遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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ポカラとバフのこと【佐渡屋太郎-vol.270】

ロッジ近くの農家の庭先で泥浴びをして寛(くつろ)ぐバフ(水牛)

いまは12年12月21日(金)の17時35分。やっとのことで、最も長い原稿を書き上げた。書き始めてからほぼ1週間も掛かってしまった。しかし、1番の“大物”が片付いたので、心底からホッとしている。年末というか、正確に言えば12月28日までに書かなければならない原稿があと2本ある。単行本用のパチンコに関する残り10ページの原稿と、葬儀雑誌の特集3ページ分の記事である。ただ、ここでひと休みしたくなった。新たな原稿書きに入っていくことを頭が拒否している。そこで、ブログでも書いてみる気になった。あまり時間は掛けられないが、写真を見て疲れた頭が休まるようなものにできないかと考えてみた。

そこで思いついたのが、前回すこし書いたバフ(水牛)のことであった。幸い、前回スキャンしたバフの未掲載写真が2点残っており、ペワ湖の写真も2点ほどあった。そこで今回、新たに私が借りていたロッジの近所にいた子供たちの写真をスキャンし、何とか1回分の写真が集まった。これだけあれば何とかなるだろう。バフののんびりした写真でも眺めながら、年末までのあと“一山”(ひとやま)を越えようという作戦だ。今さら言うもの何だが、私はバフが大好きだ。不思議と心惹かれるものがある。前に会社を作ったとき、その社名を「バフバフプロ」としたくらいだ。

あのスローモーな動き。暑い時には泥や水のなかに浸かって、テコでも動きそうにない頑固さ。そして近づいて目を見ていると、何かすべてを分かっているような奥深さがある。ひょっとしたら、稀に見る哲学的な思索をしている動物ではないのか。この世には本当はアホだが、賢しこぶっている人間は多い。しかし、逆に本当の“賢人”は、アホに徹していることが多いと私は経験的に知っている。その点で言えば、バフのあの間抜けたアホ面(づら)こそ、侮ることができない“賢さの象徴”なのである。前回、ネパールいるジャンキーが、バフに姿を変えると書いたが、並みのジャンキーではバフになることはできない。悟りを開き、下らない人間に帰ることを捨てた賢いジャンキーしか、バフになることはできないのだ。

ペワ湖の湖水に浸かって体を冷やすバフの群れ

バブに関しては、いろんな思い出がある。十数年前には、急にバフに会いたくなり、和歌山の白浜アドベンチャーワールドまで行ったことがある。あそこでは広い柵のなかに他の動物と一緒に十数頭のバフが放たれており、自然に近いバフの姿を見ることができる。それからよく行くことになった。来年もまた生のバフに会いに行きたい。ペワ湖でのバフについても、忘れることができない思い出がある。ある日、「ハナ」と一緒に船を出し、湖の真ん中で泳いでいたときのことだ。泳ぐのにも疲れ、少し暗くなってきたので帰ろうと思ったとき、湖の向こうから私たちの船へ静かに向かってくる物体があった。映画の「ジョーズ」のような動きであった。しかし、その物体は黒く、かなり大きい。最初は恐竜ではないかと思った。当時、イギリスのネス湖の恐竜“ネッシー”が話題になっていた。だから、ペワ湖に恐竜がいても不思議ではない。この場合、“ペッシー”とでも言うのだろうか。

薄暗くなった湖面を、音もなく近づいてくる恐竜は、実に不気味であった。しかし、「ハナ」は一向に吠えようともしない。その間に、その物体はどんどんと船に近づいてくる。慌てて私は、船の上に上がった。以前、タイのサムイ島で泳いでいるとき、太いロープが浮いていたので、取りにいこうとしたことがあった。近づいてつかもうと思ったら、ニョキッとその端が持ち上がった。何とロープと思った物体は“海蛇”であり、鎌首をもたげて私を睨んでいたのである。慌てて逃げたが、海蛇は追いかけてきた。あのときは死に物狂いになって泳いだ。いまでもたまに夢に見ることがある。そして、今度は恐竜かと思った。バッグからカメラを出して、望遠レンズに交換し、撮影の準備をした。

