、アカシア、カエデ、ユリノキ、エンジュ、ハギ、ボケなどを採ってきた。そして本を読んで、水はけのよい赤玉土の鉢に次々と植えていったのだ。その赤玉土の鉢が満杯のときは、他の植木の鉢にも見境なく植えたこともある。その結果がいよいよ明らかになりつつある。成否は樹種によって大きな偏りがあるのが特徴だった。成功率の高いものを順に並べると、①クチナシ(80%)、②サクラ(70%)、ボケ(60%)がベストスリー。そのほか成功したものを挙げると、ツツジ、ユキヤナギ、エンジュの6種であった。

ちなみに、それぞれの本数は、①ボケ=9本、②クチナシ=8本、③サクラ=3本、③エンジュ=3本、③ユキヤナギ=3本、⑥ツツジ=2本という内訳になった。このなかで一番うれしいのはサクラのソメイヨシノで、この部屋から見えるサクラの木から採取してきた。サクラ好きの佐渡屋太郎は、まさかあのサクラを鉢の中で育てられるとは、正直言って夢にも思っていなかった。いつの日か、これらの木に花が咲くことを想像するだけで、興奮してくる。と思っていたが、実は事務所に置いてあった「街道桜」を、Y嬢の実家である枚方に預けてあるのを思い出した。今年も綺麗な花が咲いていた。しかし、それは盆栽を買ってきたもので、一から育てたソメイヨシノは感激が一味ちがうだろう。

植え替えから13日が経過し、右の枝から新葉が出てきたクチナシ

そのサクラの葉のふちが茶色くなり、まるまり出したのだ。これが植え替えを決断したきっかけだった。赤玉土は水はけがいいが、逆に水持ちが悪い。水をやってもすぐ下皿に流れ出てしまう。こんな状態で暑い夏を乗り切れるのだろうか。おまけに鉢の下からすでに根が出ていた。これは根付いている証拠であり、さらに先端部からは新たな葉が出ようともしていた。そこで7月18日(木)に、まず試験的にサクラ2本、クチナシ1本、ユキヤナギ1本が植わっている鉢の植え替えをしてみることにした。これが今回のテーマである。いわば挿し木植え替えの“第1弾”の結果報告だ。

しかし、肝心な植え替え前の写真を撮るのを忘れてしまった。私としたことが、何とも言い訳のできない大ボケであった。植え替え後のものなら再撮影できるが、植え替え前のものはもう2度と撮り直しができない。貴重な写真を撮り逃してしまった。作業はまず、サクラの2本を6号鉢に、次にクチナシとユキヤナギをそれぞれ5合鉢に植え替えた。実に贅沢な植え替えである。あとで考えて見たが、この配分で植え替えをしていったら、鉢を置くスペースがなくなることに気付いた。

植え替え直後のユキヤナギ

しかし、その成果はあった。サクラの2本はそれからグングンと新葉を出していき、その大きな新葉の重みで頭を垂れるほどになったのである。植え替えの時に見たが、3種とも立派な根が大量に出ていた。植え付けてから4ヵ月近く、ほんの小枝であった挿し木がこれだけ大きくなり、根も逞しいほどに多くの本数でそれぞれが長く伸びていた。想像以上の根の発達度合いであった。よくぞ、ここまで育ってくれたものだ。あとはその根でしっかりと水を吸い上げ、枝を伸ばし、葉を茂らせてほしい。

サクラだけでなく、クチナシもユキヤナギも植え替え後、すぐに新しい葉を出してすごい勢いで成長を始めた。赤玉土から培養土70%、赤玉土30%に切り替えたが、別に問題はなさそうだ。これまで1日おきに水をやっていたが、3日に1回くらいで済むようになった。何より底深の鉢なので根が十分に伸びることができるし、少し水遣りを忘れても保水力が格段にアップしたので、すぐに危機的な状況になることもない。私が心配しているのは佐渡行きである。今回はY嬢も連れて行くので、植木に水をやる人間がいなくなる。Y嬢は7日間、私は10日間以上、佐渡にいる予定だ。途中でY嬢の姉が水やりに来てくれることになっているが、その間を乗り越えられるかどうか。

植え替えから13日が経ち、新葉が出てきたユキヤナギ

前の赤玉土では100%アウトだろう。しかし、培養土になったことで乗り越えられる可能性が格段にアップしたのだ。以前、京都のマンションに住んでいて、息子と一緒に佐渡に帰るときは、すべての植木を1Fまで下ろし、管理人に水やりを頼んでいったこともある。たかがチンケな植木であるが、私にとっては“宝物”だ。1鉢でも犠牲を出したくない。そんな長期的な視野に立っての植え替えでもあったのだ。このあと、“第2弾”の植え替えに突入していく。(佐渡屋太郎)

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カエデとハナミヅキの今後【佐渡屋太郎-vol.291】

葉が茶色に変色して瀕死の状態にある“奇跡”のカエデ

いまは13年7月31日(水)の12時35分。やっと7月末締切りの原稿書きが終了した。あと2ページ分ほど、書いておきたい原稿があるのだが、先方に送った質問状がまだ返ってきていない。到着次第、その原稿も引き続き片付けて、負担を軽くしておきたいと思っている。何しろ8月分の原稿は8月11日(木)までに片付けて、8月12日(金)から待望の佐渡への帰省を決行する。取材の関係で書き切れない分は、8月22日過ぎから月末にかけて“超特急”で書き上げる予定だ。いずれにしても、例年の通り“天国と地獄”の8月となる。

このブログに関しても、せめてマカオの件だけは帰省前に片付けたいと思っているが、本業の原稿との兼ね合いでどうなるか分からない。次は、いよいよ期待のコタイ地区のカジノである。しかし、少し書きかけたものの本業の原稿を優先したために、投げ出してあるのが現状だ。そして、本来なら“いま”書かなくてはならないのだが、7月分の原稿書きに疲れて、コタイ地区に突進していく闘志とエネルギーが全く不足している。そこで7月分の原稿の本数を稼ぐために、頭を使うことなく書ける“植木ネタ”を2~3本かいて“お茶を濁す”ことにしたい。

ただ、“植木ネタ”を集中的に書いた5月中旬から現在の7月末まで、我がベランダでは数々のドラマが展開されている。それらの件を書きたくてたまらなかったのだが、カジノに対する興味も強く、そちらを優先していたのだ。ここらで溜まりに溜まった欲求不満の“ガス抜き”をしておきたいと思う。この間に起きた数々のドラマを“ネタ的”に分類すると、瀕死の小ギクの救済、Y嬢の実家での枚方にあったヤマブキの救済、3月から始めた数々の挿し木たちの成長、昨夏に佐渡から持ってきたツバキたちの急成長、育ち過ぎた植木たちの整枝と伐採、増えすぎた植木鉢の抱える問題などが挙げられるだろう。

そして、いま一番気に掛かっていることは何かというと、運良く根付きで採集できたカエデとハナミズキの生死である。カエデはいま最も欲しいと思っている樹種で、“モミジ病”が少し軽くなったと思ったら、今度は“カエデ病”が発症してしまった。実はカエデはこの建物の前庭に若木があり、私の散歩道にも大木が何本も植わっている。それを鉢上げしたくてたまらず、これまで若枝を採集してきては何本も挿し木をしてきた。しかし、これがすべて失敗に終っているのである。