しかし、ピントが合って浮かんできた画像は、見慣れたあのバフの顔であった。しかも、目が血走り、口から泡を吹いていた。あとでロッジのオーナーであるラムに聞いて分かったのだが、バフのうちの何頭かは、ペワ湖を泳いで向こう岸に渡り、草を食べて帰ってくるのだそうだ。しかし、その距離は半端なものではない。きっと、私が湖の真ん中で遭遇したバフも必死で泳いでいたに違いない。“必死になっているバフ”――これほど似合わないものはない。その姿が可笑しくて、今でも思い出して笑ってしまう。私は見てはならないものを見てしまったのだろうか。

ペワ湖に入って体を洗うネパーリーの若き乙女

その後のある日、朝起きると誰かがロッジのラムと話していた。私も呼ばれて行ってみると、そいつは山で“マジックマッシュルーム”を採ってきたという。それでロッジに売りに来たわけだ。ラムはヒマラヤトレッキングのガイドもしており、何でも知っている。私が「本当にマジックマッシュなのか」と聞いたら、ラムは「間違いない」と太鼓判を押した。それで夜、ラムに買ったマジックマッシュをオムレツにしてもらって食べたが、それからたいへんなことが起こった。あのペワ湖を泳ぐ“必死なバフ”の顔が浮かんできて、笑いが止まらなくなったのだ。その顔に似ていた私の友人の顔も浮かんできて、さらに私は腹がねじれるほどに笑った。

その笑いは結局、明け方まで止まらなかった。途中で、キノコがもたらした症状であることに気づいた。その間、私の目からは涙が流れ、口からはよだれが出てきた。そして、笑いすぎて腹筋が痛くなった。しかし、笑いは一向に止む気配がない。私は強烈に痛む腹筋を抱えながら、涙とよだれを流し続け、このまま“笑い死”するのではないかと思った。“恐怖の中の笑い”――これも不気味であるが、バフの顔がその恐怖を打ち消してくれた。その日の昼過ぎ、目を開けたら窓の向こうが明るかった。その時、私が最初に思ったのが、“生きている”という素朴な実感だった。窓の外には、木々の緑がしたたるほどに輝いていた。あれは“笑い茸”であったと確信を持って思う。そのことをラムに言うと、しばらく考えたあとで決まり悪そうに、「ノー・プロブレム」と答えた。

しかし、ラムは真面目で逞しい男であった。カトマンドゥの貧しい家に生まれ、12歳の時に家を出て、歩いてこのポカラまでやってきたという。それからトレッキングの荷運びをしながら、金を貯めてロッジの土地を買った。その後はガイドをして大金が入るたびに石やセメントなどの材料を買って、自分でひと部屋ずつ作っていった。私がいたときは5室までできていた。途中で結婚して、生まれた娘が大病に罹ったために大金を使い、当初の計画が大幅に遅れてしまったという。彼の目標はこの敷地に2階建ての20室を作り上げることだという。当時は私より年上の30歳であった。

ロッジの近所にいてよく遊んだネパールの悪ガキたち

ある日、私はこれから冬のヨーロッパに向かうので、ダウンのジャケットや寝袋の日干しをしていた。そのダウンジャケットは、北九州で一緒に住んでいた私の“旅の師匠”からもらったものだ。チョモランマ登頂のとき日本アタック隊が着ていたものと同じで、品質は第1級品であると師匠は言っていた。ただ、師匠が10年以上も使い、私も九州時代とこの旅に出た中国からチベットで着ていた。軽く、暖かく、極寒の地でも十分に私の体を寒さから守ってくれた。しかし、何しろ耐用年数を過ぎていた。そのせいで、よく生地が破れて羽根が飛び散るのだ。私は必死になって、そのたびに切れ口を縫った。その結果、フランケンシュタインのように縫い跡だらけのジャケットとなってしまったのだ。さらに、1回も洗濯をしなかったので、襟口や袖口は汚れで黒ずんでいた。

そのジャケットを見たラムは、「おれに譲ってくれ」と言った。真摯な顔で、「山に上る自分には必要なものだ」と主張した。やはり、見る目を持った男である。しかし、それは私にも必要なものであった。ただ、私にはこんな縫い跡だらけで汚いジャケットを、果たしてヨーロッパでも着られるのかという一抹の不安があった。さらに、このジャケットはラムが着るのに相応しいという天の声も聞こえてきた。それで1日ほど考えたあとで、「山に行く時に着てくれ」と渡した。そしたら、ラムは調理場の奥から汚い袋を取り出してきて、「これを日本に持って帰ってくれ」と袋ごと私に渡した。

水浴びをしてその水の冷たさに縮み上がるわんぱく坊主

なかにはヤク(チベットにいる牛)の歯のお守りやペンダント、指輪など年季の入った骨董品の数々が入っていた。ラムが若い頃から集めてきた“お宝”のすべてだったのだろう。それと交換してまでラムはあの汚いジャケットを欲しかったのだ。そのとき、私は“求めれば必ず得られる”という教訓を得た。日本へ帰ってきてから師匠のお母さんが危篤になった。そのことを聞いて、佐渡屋太郎は“ヤクの歯のお守り”を持って、北九州に駆けつけ、おかあさん頭の上のベッドに括りつけた。

九州にいた頃は師匠とともにさんざん怒られてばかりであったが、旅に出てからはいつも私のことを心配してくれていたという。結局、10日ばかり頑張ったが、あの気の強かったおかあさんも病魔には勝てなかったようだ。師匠はその柩(ひつぎ)の中に“ヤクの歯のお守り”を入れてやったそうだ。師匠のジャケットがポカラで“ヤクの歯のお守り”となり、それを持って師匠のおかあさんはあの世に行ったわけだ。この1件から“世の中の物はぐるぐると回る”という教訓を得た。

それ以降の厳しくて危険でつらい旅を思うに付け、あのポカラでの日々はバフに象徴されるように、のどかで心癒されるパラダイスであったと思う。その3年前には師匠とカトマンドゥで出会って命を救ってもらい、やはりポカラで半分夢の中にいるような穏やかな日々を過ごしながら、私の足の怪我は回復していった。その師匠とも不思議な因縁で結ばれている。あの人は返還される前から友人と沖縄や先島に入り込んでいた。結局、その友人は島の娘と結婚して沈没し、いま3人の子供を抱えて島の町内会長をしている。しかし、師匠は故郷の北九州に帰って英会話教室を開き、日本を出たり入ったりの生活をしていた。私が日本に帰ってから一度、京都に遊びに来たこともある。そのとき、私のアパートにおかあさん危篤の電話が入ったのであった。師匠は飛んで帰り、私は仕事をしていたので、休みの日にすぐ後を追ったのだった。書きながらいろんなことを思い出してくる。

手作りシャワーで水浴びを楽しむ開放的なネパール少女

その数年後、師匠は九州の教室を畳んで、再び石垣島へ行き、最初はグラスボートの船長をして、その後は飲み屋を開いたと聞いていた。そんなある日、会社から帰ると、1人の女の子がいた。元妻のやっている古道具屋の常連で、毎週にように広島からやってきては古い絵葉書を買っていくという。それで元妻と友達になり、家に遊びに来たのだ。その夜は酒を飲みながらいろんな話をした。聞くとその女の子は沖縄にもよく行くという。とくに石垣島が好きで、変なおじさんがやっている飲み屋があって、そこに入り浸っていると言っていた。そのおっさんはギターが上手くて、気が乗るとライブもやっているそうだ。それで私はピンときた。「もしかして、その変なおっさんはこんな顔をしていないか」と、1枚の写真を見せてやった。そのときの彼女の驚きの表情は、いま思い出しても笑えてくる。

写真は師匠が白衣をきて、父親の病院でイカサマ助手をしているところを撮ったものだ。多分、彼女が知っている姿とは、全くかけ離れたものであったと思う。そのとき得たのは“世の中は意外に狭い”という教訓であった。それから彼女がメモしていた石垣の飲み屋に電話して、久し振りに師匠の声を聞いた。それでいたたまれなくなり、GW(ゴールデンウィーク)に師匠に会いに出かけた。沖縄の本島で待ち合わせて、石垣、竹富、西表を巡りながら、また“バカ旅”を楽しんだ。西表では台風のなかを崖の上にテントを張って一夜を明かした。よく吹き飛ばされなかったものだと思う。バフの話をすると、やっぱり師匠に行き着いてしまう。あの人はポカラでは全くのバフであった。そして、日本に帰ってくると一応は人間の姿になるが、見る人が見たらバブの片鱗がありありと分かる。近頃は年を取ったので、沖縄から近いフィリピンの“秘密の小島”に通っているそうだ。フィリピンでは思いっきりバフになって、のんびりとした時間を過ごしていることだろう。(佐渡屋太郎)