そんな状況下にあった7月24日(水)の夕方、Y嬢と近くのラーメン屋に晩飯を食べにいく途中で、凄いものを発見してしまった。駐車場のアスファルトとブロックの狭間から30cmくらいのカエデの若木が逞しくそそり立っていたのだ。そのとき、私は自分の目を疑った。自分がいま最も欲しいと思っているものが、目の前にある。私はあまりの驚きで、自分の直面した状況がしばらく理解できなかった。“神”が仕事と勉強に一所懸命の励んでいる私に、“ご褒美”をくれたのだろうか。しばらくして、やっと思考が戻ってきた。そして、興奮で震える手でやさしく引っ張ってみると、主根と5本くらい脇根をつけたままスルリと抜けた。これも“奇跡”である。完璧な採集であった。この一連の出来事に“神”の意思を感じざるを得ない。この逞しい生命力を持ったカエデは、さぞや鉢の中でメキメキと成長してくれるに違いない。

よく見ると、枝がいくかに分かれていた。きっと芽を出してから2~3年は経っているはずだ。その間、アスファルトとブロックのわずかな隙間に根を張り、成長してきた“根性カエデ”なのである。乾燥しないようにラーメン屋においてあるフリーペーパーに挟んで家まで持って帰り、根を切り込みすぎて仮死状態になっているシルバープリペットの鉢に植え込んだ。しかし、2~3日後から青々としていた若葉が、次第に黄ばんでくるようになった。お前のこれまで持っていった“根性”はどうしたんだ。その根性でメキメキと根を伸ばし、新枝を張っていくはずではなかったのか。このところ、私はそんな声を“根性カエデ”に掛け続けている。“神”は私とカエデを見捨てたのだろうか。これからは時間ができたので、赤玉土の鉢を作って、最後の救命作戦を決行しようかどうか、いま迷っているところだ。

何とかまだ生きて成長をしている根付きのハナミヅキ

一方、ハナミヅキの挿し木もすべて失敗した。赤玉土と培養土の両方に植えてみたが、いずれも結果は同じだった。ただ、培養土に植えた方はだいぶ長持ちして新葉を出したものもあった。一時期は完全に、“挿し木の成功”を確信したこともあった。しかし、陽射しが強くなるとともに、葉が茶色に変色していった。ところが7月21日(日)、Y嬢と参院選の投票に行った帰り道で、草刈機で若木の頭を切られ、その切り口から新枝を出しているハナミヅキを発見した。若木は非常に小さく、引き抜いたら簡単に根を確保することもできた。

家の周りにはハナミズキがたくさんあるのに、何故か鉢上げできない現状に、私はすっと苛立っていた。何としても鉢植えにしてあの可憐な花を見たい。その思いが数々の失敗を繰り返すごとに強まってきたのだ。それは“執念”といってもいいだろう。採集してきたハナミズキは数日間、水に付けておき、水揚げを確認してから、親木が枯れて子木2本の挿し木が根付いているヒサカキの鉢に植えてやった。幸い、いまのところは新葉が出るなど順調な成長を続けている。ただ、鉢の水分が少なくなると頭を垂れるので、日々の細やかな観察を続けながら、水やりには十分に気を付けている。

7月末分の原稿を書いている間も、私はこの2本が気になって仕方がなかった。さらに、6つの鉢に分散している挿し木たちをどのように鉢上げするのか、ということも考えながら毎日、鉢を眺めていた。それは悩みでもあり、楽しみでもある。早く原稿を書き上げて、思い切り植え替えをしたい。植え替えを終わって生き生きとした姿になった植木たちの姿を想像しながら、シコシコと原稿を書いていたのである。そして、また自由な時間が返ってきた。そこで今日は念願であった挿し木の植え替えを行なったのだ。

実は、今回のブログは「13年挿し木の中間報告」というタイトルで書き始めた。しかし、カエデとハナミヅキのことを前フリで書いているうちに、1本の原稿となってしまった。掲載写真の点数も少ないので、とりあえずこれだけでアップすることにした。これからカエデとハナミヅキの写真を撮って、アップ作業を行なう。そして引き続き、挿し木の鉢上げとヤマブキの救済の話を書くつもりだ。これからもう2本の原稿が書けるかどうか。とにかく急いで作業をしていこうと思う。(佐渡屋太郎)

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P業界の課題とマカオ半島部のカジノ【佐渡屋太郎-vol.290】

02年の外資へのカジノ解放後、04年5月に先陣を切ってオープンにこぎつけた「サンズ・マカオ」

いまは13年7月13日(土)の18時50分。このところ、京都では4日間連続で35~37℃の「猛暑日」が続いていた。しかし、今日は16時過ぎから雷とともに激しいスコールが降り、涼しい風がこの部屋にも吹き込んでくるようになった。いま水風呂に入ってきて、その涼風の有り難さをしみじみと感じている。これまでは何とか“2000円の風”の扇風機で頑張ってきたが、今週はさすがの佐渡屋太郎もギブアップしてしまった。14時になると冷房を付けて17時まで読書時間にして、前に古本屋から105円でゲットしてきて、部屋に積んであった村上春樹氏の『1Q84』のBOOK1とBOOK2を読了した。今日は早速、アマゾンでBOOK3を注文したところだ。

その注文の際、新作『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』のカスマーレビューを読んで、腹を抱えて笑ってしまった。それは“アンチ村上派”の年若い読者が書いた文字数の多いレビューであった。そんなに嫌いなら読まなければいいと思うのだが、かなり細部まで読み込んでいて、主人公の格好を付けた態度にケチを付け、そのモテぶりに激しい嫉妬をしている。いかにもいまの若者らしい視点で、多分にひねこびてはいるが、自虐的な視点で笑いのツボに引き込んでいく。なかなかの力作であったが、多分この本の本質や著者が言おうとしたことは全然ちがうところにあると思う。その点について、私はまだその本を読んでいないので、これまでの著作からの類推でしか判断することができない。しかしそれは多分、当たっていると思う。入口で嫌悪感を持ったのなら仕方ないが、もっと奥の方に考えなければならないことや、恐れなければならない現実的な問題があると私は思う。

せっかく笑いを取っているのに無粋だが、世に中には次元の違う視点や人間の動きがある。このレビュー氏がそのことに関心を持ち、それに向き合わない限り、この本はレビュー氏にとって何の価値もないと思う。売れているから、またはテレビで取り上げられたからといって、読もうとしなくてもいいのではないか。無理して読む必要はないし、本は茶化しの対象でもない。書く人は真剣に書いているのだ。これは本の宿命であるが、いろんな読まれ方に耐えなければならない。それが難しい問題だ。このレビューに限らず、ネットという媒体を通して、“狭量な考え方”が大手(おおで)を振って歩いている現実に危機感を覚える。笑ったあとで、何だか虚しくなった。