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人間の「はな」と犬の「ハナ」のこと【佐渡屋太郎-vol.269】

ポカラのペワ湖で一緒に船に乗る「ハナ」

いまは12年12月14日(金)の13時40分。目下、年末から新年向けの原稿ラッシュの渦中にある。1年で最も忙しい時期と言ってもいい。昨日はだいぶ頑張って、一気に長い原稿を書き切ることができた。そこで、今日は気分転換を兼ねて、午前中はブログの原稿でも書いてみようかと思った。ただ、スキャナが壊れていることが数日前に判明した。放浪中にアナログカメラで撮った紙焼きを、スキャナでデジタル化してブログに掲載する準備をしていたときのことだ。仕方ないので今日は朝一でプリンターの会社に電話をして、あれこれと試してみたが、どうも「切り取り機能」が故障しているらしい。

ただ、この忙しい時期にコピーが使えないと大混乱が起こってしまう。そのことを言ったら、電話の女の子から別のスキャン方法を教えてもらえたので、最悪の状況は回避することができた。修理に出すのは年を越してからにした。そんなことをしているうちに、貴重な午前中の時間は過ぎていってしまったのだ。しかし、いまスキャンされた30年近く前の画像を見ていると、時間の軸が歪んできて、眩暈(めまい)を感じるほどの混乱が起きてくる。あの頃は体を動かして、より遠くへ行くことだけを考えていた。そして、行き着いた終点には、何か自分でも驚くような結末が待っているような気がしていた。きっと誰かが私の人生のシナリオを書いており、自分はそれに忠実に従っていくことしか頭になかった。その遠大な物語もそろそろ終わりに近づこうとしている。

近頃、いろんなことの因縁を探って考えるようになった。そして、その1つひとつにいろんな意味があったことに気付かされる。だから、毎日のように「そういうことだったのか」とか、「そう言う意味か」と独り言をつぶやいている。前回は8ヵ月で流産した長女の「はな」のことを思い出して、彼女の存在(あるいは不存在)がもたらした意味が分かった。そして、その処置の仕方も閃(ひらめ)いた。それは「なは」を思うときの“拠り所”を作らなければならないということだ。近いうちに、観音菩薩像か20歳になった女の子のフィギアを木で彫ろうと思っている。“身代わり地蔵”から抜いてきた「はな」の魂が宿る“依代”(よりしろ)を、自分の手で作ってやらなければならない。これが私に課せられた喫緊の宿題である。

ペワ湖の向こう岸に草を食べに行くため、必死になって泳いでいるバフ(水牛)

実は、私には「ハナ」という名を付けた女性が、あと1人いた。彼女と初めて出会ったのは1987年6月で、今から25年前のことだ。場所はネパールのポカラ。チベットからカトマンドゥを経て、ポカラに着いたのは6月20日だった。当時の日記を出して調べてみると、6月30日のところに、「雨の中、ハナをボートに乗せてペワ湖の“中の島”行きを決行。ダムサイドへも遠出する」と書いてある。そして、7月5日の項には「ハナとともにポカラの夕日を見る。17時30分、ポカラ発パトナ行きのバスに乗る」と書いてあった。前回、人間の「はな」のことを書いたら、急にもう1人の「ハナ」の姿を見たくなってきた。