06年9月、スティーブ・ウィン氏がマカオへの記念すべき第1歩としてオープンした「ウィン・マカオ」

一方、マルハンの「韓流プロジェクト」の情報を集めているとき偶然、私の知っている人のコラムを見つけた。テーマはホール業界の“社会的認知”に関するものだった。古い評論家の言葉を持ち出して多分に叙情的で、幾分ペダンティックな匂いもしたが、結局なにを言いたいのか分からなかった。その中でパチンコは法的に“遊技”として認められているのに、一般大衆にはなかなか認めてもらえないという嘆きがあった。しかしこの“パチンコは遊技である”という基本が、時代錯誤な考え方になっていると私は思う。そして、その考え方や現状の姿が、ホール業界が“社会的な認知”を得られないそもそもの源泉になっていると思う。

つまり、“パチンコはギャンブルである”というところから始めないと、結局は“社会的な認知”というところまで行き着けないのではないか。これはこのブログで何回も言っているので繰り返しになる。確かに、パチンコで勝ってタバコやチョコレートや缶詰をもらって喜んでいた時代は、“パチンコは遊技”であったかもしれない。しかし時代は変わり、一時期は10万円を突っ込んで100万を得るという、まさにホールが“鉄火場”と化したこともあった。そんな姿も知っているので、多くの一般大衆は“パチンコはギャンブル”であると考え、なぜ賭博が禁止されている日本でパチンコが許されているのかという“矛盾”を感じている。

また、貸玉料金の総額ではあるが、ホール企業トップの2兆円や数千億円という売上額を見て、他業界の人々は大きな“不公平感”を持っている。なぜ、パチンコ業界はあんなに儲かるのか。しかし、あれは“特別な業界だから”と考えて一線を画し、その代わり“白い目”を向けて自らの視野から黙殺していくのである。何が“特別”であるかと言えば、禁じられているギャンブルを合法的に営業していることであり、“白い目”というのは差別視ということである。ホール企業は株式上場できれば、“社会的認知”が得られると考えてきた。そして、ダイナムが香港で上場を果たした。しかし、そのとき私は考えたのだが、仮に日本でホール企業が10社も20社も上場したらどうなるのか。もしかしたら、これまで積もり積もっていた一般大衆が抱く“矛盾”に対する不満や、他業界が持っていた“不公平感”が、一気に爆発するのではないかと。こうなると“社会的認知”とは真逆の話になってくる。

香港のギャクシー・エンターテイメントが06年10年にオープンした「ギャラクシー・スターワールド」

これで思い出すのが、“自衛隊は軍隊ではない”と政府与党が叫んでいた時代のことだ。防衛費の国家予算3%枠をめぐって、与野党が激しい攻防を繰り返していた。しかし実際の姿を見れば、日本の自衛隊は世界でも有数の軍備を保有している。“黒”を“白”と言いくるめるのは官僚の得意技だ。しかし、時代や周辺国の状況が変わり、“国防軍”はどうかと思うが、少なくとも“自衛軍”と言えるようになり、一般大衆もそれで大方が納得するようになった。翻ってパチンコを見てみると、現状を容認するために“遊技”という概念や、“3店方式”なる奇妙奇天烈な論理を作り上げてきた。これも官僚の得意技であろう。しかし、実態を見てみると、“遊技”とは到底言えないような多額の金額で玉やメダルが買われ、さらにホールの近くで換金も行なわれている。いつの間にか、パチンコは立派にギャンブルとしての“軍備”を持つようになったのである。その一方で、決して少なくないパチンコ依存症者や経済的な破綻者を生み出してきているのも確かだ。

しかし、単なる“遊技”ということで、その管理は他のギャンブルに比べれば信じられないくらいに甘い。遊技機は一応、国や都道府県の検査を通っているが、パチンコに関して言えば実質的に出玉の調整をホール側が行なっている。また、収支関係の監督官庁への報告義務もない。行き過ぎれば警察による裁量主義的な指導はあるものの、“遊技”の幅はそのときどきで大きく変化し、遊技機規則はあるものの“爆裂機”が出るたびに様々な問題を引き起こしている。その警察も大量の天下りをパチンコ業界に送り込み、その関係性には大きな疑問を持たれていることも確かだ。こんな現状ではなかなか“社会的認知”は得られないだろう。

ただ、カジノ解禁を背景とはしていたが、特別法を作ってパチンコを根本的に見直し、社会的に認められる仕組みを再構築する動きも業界内にあった。しかし、大多数を占める中小ホール企業の総意によって、その動きも封じられてしまった。このとき私は愕然としたが、冷静に考えれば、いくら規制は厳しくなっても今のままがホール業界にとって一番いいのである。変に改革を断行されると、管理はきつくなるし、経営環境も厳しくなる。ホール業界の“社会的認知”は得られても、その時には自分のホールや会社がなくなっているということも考えられる。これでは笑い話にもならない。そんな防衛意識が働いたのではないか。しかし、自分たちで自分の所属する業界を変えられないというのは、組織として非常に脆弱で、どこまでもお上(かみ)に隷属していくしかない道を選んだということではないか。そのとき私は、ホール業界のそんな本質を見たような気がした。

MGMがパンジー・ホー氏と組んで07年12月にオープンした「MGMマカオ」

ただ、そんな猶予期間もそろそろなくなろうとしている。いま関係者が必死になって頑張っているカジノ法案が通れば、その次はパチンコの改革となる。その時点でパチンコを“遊技”として押し通せるのかどうか。仮に押し通せたとしても、厳しい管理下に置かれるのは確かだろう。個人的にはカジノを“大ギャンブル”、パチンコを“小ギャンブル”として整合性を取るのが一番すっきりとしていて、一般大衆が納得しやすいし、実態に即していると思う。そこにはカジノに準じた納税や運営者の資格審査、遊技機や環境管理、経営管理が必要となる。それほど賭博の違法性を阻却するということは、重い責任や厳しい管理を必要とするものなのである。

それでも“パチンコは遊技である”と主張するなら、ギャンブルと一線を画す明確な基準が必要だろう。そのなかで実質的に換金が行われているということが認められるのかどうか。これまで風適法を作ってきた官僚は、自らの“無謬性”の鉄壁は崩したくはないだろうが、苦心の末に作った“3店方式”の論理は急激な隘路にはまり込んでいくのではないだろうか。個人的な考えでは、もうそろそろ限界に近づいてきていると思う。これ以上、“屋上屋を架す”というようなことができるのか。近頃、カジノ規制の本をいくつか読んでいるが、つくづく日本のパチンコの特異性に驚かざるを得ない。海外のカジノのプロたちや法律の専門家は、この“3店方式”をどのように見るのか。また、この“3店方式”をパチンコ業界にだけ認めている根拠はどこにあるのか。それで全業種的な公平性は保たれているのか。国民は納得しているのか。

それよりもパチンコをギャンブルと認めて、現状のシステムを再構築化した方がずっと分かりやすいし、一般大衆の理解も得やすい。これだけ飽きやすい日本人が70年以上もパチンコに通い続けているのは、遊技機の面白さに惹かれてというよりは、ギャンブルの“魔力”に依るものだろう。それはゲームセンターに設置されたパチンコ機やパチスロ機の状況を見れば一目瞭然だ。ギャンブルには強い常習性もある。そのギャンブルとしてのパチンコを支えているのが換金である。その現状を“直ちに違法とは言えない”として容認してくれた警察庁の見解は、ホール業界にとって実に有難いのもであったが、それが逆に業界の“社会的認知”を阻む大きな要因になっているという皮肉な現実を作り出した。

誰が見ても“ギャンブル”であると思うパチンコを、現行の法律がいくらかの制限はあるものの、“遊技”であるとして守っている。その“嘘臭さ”に多くの国民が鼻白み、いつの日か正当な判断が下される日が来ると信じているわけだ。日本人は面と向かって相手を非難することはあまりしないが、その代わりに“白い目”で見ることになる。それが差別視であり、社会的な“非容認”である。この大元(おおもと)を変えない限り、パチンコが社会に認められる存在になる日は永遠に来ないと私は思っている。前フリの話題であったが、いささか熱くなりすぎた。こんな問題をホール業界はいつまでダラダラと抱え続けているのだろうか。それにしても自己解決能力がないというのは致命的な欠陥で、そんな業界に“遊技”の運営を任せていること自体にも管理上の問題がある。カジノを勉強すればするほど、運営者の“意識の差”を感じてしまう。この問題には私もいい加減、飽きてきたが、尊敬する先輩のコラムに火を付けられて年甲斐もなく燃えてしまった。

STDMからのサブライセンスで08年2月にオープンした「ポンテ16」

さて、遅ればせながらいよいよ引っ張りに引っ張ってきた「マカオ半島部のカジノ」の始まりである。あまり熱くなりすぎたので、これまでの前半だけで1回分にしようと思ったが、それでは許されないだろう。やるときはやらないと相手に見くびられてしまう。今回のマカオ取材における行動の原動力になったのは、“生活習慣の変化”である。それまで取材や差し迫った原稿がないときは夜中の2時か3時に寝て、9時か10時に起きるという習慣であった。しかし、4月ころから22時から24時までに寝て、4時から5時までに起きるという習慣が、何と現在まで続いている。その変化はある偶然によってもたらされた。

それまでは寝ると思って寝たことはなかった。本を読みながらであるとかテレビを見ながらでないと眠れなかった。しかしある日、非常に疲れた日があって、うつ伏せになって足を60度くらい広げたらとても気持ちよく、自然に眠りに落ちていった。これで思い出すのが学生時代、窓ふきのアルバイトをしていたときだ。そのころは、首を右側に傾けるだけで、どこでもすぐに寝入ることができた。その寝入りの早さに、見ている人を驚かせたこともある。その頃の特技の復活というべきか。22時を過ぎると、うつ伏せになって寝入り、いまでも4時か5時になると自然に目が覚めるようになった。そして鳥の声を聞きながら、次第に明るくなっていく外の景色を見ながら、10時の朝食まで“朝仕事”をしている。マカオでもその習慣は生きていて、初日はあれだけ歩き回ったのに翌朝の5時には目が覚め、ガイドブックを読んで作戦を練り、6時には“大利迎賓館”を飛び出してマカオ半島部のカジノホテルの取材と写真撮影に出掛けたのである。

さらに言えば、2日目の朝は説明会での録音を聞き、前取材でもらった展示会のガイドブックを読み、取材先を決めて9時半に展示会場に向かった。最終日となる3日目の朝は、5時に起きて帰りの荷造りをし、船や飛行機の時間を確認してその日の予定表を作り、6時には外へ飛び出してコタイ地区のカジノホテルの取材と写真撮影に出掛けた。これまでの怠惰な生活から一変した、何と勤勉な日々であろうか。自分でも驚いてしまう。それによって、限られた日数と時間の中で、本来の仕事とは別に多くのカジノホテルを見て回ることができた。

さて、問題のマカオ半島部で見るべきことは、“第1次カジノ展開”ともいうべき、最初の外資カジノの開業がこの半島部で行われたことだ。2002年にこれまでスタンレー・ホー氏が持っていたカジノ独占経営権の満期に伴い、マカオ政府は外資にもカジノ経営権を解放する決断を下した。このときの入札の結果、カジノ経営権を獲得したのが、ホー氏(澳門旅遊娯楽股份有限公司=STDM)とスティーブ・ウィン氏(ウィン・マカオ)とシェルドン・アデルソン氏(サンズ・チャイナ)が経営する3社であった。その展開がどのように行なわれたかを時系列で見ると、次のようになる。

【マカオ半島部におけるカジノホテルの動向】
●2002年=外資企業へのカジノ経営権解放。
●2004年5月18日=「サンズ・マカオ」オープン。
(所有=ラスベガス・サンズ、敷地=2万1270㎡、総工費=2億4000万米ドル[約211億2000万円]、VIPルーム=51室、テーブルゲーム=269台、ゲームマシン=1086台)
●2006年9月6日=「ウィン・マカオ」オープン。
(所有=ウィン・リゾーツ・リミテッド、敷地面積=6万5000㎡、第1期総工費=12億米ドル[約1056億円]、客室=600室、テーブルゲーム=390台、ゲームマシン=1270台)●2006年10月19日=「ギャラクシー・スターワールド」オープン。
(所有=ギャラクシー・エンターテイメント、カジノスペース=1300㎡、総工費=4億2000万米ドル[約369億6000万円]、38階建て、客室=507室、テーブルゲーム=290台、ゲームマシン=300台)
●2007年12月18日=「MGMマカオ」オープン。
(所有=MGMリゾートインターナショナル、敷地面積=6万6000㎡、総工費=12億5000万米ドル[約1100億円]、35階建て、客室=600室、テーブルゲーム=385台、ゲームマシン=888台)
●2008年2月1日=「ポンテ16」オープン。
(所有=SJM/マカオ・サクセス、敷地面積=2万5110㎡、総工費=9億米ドル[約792億円](推定)、客室=408室、テーブルゲーム=107台、ゲームマシン=270台)
●2008年12月18日=「グランド・リズボア」オープン。
(所有=SJM、敷地面積=3万8000㎡、総工費=3億8500万米ドル[約338億8000万円]、58階建て、客室=430室、テーブルゲーム=240台、ゲームマシン=480台)
●2010年4月21日=「アンコール・アット・ウィン・マカオ」オープン。
(所有=ウィン・リゾーツ・リミテッド、カジノスペース面積=3200㎡、総工費=6億米ドル[約528億円]、客室=414室、VIPテーブル=37台、高級スロット=33台)

スタンレー・ホー氏が率いるSJMが08年12月にオープンした「グランド・リズボア」

これだけのデータを調べるのに、思わぬ時間が掛かってしまった。次のコタイ地区のデータも同時に収集したこともあるが、カジノに関してはしっかりとした基本情報が意外に少ない。その間、いろいろ面白い情報も得られたので、“怪我の功名”にはなってくれるだろうが、溢れるほどの観光情報は私にとって何の価値もなかった。ちなみに総工費については、円表記にした方が分かりやすいと思い、当時のレートであると思われる1米ドル=88円で計算してある。

この一覧表から分かるのは、カジノライセンスを得た当初の3社(STDM→SJM、ウィン・マカオ、サンズ・チャイナ)から拡大した6社(前記3社に加え、MGMチャイナ・ホールディングス・リミテッド、メルコ・インターナショナル、ギャラクシー・エンターテイメント)は、先を争うようにまず半島部にカジノを作ったということだ。3社から6社になった経緯は次回に説明する。ちなみに「ポンテ16」はSTDM(SJM)からサブライセンスを得て、カジノを運営している。したがって、利権の30%はSJMが持ち、128億円を出資したマルハンの利権は5%であったという。マルハンは2010年度の決算で、そのうちの60億円を特別損失として計上している。今回、ダイナムが出資したレジェント社もSJM傘下であり、今後の動向が注目されるところだ。