その「ハナ」とは犬のメスで、私とともにポカラから国境を超え、インドのブッダガヤまで一緒に旅をした。しかし後から考えると、「ハナ」が何を考えていたのか、「ハナ」は私にとってどんなことを意味していたのかが分からなくて、いつも考えが“堂々巡り”をしていたのである。まず、前回のブログを書いたあとすぐに、「ハナ」の写真を探した。86年から87年の大放浪の写真はおよそ700枚で、2冊のアルバムに収められている。1年間で36枚撮り×フィルム46本=1,656枚の写真を撮り、その中から選び抜いたものだ。しかし、そのなかに、「ハナ」の写っているものは4枚しかなかった。1枚はポカラでのもの。あとの3枚はブッダガヤのガンジス河沿いで撮ったものだ。いま思えば、非常に貴重な写真だ。

その写真をスキャンしようとしたとき、プリンターのスキャナが故障した。この時、改めて私は「ハナ」の力を思い知らされた。そう、「ハナ」は物凄い力を持った犬であった。最初に出会ったのは、ペワ湖沿いのレストランだった。私が庭に置かれたテーブルで夕食を食べていると、外から1匹の犬がまっすぐに私の坐っている椅子の下に来て、いきなり寝転んだ。私はしばらくそこにいたが、エサは何も与えなかった。そして、席を立って山の方に借りていたロッジに帰ろうとしたら、その犬も立ち上がって付いてきた。人懐っこい犬だとは思ったが、途中で帰って行くものだと思っていた。

途中の細道にバフ(水牛)が5頭ほど寝ていて、道を通ることができなかった。しかし、後ろを歩いていた犬が急に前に出ると、吠えもせずにあの巨大なバフを追い払った。でも、ロッジの前では帰るだろうと思っていた。私の泊まっているロッジでは、若くて大きなシェパードを飼っていたからだ。侵入者には容赦なく飛びかかってくる勇ましい犬だった。私が門の戸を開けると「ハナ」も平気で付いてきて、敷地の中に入った。シェパードは低い唸り声を上げたが、凍りついたようにその侵入者に手も足も出なかった。私が自分の部屋のドアを開けると、するっと「ハナ」は部屋の中に入り、ベッドの下に潜り込んで、さも自分の家ででもあるようにスヤスヤと寝入ってしまったのだ。

私は毎日のようにペワ湖にボートを出し、昼寝をしたり泳いだりしていた。私が船を出すと、「ハナ」も当然にように乗り込んできた。そんな日々を過ごすうちに、また懐かしいインドへ3年ぶりで入ることにした。そして、日記にあるように7月5日、「ハナ」とポカラ最後の夕日を見て別れを惜しみ、パトナ行きの夜行バスに乗り込もうとドアを開けた。すると、「ハナ」はすごい勢いでバスの中に入っていき、私の座ろうとする席の下に潜り込んだ。さすがの私も、これは黙認することはできない。何しろ、これから国境を越えるのだ。近くに遊びに行くのとは訳が違う。3回ほど「ハナ」を抱きかかえてバスの外へ出した。しかし、新しい客が来てドアを開けるたびに、猛然としたスピードでドアの隙間から体を入れ、また私の席の下に潜り込んでいる。一緒に乗っているネパーリーたちや車掌がそれを見て、「ジャパニーズ・クッタ」といって喜んだ。「クッタ」とはヒンズー語で「犬」のことだ。彼らは私が日本から連れてきた犬だと思っていたのだ。私は「ネパーリー・クッタ」であると説明した。

ブッダガヤにやっとの思いでたどり着いた私と「ハナ」

私は仕方なく、国境でのイミグレーションでは帰るだろうと、最後の希望に賭けることにした。その夜、バスの中で「ハナ」は1回も吠えなかったし、動き回ることもなかった。まるでいるかいないか分からないように、静かに寝入っていた。このとき、これは犬ではなく、人間ではないのかと初めて思った。ネパールで沈没した日本の旅行者が人間から犬の姿にされ、日本に帰りたくて私に付いてきたのではないかというストーリーを考え出した。そう思わないと理解できないような「ハナ」の行動であった。当時、ネパールにハマリ込んだジャンキーは、バフに姿を変えると言われていた。その証拠に、バフの群れに向かって「鈴木」とか「佐藤」などいくつかの名前を呼び掛けると、必ず振り向くヤツがいる。そいつがたとえば「鈴木」の成れの果ての姿であるというわけだ。だから、犬に姿を変えるヤツがいても不思議ではない。それが「ハナ」の元々の姿ではないのかと考えたのだ。