また、ウィン氏の動きに遅れを取れないと思っていたMGMは、ホー氏の第2夫人との娘であるパンジー・ホー(何超瓊)氏と50%対50%の出資による合弁事業を立ち上げ、STDM
からのサブライセンスによって「MGMマカオ」をオープンした。その後、パンジー・ホー氏は所有する50%の株式のうち、21%(20%を一般投資家、1%をMGMリゾーツ)を売却して香港一の女性富豪となり、MGMリゾーツは経営権を握ることになる。こんなダイナミックな“離反集合”が繰り返されていたのが、外資へのカジノ経営権解放後のマカオの現状であった。

そして、そのなかで半島部に拠点を持った各社は、埋立地であるコタイ地区へと“第2次カジノ展開”を推し進めていくのである。物語はいよいよこれから佳境に入っていく。しかし、今回はこれが限界だ。前フリで熱くなりすぎて、エネルギーを使い果たした。また、取材の合間を縫って書き継いできたが、今回の記事ために集めた多くの新たな資料がまだ整理されていない。ここで少し休憩をとって頭を冷やし、資料を整理しながら、半島部から橋を渡っていよいよ現在の“本丸”となっているコタイ地区に攻め込んでいくことにしようと思う。(佐渡屋太郎)

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“カジノ王”とマカオの変遷【佐渡屋太郎-vol.289】

マカオ半島部のランドマークとして威容を見せる「グランド・リズボア・ホテル」

いまは13年7月6日(土)の16時02分。いま室内の温度計は31℃で、湿度は79%。とにかく蒸し暑い。しかし、佐渡屋太郎は昨年買って“2000円の風”と名付けた扇風機と、氷入りの麦茶で頑張っている。今週は締切りも終わったので時間があると思っていたら、佐渡行きの切符の予約やカードの解約、植木の植え替え、Y嬢母の病院の予約や薬の受け取りなどで、アッという間に過ぎ去ってしまった。昨夜はアメリカ村にあるS君のアミューズメント・ポーカーの店に行き、種々の打ち合わせや取材をしてきた。とにかく、いろんなことがいろんな方向に向かって動き出している。そして、来週からはまた本格的な取材の日々が続く。今月から来月初めの取材は盆前に原稿を片付けなければならないので、この1ヵ月は恒例の“激戦”が展開されることになるだろう。

さて、今週はカジノ関係のニュースもなかったので、やっと「マカオ半島部のカジノ」に取り掛かれると思っていたら、3日前にある考えが浮かんできた。それはカジノホテルの説明をする前に、マカオにおけるカジノの歴史を見ておく必要があるのではないかという素朴な疑問であった。では、それをいつブログの記事にするのか。それは「今でしょ」というわけで、今回のテーマに据えることになったのである。実は、マカオから帰って最初に読んだ本は、『ゴッドギャンブラー―マカオカジノ王スタンレー・ホー―』(楊中美著、青木まさこ訳、日本僑報社、2004年刊)と、『裸のラスベガス王―スティーブ・ウィンの光と闇―』(ジョン・L・スミス著、小幡照雄訳、柏書房、2002年刊)であった。

この2冊は非常に対照的で、前者は内容が薄過ぎ、後者は内容が濃過ぎるくらい入念な取材がされていた。個人的には“カジノ王”と呼ばれ、今年91歳になるスタンレー・ホーの生き方に大きな興味を持っている。調べてみると、前者は「この著書が日本初のスタンレー・ホー伝なのである」という説明があったので、迷うことなくアマゾンで注文したのだ。しかし、手に取ってみて大きく落胆した。私も8年間、書籍編集の仕事をした経験があるが、これは全くの“やっつけ仕事”である。いくら台湾版の翻訳書だとはいえ、もう少し写真を加えるとか、略年表を付けるとかの“芸”があってもよかったのではないか。そうした編集担当者の熱意が全く感じられなかった。

マカオから帰って最初に読んだ『ゴッドギャンブラー―マカオカジノ王スタンレー・ホー』(楊中美著、青木まさこ訳、日本僑報社、2004年刊)

ただ内容的には面白く、ホー氏の壮大な生き方の片鱗は窺えた。しかし、話が飛び過ぎて内容が薄く、整理が不十分であるし、著者自身の考察やスタンレー・ホーという人物に対する切込みが乏しい。加えて、内容的に事実と反する部分や肝心な出来事の年月が抜けている部分、さらに翻訳でも語句の選択がおかしな部分が少なくなかった。きっと、時間的な余裕がなかったとかいろんな事情もあったことだろう。しかし、これだけの人物の伝記としては大いに食い足りないものが残った。死後にならないと、本格的な伝記は出てこないのだろうか。たとえば、内容的におかしな部分として、日本の読者に分かりやすい箇所を抽出してみる。これはカジノ経営権を得たスティーブ・ウィンの調印式の模様を記述した部分である。

「調印式の様子はマカオ人をさらにびっくりさせた。ラスベガス王スティーブン(ママ)・ウィンの脇に、日本のパチンコ王の岡田和生が立っていたからだ。このときスティーブン(ママ)・ウィンは、岡田の会社が自分と同じ四十七%の株を持つパートナーだとはじめて世間に公表した。岡田は日本国内の四十五%のパチンコ機のシェアを持つ最大のパチンコ機メーカーのオーナーで、国内第二位のパチンコチェーン店を経営し、納税長者番付けの上位の常連だった。今回、岡田は百五十億円の資金を投入したという。中国政府は日本資本と日本人客をもマカオに巻き込もうと企んだのである」(同書・187ページ)

ただ、私としてはこの本に書かれている事柄を、時系列に並べ直して、スタンレー・ホーのこれまでの人生を“総覧”してみたかった。彼の人生の多くの部分がマカオのカジノと関わっている。その人生を総覧してみれば、すなわちマカオにおけるカジノの歴史が分かるのではないかと考えたのである。それで本のページをめくりながら、まる1日かけて作ったのが以下の略歴である。部分的に私が持っている資料で補足したところもあるし、年月が書かれていない部分も多かったので、調べ直した部分もある。内容的には元がもとだけに全然自信はないが、こうして一覧表ができると、ホー氏の生気に満ちた果敢な人生にただ驚くばかりだ。

この本や他の資料でスタンレー・ホー氏の人生を顧みて、いくつか重要な点があった。それを私自身の備忘録として列記しておく。①母語の広東語や北京語のほか、独学で英語、日本語、ボルトガル語が流暢に話せるようになったこと。②マカオ聯昌公司の秘書時代、自分が担当した船が武装集団に襲われたが、隙を見つけて敵の銃を奪って船を守ったという勇敢さがあること。ちなみにその功績によって100万ドルのボーナスが与えられ、その後、石油精錬工場を作って独立する資金にした。③英領香港時代、大叔父(祖父の兄)の何東(ロバート・ホー・トン卿、ジェーディン・マセソン商会総買弁)によって、何東一族は香港の“四大一族”の1つという毛並みの良さはあったが、それをもとに優れた実務能力によって、次々と人脈を広げていったこと。