結局、ボーダーでも「ハナ」は帰ろうとしなかった。イミグレーションのオフィサーに、「おい、ジャパニーズ、その犬はインドのビザを持っているのか」とからかわれた。しかし、インドに入ると、強い「ハナ」が急に弱くなった。リキシャーに乗ると、インドの大きくて狂犬病のような犬の群れが吠えながら追いかけてくるのだ。やつらの目的は、侵入者である「ハナ」だった。仕方なく「ハナ」をリキシャーに上げて抱き、飛びついてくる犬たちから守った。それから汽車に乗りパトナからガヤに行き、ガヤからオートリキシャーでブッダガヤまでやっとの思いでたどり着いた。その時、私はネパールから送ると盗まれるので、インドから送れと言われたチベット絨毯を持っていた。さらに、ラジカセやカメラ3台、ウォークマン3台など売り食いするための30kgの荷物を抱えていた。それに加え、新たに「ハナ」という荷物も増えたわけだ。ブッダガヤに着いたときには心底、憔悴していた。

その姿を見ていたインド人がいた。それがラジェスとリアジほかの仲間たちである。小さい頃から菩提樹の数珠を日本人に高値で売りつけ、その儲けで大きくなったようなインド商人の若者だ。日本語も堪能で、長じてからはその巧みな話術で日本人の女の子を騙し、いい思いをしている悪党でもあった。そいつが着いたばかりの私に寄ってきて、「どこから来たのか」と聞いてきた。私が「ポカラから来た」と言うと、「俺は小さい頃からここで多くの観光客を見てきたが、ネパールから犬を連れてきたのはあんたが初めてだ」と言ってニヤリとした。佐渡屋太郎はインドで1年間、十分に鍛えられていたのでラジェスからは結局、何も買うことはなかった。しかし、あいつは毎日のように私の泊まっているホテルに来て、取り留めもない話をしては、いろんなところに連れて行った。結局、ブッダガヤには7月6日から15日までの9日間いたことになる。14日にガンガの中洲までわたり、夕日を見たときの写真が今回、掲載したものだ。

ガンガ沿いで撮った私と「ハナ」の貴重なツーショット

ラジェスとリアジとは7月10日に、酒を飲んだと日記に書いてある。その日はネパールから抱えてきたチベット絨毯を、ラジェスの店で本格的に梱包してもらい、発送も頼んだ。その時は一抹の不安もあったが帰国後、無事に届いていたのであいつもまんざら悪人ではなかったようだ。だた、内容物に不信を持たれ、税関まで引取りに行かなければならなかった。チベットの国旗にも描かれている“ホワイトライオン”が織り込まれた最高の一品である。その頃から、ラジェスは「あの犬をどうするのか」と聞いてくるようになった。その時の私の目標は、ユーラシア大陸を陸路で横断し、ポルトガルのロカ岬までいくことであった。とても、「ハナ」を連れて行くことはできない。

その一方で、「ハナ」の様子は激変していた。食事をするために外へ出ると、尻尾を股の間に巻き込み、とても怯えているのだ。ポカラではそんな「ハナ」ではなかった。何しろ、バフも恐れる猛者であった。しかし、ブッダガヤではインド犬の群れに追われ、池に落ちたこともあった。その姿を見て、私は大きく落胆した。そして考えた。この犬はブッダガヤに来たかったのではないのか。インドに来て何をしようとしていたのか。その気持ちや目的が分からないことに、私は苛立ち、大きく悩んでいた。私はブッダガヤに着くと、太い丸太を拾い、外に出るときは常に持って歩いた。「ハナ」に向かって飛びかかってくる狂犬どもを、叩きのめすためだ。私もそのときは、1匹の犬であったと思う。真剣にインド犬たちと毎日、正面から向き合っていた。