さらに、④大米洋行の社長時代、その莫大な収益を狙っていたヤクザ集団の友楽会から脅され、マカオから出て行くように最期通牒を突きつけられる。ホーは泣く泣く香港に去るが、そこでいち早く不動産業に目を付けて、莫大な資金を得る。その資金をもとにマカオに帰ってカジノの独占経営権を取得するわけだ。状況を先読みしてビジネスを考え、迅速に行動すること。これが後年の世界各国への投資に結びついていく。⑤4人の妻との間に17人の子供を作ったほどの精力の強さ。第4夫人と出会ったのは66歳のときで、その後に3男と2女をもうけている。略年表を見れば分かるが、その後のホー氏は精力的にマカオのインフラ整備を進めていく。ただ、後継者としていた第1夫人との長男は32歳でなくなり、カジノの独占経営権の切れる2001年には、第2夫人との長男は23歳で大学院を卒業していなかった。それで79歳になっていたホー氏は、あと5年間の独占経営権の延長を申し出たが、中国指導者は認めなかったという。このあたりが人生の悲哀と言うべきか。

ホー氏が作ったカジノやホテルが並ぶ殷皇子大馬路の一帯

しかし、こうして略歴を作ってから、本を読み返すと、またいろんな背景や事情が分かってくる。それでいま何をやっているかというと、この本に登場するホー氏と関係のあった人々の調査である。そのため、『アジアの億万長者』(ジェフ・ヒスコック著、丘山健訳、廣済堂、2002年刊)という本なども読んでいる。この本は別の意味でも面白い。いろいろ文句を言ったが、このホー氏の伝記はあと何回も読み返す必要があるだろう。それほどにホー氏の人生は興味深い。

さて、肝心のマカオにおけるカジノ歴史だが、大まかに言うと次のような流れになっている。清朝末期のマカオには200店を超える賭博露店があり、頻繁に流血事件や殺人事件が起こっていた。それに頭を悩ませていたポルトガル政府は1840年、賭博場開設の入札制度を導入し、私的な参入を一切禁止した。これが事実上のカジノ公認となり、政府は賭博場から税金を徴収することができ、管理もしやすくなった。これによって最初に賭博場の独占経営権を獲得したのは大富豪の盧九(本名=盧華紹)で、第1代目のカジノ王となった。第2代目のカジノ王は、1938年に独占経営権を取得した傳老榕。しかし、61年の入札日を前にして死去。そこに彗星のように現れてきたのがホー氏の率いる「四天王同盟」で、様々な妨害を退け、62年に独占経営権を取得した。

53年にヤクザ集団の友楽会にマカオを追い出されてから9年、香港で巨額の資金を蓄え、第3代カジノ王として再びマカオに帰ってきたというわけだ。その後、ホー氏は持ち前の先見性と行動力によって、賭博場を近代的なカジノホールに変えていった。さらに、ホテルや高速船などインフラ整備にも精力的に取り組んだ。しかし、1999年にマカオが中国に返還され、マカオ政府は2001年に外資にもカジノ経営権を開放することを決定した。2004年、アメリカのサンズがマカオに初めてのラスベガス式のカジノをオープン。2006年にはマカオのカジノ収入がラスベガスを超えた。現在、マカオには32のカジノがあり、2015~16年までにはさらに4~5つの大型IRがオープンする予定であるという。こうして名実ともにマカオは世界一のカジノ王国となったわけだが、その礎を築いたホー氏の精力的な活動は今後さらに大きな意味を持ってくると思う。そんなことを頭に入れながら、略年表を見れば面白さも少しは増してくるのではなかろうか。私も酒を飲みながらときどきこの略年表を眺めて、ホー氏の人生ドラマを想像して楽しみたいと思っている。(佐渡屋太郎)

1970年、6,000万香港ドルを投入して建設された1,000室近くの客室やカジノを擁する「リズボアホテル」

【スタンレー・ホー(何鴻桑)の略歴】
1921年11月25日(0歳)=シャーディン・マセソン社の買弁であった何世光の次男として生まれる。
1935年(13歳)=父が株価暴落で母とホーと妹を残し、長男と長女を連れてベトナムに逃亡。
1940年9月(18歳)=香港大学入学
1941年12月(19歳)=日本軍の香港侵攻。香港大学を中退、マカオ聯昌公司の秘書となる。
1941年12月10日(19歳)=太平洋戦争勃発。
1942年(20歳)=第1夫人となるマカオの貴族弁護士であったクレメンティア(黎婉華)と結婚。1男3女をもうける。
1943年末(21歳)=マカオ聯昌公司を退職。何賢と共同事業を始める。マカオ貿易局の幹部に抜擢され、供給部長に就任。
1944年(22歳)=マカオの燃料油の専売権を取得して、石油精錬工場を設立。
1945年8月15日(23歳)=日本が無条件降伏。マカオ政府を代表して輸入制限商品の取り扱いを開始。何善衝と共同で商社「大米洋行」を設立して社長に就任。
1946年(24歳)=船会社を設立し、香港―マカオ間の連絡船を就航。
1948年(26歳)=第1夫人クレメンティア(黎婉華)との間に、長男・猶光が生まれる。
1953年(31歳)=友楽会の代表がマカオから撤退するように最期通牒を出したため、マカオから香港に戻る。香港で友人とともに不動産会社「利安建築公司」を設立。
1955年(33歳)=香港での不動産業が成功し、1,000万米ドルの資本を持つ大実業家となる。
1961年10月(39歳)=霍英東、葉徳利、葉漢とともに「四天王同盟」を結成。ホーが設立した「マカオ旅遊有限公司」が全マカオの賭博独占経営権を取得。
1962年3月31日(40歳)=ポルトガル政府から正式に賭博独占経営権に関する契約書が発行され、カジノホール「新花園」が開業。
1962年(40歳)=第2夫人となる中国軍人の娘・藍瓊纓と結婚。1男4女をもうける。娘の1人であるパンジー・ホー(何超瓊)はグループの持株会社である「信徳集団有限公司」の総経理を務め、もう1人の娘のジョシー・ホー(何超儀)は香港の人気歌手。
1963年9月(41歳)=「信徳公司」を設立し、香港―マカオ間に高速船「路環号」を就航。
1970年(48歳)=6,000万香港ドルを掛け、1,000室近くの客室を擁するリズボアホテルを建設。ホテル内に大規模カジノを開設。
1970年(48歳)=イランで2,500万米ドルを投じて競馬場を建設。
1971年10月25日(49歳)=台湾に代わって中国が国連の常任理事国となる。
1972年3月10日(50歳)=中国の国連大使の黄華が国連非植民地化委員会の委員長となり、マカオは中国の領土であり、適当な方法を持ってマカオ問題を解決すると宣言。
1972年(50歳)=信徳船務公司を信徳企業公司に改名。

2008年にオープンした58階建て、地上260mの高さを持つ「グランド・リズボア・ホテル」

1972年(50歳)=「フィリピン賭博場公司」と合弁でマニラ湾以南の海上での水上カジノを開設。
1973年(51歳)=信徳企業公司を香港の株式市場に上場。
1974年4月25日(52歳)=ポルトガルで革命勃発。「共和国救国委員会」が独裁政権を打倒。
1974年6月18日(52歳)=ポルトガル国連大使が中国の国連大使に、マカオの主権を中国に返還したい考えを伝える。
1975年(53歳)=香港―マカオ間の夜間快速船を就航。
1975年7月11日(55歳)=ポルトガル新政府は「マカオ組織法」を制定。マカオは中国の領土に属し、当分はポルトガルの管理下に置かれるが、自治政策を推進することを明記。
1975年(53歳)=マカオ政府が示した賭博税の引き上げに即同意。10年分の規約書では年間賭博税は3,000万マカオドル(従来の3倍強)となり、マカオ政府の年間税収額の20%強に相当。
1975年(55歳)=ポルトガルで最大の船会社と全欧最大の娯楽場を買収。
1975年(53歳)=「マカオ旅行娯楽公司」から葉漢を追放し、同社の全権を掌握。
1976年8月(54歳)=マカオ立法会が創設され、立法権がリスボンからマカオに移行。
1977年(55歳)=第2夫人・藍瓊纓との間に長男・猶龍が生まれる。
1979年2月8日(57歳)=中国とポルトガルがパリで国交樹立の声明を採択。
1981年(59歳)=第1夫人クレメンティア(黎婉華)との長男・猶光(当時32歳)がボルトガルで交通事故に巻き込まれ死亡。
1982年1月(60歳)=鄧小平が「一国二制度」を発表。香港とマカオの主権の帰属と台湾統一問題を解決すると説明。
1982年5月(60歳)=ポルトガルが憲法を改定し、マカオをポルトガル管理下の中国領土と規定。
1982年5月(60歳)=マカオ立法会が「新賭博法」を可決。マカオを永久に賭博区にすると規定し、賭博税は賭博会社の収入の25%とする。
1983年(61歳)=凱悦ホテル、新皇都ホテル、東方ホテルを開業。さらにリズボアホテルの規模を超えるカジノホテル「回力」(客室数1,000室超)7億ドルの投資によって建設。
1985年11月23日(63歳)=マカオ政府はホーの新会社とドッグレースの独占経営権の契約を締結。
1985年(63歳)=第3夫人となる陳婉珍と出会う。陳婉珍は第1夫人でクレメンティア(黎婉華)の看護婦で、のちに1男2女をもうける。現在は東華三院副総理。
1988年1月31日(66歳)=葉漢が経営していたマカオ競馬場の株式の51%を、「マカオ旅行娯楽公司」名義で4億5,000万マカオドルを投じて購入し、筆頭株主となる。
1988年(66歳)=マカオ政府からカジノ船の経営権を取得。
1988年(66歳)=第4夫人となる広州のダンサー・梁安琪と出会う。後に3男と2女をもうける。

南湾湖近くから遠望した「リズボアホテル」と「グランド・リズボア・ホテル」

1989年(67歳)=香港―マカオ間に快速船「北星」と「南星」を投入。さらに超高速船「日星」と「祥星」も導入。
1989年6月4日(67歳)=中国で第2次天安門事件が起こる。
1989年(67歳)=信徳企業が香港島で5万9,400㎡の住宅用地と商業地5万9,400㎡を購入。
1989年(67歳)=タイの企業と共同でフィージー島に300室のホテルと28階建ての高層マンションを建設。
1990年(68歳)=信徳企業が香港島で1万4,500㎡の高級住宅用地を購入。
1990年4月(68歳)=「中国航空ロケット基金会」を設立。さらに中国宇宙工業省と合弁でマカオ宇宙衛生通信サービスとマカオ宇宙衛星テレビ会社をつくって、マカオの通信・テレビ放送インフラを整備。
1990年(68歳)=信徳企業公司を「信徳グループ」に改名。
1990年11月(68歳)=香港―マカオ間に直通便の飛行機を就行。
1990年(68歳)=北朝鮮の外国人向けホテルである高麗ホテルにカジノバーを開設。
1991年(69歳)=信徳グループが香港株式市場に上場。
1991年(69歳)=巨費を投じてマカオ南湾の埋め立てを始める。
1992年(70歳)=カジノのフランチャイズ制度を推進する。 
1994年4月17日(72歳)=マカオと大陸を結ぶために巨額の投資をした「中国マカオ友好大橋」(全長4414m)が開通。
1995年4月(73歳)=ポルトガル皇太子から国家が国民に贈る最高の栄誉である「大十字勲章」を授与される。
1995年11月(73歳)=20億ドルあまりを投資したマカオ国際空港が開港。政府の飛行場専売営業公司に次ぐ2番目の株主となる。
1996年(74歳)=オーストラリアで購入していた商業ビルをカジノホテルに改装。
1997年7月1日(75歳)=香港が中国に返還される。
1998年(76歳)=マカオ国際空港の乗客輸送可能数が200万人を超える。
1998年(76歳)=信徳グループの総資産が140億香港ドルに達し、関連企業は100社を超える多角経営グループに成長。
1998年5月(76歳)=マカオ特別行政区基本法起草委員会の副主任委員に選出される。
1999年1月(77歳)=マカオで「第1回ヤクザ一層作戦」を実施。
1999年5月(77歳)=マカオで「第2回ヤクザ一層作戦」を実施。
1999年10月(77歳)=マカオで「第3回ヤクザ一層作戦」を実施。
1999年12月20日(77歳)=マカオがポルトガルから中国に返還される。
2000年1月1日(78歳)=フィリピン・マニラ湾でカジノ船の営業を開始。
2000年2月(78歳)=マカオ旅行娯楽有限会社の名義で台湾に事務所を開設。
2000年3月(78歳)=中国政府はカジノ業の世界大手をマカオに誘致し、競争を通してさらなる繁栄を追求する戦略を公表。
2001年3月(79歳)=ホーが持つカジノ独占経営権が満期を迎えると、マカオ特別区政府は入札を通して3つの賭博業の免許を発行することを公布。
2001年12月19日(79歳)=1998年から建設を始めていた「マカオ・タワー」(338m)がオープン。
2002年2月8日(80歳)=マカオ特別区政府は賭博業免許の22社による入札結果を発表。第1号免許はスタンレー・ホー、第2号はスティーブ・ウィン、第3号をシェルダン・アデルソンに授与。カジノ税率は31%から35%に引き上げられた。
2004年(82歳)=第1夫人のクレメンティア(黎婉華)がガンで死亡。
2007年2月11日(85歳)=「グランド・リズボア・ホテル」内のカジノとレストランがオープン。
2008年12月(86歳)=58階建て、地上260mの「グランド・リズボア・ホテル」がオープン。

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『カジノジャパン』復刊とマルハン・ダイナムの決算【佐渡屋太郎-vol.288】

13年6月30日、めでたく復刊された『カジノジャパン』(通巻27号)

いまは13年6月29日(土)の19時10分。近頃、月をまたぐ原稿が増えてきたが一応、6月末締切りの原稿書きは終了した。今日は、しばしの開放感を味わっている。さらに、一昨日には待望の『カジノジャパン』が出来上がり、見本誌が送られてきた。この雑誌は2003年1月30日に、作家・評論家で日本カジノ学会第2代理事長でもあった故室伏哲郎氏によって創刊・発行されたものだ。当初は隔月のペースであったが、次第に不定期となり、2009年4月の26号を発行したところで休刊となっていた。休刊の理由は室伏氏の病気であり、同氏は09年10月26日に惜しくも逝去している。