そんな日を過ごし、デリーに向かう日が近づくとともに、ついに私はラジェスの問いを撥ねのけることができなくなってきた。そして、「もし、俺がこの犬を連れて行かないとしたらどうする」とラジェスに聞いた。その問いに対してラジェスは、「俺がお前の代わりに飼ってやる。そして、また犬の顔を見にここに来い」と言ってくれた。別れの日の朝、ラジェスはホテルにやってきて、「ハナ」を抱きかかえて家に連れて帰った。不思議と「ハナ」は大人しかった。毎日にようにラジェスと顔を合わせるうちに、微かな信頼感を持ったのかもしれない。何しろ、あいつは日本の女の子をたぶらかすことに関しては、第1級の腕を持ったインド商人である。

ブッダガヤで「ハナ」が安心できるのはガンガの川沿いしかなかった

1度、ラジェスの仕事振りを見たことがある。相手は日本の坊さんの団体であった。その団体に向かい、ラジェスは「先生、これは仏様が悟りを開いたところの菩提樹の実から作った数珠です。これはここでしか買えません」と真剣に語りかけていた。坊さんは、「感心な若者だ」と言っていた。この「先生」という言葉に、あいつの商人としての腕前を実感した。20年間の経験のうちに、あいつはこの言葉を編み出したのだ。そして、私に教えてくれた10倍くらいの値段で、腕に掛けた数珠は飛ぶように売れていた。所詮、「ハナ」も1人の女であったということか。その夜は100ルピーでウイスキーを買って、ラジェスとリアジと別れの酒を飲んだと日記に書いてある。「ハナ」の様子を聞いたら、盛んに鳴くので首輪を付けてつないでいると言っていた。「頼むぞ」と言ったら、ラジェスは「ノー・プロブレム」と答えた。その後、私たちはフラフラになってオートリキシャーに乗り込み、歌を叫びながらガヤに向かい、私は22時発のニューデリー行きの汽車に乗った。

これが「ハナ」との付き合いの全貌である。これまで断片的に書いたことはあったが、出会いから別れまでを通して書いたのは初めてだ。結局、「ハナ」と一緒にいたのは26日間であった。私はその後も旅を続け、出発してから1年間を掛けて目標のロカ岬にたどり着いたが、「ハナ」との思い出が1番強く残っている。その証拠に、いまでも置いてきた罪悪感に捕われているのだ。その後、ブッダガヤに犬を置いてきたとインド人に言うと、あそこでは犬を食うとか売り物にするという話を聞いた。日本に帰ってきてから、「ハナ」が妊娠したリアルな夢を見て、喜んだこともある。しかし、私はそれからラジェスとは連絡を取ってもいないし、ブッダガヤにも行っていない。

「ハナ」を引き受けてくれたインド商人であるラジェス(右)とその相棒のリアジ

そして、その5年後に私の元妻は2度目の妊娠をした。何ヵ月かの時点で検診をしたら、胎児は女の子であるという。その時、私は瞬時に「はな」という名前を付けた。犬の名前を人に付けることに少々の抵抗感はあったが、何しろ「ハナ」は犬というより人間であると思っていたし、私には他の名前を付ける気持ちは全くなかった。「ハナ」が人間として再生してくるような、不思議な因縁を感じていた。しかし、前回に書いたように人間の「はな」は8ヵ月で流産してしまった。それ以降、元妻は子供を産もうとはしなくなった。そこでまた、私はその流産の意味を考えたわけだ。最初に考えたのは、犬の「ハナ」が人間の「はな」に嫉妬して殺してしまったのではないかということだ。もちろん、その責任は私にある。

当時の私は、犬の「ハナ」が人間の「はな」になることによって、佐渡屋太郎は「ハナ」を日本に連れて帰ったというストーリーを考えていた。しかし、その手前勝手な物語は、流産によって見事に否定されてしまった。「ハナ」は怒っていたのではないか。その怒りは犬の祟り、ヒマラヤの祟りとなって、私に天罰を加えたのではないか。しかし、あの時点で私は「ハナ」を置いてくるしか方法はなかったし、それは「ハナ」にとっても安楽に暮らせる道であるという判断があった。ただ、なぜ「ハナ」の名前を「はな」に付けたのか。これも私にとっては当然の成り行きだった。この因縁が永年にわたる私にとっての謎だった。