そして今回、新たな発行人が名乗りを上げて復刊を企画し、この雑誌を前から手伝っていた私の友人であるI氏が編集長に就任した。それによって、私に取材・執筆依頼があったというわけだ。復刊の話は前から聞いていたが、私はあまり現実的には考えていなかった。しかし今年4月16日、I氏とともに仕事をした単行本が出来上がり、見本を送ってきた封筒に1枚のメモがつけられていた。その内容は「来月の20日からマカオに行けますか?」という唐突でやや意味不明のものであった。それが記念すべき、今回のマカオ取材の発端であったのだ。

このマカオ取材に関しては、まだほとんどブログで書いていないので、読者の方々にはほとんど分からないだろう。私の構想では、マカオ半島部のカジノ、コタイ地区のカジノ、さらに「G2Eアジア」レポート、マカオカジノの新たな動きと問題点と、前に書いた意味のない序章を加えれば5回連載となる壮大なプランを持っていたのだ。しかし、相次ぐカジノ関係のニュースに中断され、次第に書く気力が失せてきているというのが現状である。さらに先週、このブログにも以前登場した若き友人・S君から電話があり、いま自分が心斎橋のアメリカ村でやっているアミューズメント・ポーカーの店を取材してくれという依頼もあった。以前、プールバーの2階でゲームカジノに関わっていたあのS君である。

私事を含め、いま様々なことが3層4層に重なり合いながら、全く先の読めない展開が同時並行で進行している。非常に忙しくて目が回るくらいだが、こんな時が実はいちばん楽しい時でもある。今年の夏はついにY嬢を、佐渡へ連れて行くという大計画の準備も始まっている。さらに、Y嬢の両親の介護問題、私と佐渡の母親の間でくすぶっていた2万冊の蔵書をめぐる新たな展開、佐渡の畑の楽園を守るためのチェンソー導入など、この夏は非常に面白くなりそうだ。その一方で、真面目にカジノ関係の本も読み続けているし、しばらく使わなくて錆び付いていた英語の勉強も始めている。“カジノ”というもとから関心のあった新たなテーマが、佐渡屋太郎の血に火を点けてくれたようだ。その点ではI編集長にとても感謝している。

04年5月7日に発行された『カジノジャパン』(通巻6号)の表紙

さて、いくつかのゲラは見ていたが、できあがった『カジノジャパン』は予想を超える出来栄えだった。オールカラーの132ページ。以前の雑誌も送ってもらったり、相談を受けたりして知っているが、その頃より内容的にもビジュアル的にも格段の進歩が見られる。その背景には、日本におけるカジノ自体の実現性が高まっていることもあるし、アジア全体にカジノを中心とするIRができたことで具体的な検証ができるようになったこともある。しかし、様々な素材を俎上に上げ、具体的にどのような形に仕上げるかは編集者の“腕”に掛かっている。

背後にいろんな問題があったことも知っているが、よくぞここまでに料理したと感心している。このブログの読者の方々にも、ぜひ一度みてもらいたい。定価は1600円であるが、それ以上の価値があると私は思う。『カジノジャパン』のHPから購読の申し込みもできるはずだ。このブログでも全面的な支援をしていきたいと思っている。ついに紆余曲折を経て、復刊第1号(通巻27号)は世に送り出された。こうして基本形ができれば、次からの作業はとても楽になる。ここはまず、I編集長はじめ関係者の頑張りに心の底から拍手を送りたい。

さて、今回も新たなニュースがあって、「マカオ半島部のカジノ」が書けない。実は、マカオに行っている間にマルハンの会社説明会があった。説明会には出席できないので、資料だけ送ってくれるように頼んだのだが、それっきり梨の礫(つぶて)ですっかり忘れていた。パチンコ業界はとても調子が悪いようだが、どれくらい調子が悪いのかを見ておく必要がある。問題は低価営業の浸透するなかで、どれくらいの利益確保ができているかという点である。こうした状況で最低限の利益を確保していくには、相当の組織改革や意識改革が必要だろう。今年3月29日の入社式で、マルハンの韓会長が「利益を確保しろ」「経費を節減しろ」と叫んでいたのも当然である。では、恒例によってマルハンとダイナムの13年3月期の決算を比較しながら見ていこう。

マルハンの本社が入る「パシフィックセンチュリープレイス丸の内」

【マルハン、ダイナムジャパンホールディングスの13年3月期連結決算】
                        ※(  )内は対前期増減率

      マルハン          ダイナム
売上高  2兆1369億円(2.8%)  9292億円(2.3%)
営業利益   397億円(△22.9%)  343億円(13.2%)
経常利益   424億円(△18.6%)  427億円(22.0%)
当期純利益  203億円(△18.3%)  209億円(31.4%)

以上、ざっくりとした数字であるが、非常に面白い比較となった。やはり、マルハンは当初の予想通り、増収ではあるが、通年で大きな減益の数字を出してきた。今後は機械費用をはじめ、相当な費用の引き締めを行わないと増益への転換は難しそうだ。これまで売上の拡大を図るために、相当な機械代や広告費などをつぎ込んできただけに、その体質の改善にはかなり抜本的な改革の断行が必要であると思われる。今後の焦点は、あと何年で“高利益体質”への転換ができるのかということだろう。あまり長引くと、さすがのマルハンでも安穏としてはいられないはずだ。

一方のダイナムは、こうしたローコストオペレーションの時代になると持ち前の強さを発揮してくる。実は遊技業収入(貸玉収入-景品出庫額)を見ると、13年3月期は1640億円で、12年3月期の1651億円と比べれば、0.7%(11億円)の微減となっている。しかし、利益に関してはふた桁台の素晴らしい伸びを確保した。さらに当期純利益に関しては、売上高が倍以上あるマルハンより上回っているという実に興味深い結果となっている。遊技機代など経費節減には相当な努力をしたようだが、今回はその詳細を調べる時間的な余裕がないので、そこまでは深追いしない。

東京都荒川区の日暮里駅近くにあるダイナムの本社

ただ、以前に香港上場の件でいろんな資料や本を読み、ダイナムでは管理部門に多くの有能な人材を確保していることを知った。それらの人材が短期間で膨大な提出書類を作成し、厳しい質問に答え、ホール企業初の上場を実現したのだ。その一方で、パチンコ業界も以前のような“イケイケドンドン”の時代から、限られた売上の中からどのように利益を確保し、生き延びていくかという時代に突入している。当然、そこには緻密な計算や先を見越した迅速な方向転換が必要となる。こうした場面において、管理部門の“質”が問われるのではないだろうか。

先日の「ギャンブリング*ゲーミング学会」で面白い話を聞いた。アメリカでは昔と今のラスベガスの人材について、“マフィアからMBA(経営学修士)へ、ハーバードからラスベガスへ”というジョークがあるという。つまり、今のラスベガスにおけるカジノは、ハーバードでMBAを取得したような人材でないと管理できないほどに、高度化しているということの喩えである。マルハン、ダイナムとも将来的には、カジノオペレーターへの道も視野に入れている。パチンコ業界はいま難局にあるが、この状況の中でいかに経営基盤を強化していくのか。過酷な環境の中での今後のオペレーションに、業界内外から大きな注目が集まっている。(佐渡屋太郎)

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