あれから25年が経った。「ハナ」の怨念も、私と「はな」が天罰に当たることで静まっているころではないだろうか。その「はな」も佐渡から連れて帰ってきたし、「ハナ」の魂も呼び寄せなければならないと思っている。しかし、「ハナ」は一体、どこに行きたかったのだろうか。25年を経ても、私には未だに分からない。もし、他に行きたいところがあれば、ラジェスの家から逃げ出すチャンスはいくらでもあるだろう。その土地に慣れれば、ポカラでの強さを回復することもできるだろう。ただ、いくら長生きしても「ハナ」がいま生きていることはない。その魂を受け継いだ子や孫がこの世にいるのかどうか。「ハナ」の像も彫らなければならない。結局、「ハナ」は私が死ぬまで頭の中にいる存在となった。いま、ブッダガヤに強く呼ばれているような気がする。また、ラジェスに会いにいかなければならない。(佐渡屋太郎)
 
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離婚と「はな」のこと【佐渡屋太郎-vol.268】

梨ノ木地蔵の由来を教える説明板

いまは12年12月6日(木)の12時35分。やっと11月分の原稿と個人的な最大の課題を片付け、いま放心状態になっている。仕事部屋には晩秋のかなりきつい日差しが差込み、その暑さに耐えられず、さっきから窓を開けて風を通している。原稿のことはともかく、ついに個人的な最大の課題が終結した。その課題とは“離婚”であり、この3年間にわたって、断続的にあの手この手で先方と交渉してきた“難題”であった。この間、自分の中に隠れていた全ての感情が噴出し、さらにそれを強固な精神力でなだめ、つねに諦めず、微かな出口の灯りを頼りに歩み続けてきた。

いま秋風に吹かれながら、この3年間を思い返すと、“敵もさるもの”であったとつくづく思う。この“さる”は“猿”ではない。しかし、常識が通じないという点においては、強靭な“猿”を相手にしているような緊張感と空恐ろしさがあった。最後は佐渡屋太郎が強引にねじ伏せて、寝技に持ち込み、ついに勝負を終わらせることができた。当然ながら、双方とも無傷ではない。しかし、今になってみて初めて言えるが、実にいい“ファイト”であった。敵もあっぱれであったし、私もそれなりに立派に闘った。その爽快感が、いま冷たい秋風とともに体に染み込んでくる。

最後は離婚調停に持ち込んだが、双方の合意が得られたのは11月22日(木)であった。調停員のおっさんが、「今日は何の日か知っていますか」と満面の笑みを浮かべて聞いてきた。何と“いい夫婦の日”に離婚が成立したのである。そして、11月28日(水)にめでたく相手の籍は、私の籍から抜かれた。この逆説的な偶然はいったいどういうことなのだろう。神は果たして、この離婚を祝福してくれているのか。はたまた、その罰としてさらなる試練を私に与えようとしているのか。しかし、この道を私は避けて通ることができなかった。ただ、それだけのことである。

お堂の横にある大型の地蔵。この顔が何とも愛らしい

これでまた、佐渡屋家に新たな伝説が生まれることになった。先日、報告を兼ねて息子で長男の佐渡屋虎太郎に電話をしたら、この件はすでに先方から伝えられており、「いい日に離婚したな」と笑われてしまった。この“いい日離婚”は今後、長男・虎太郎の口から広く世間に拡められていくことだろう。だから、先回りして敢えて公表に踏み切ったわけだ。同棲してから25年、結婚してから24年、別居してから12年、ついにこの問題に終止符が打たれたのである。息子が成人するまでは離婚はしないという双方の合意はあったものの、この話し合いを始めた3年前からも長い時間が流れてしまった。この件の噂を聞いた親族や友人から、散発的な連絡はいまでもある。随分、心配をしたことを今になって聞いた。闘いの渦中では誰からも声を掛けられることもなかったが、じっと見守っていてくれたのであろう。それら心優しい人たちに、改めて感謝の気持ちを伝えたい。佐渡屋太郎は離婚したその日から、次の計画に向けて動き回っている。今後の近いうちに新たなニュースをお届けできることだろう。

さて、今回の件を見通したように今夏、佐渡に帰っていた時にある考えが、天から私の頭に降りてきた。それは、オヤジの兄である“K山のおじさん”に会っておかねばならないという強い指令であった。次男のオヤジが生きていれば84歳になるから、長男であるおじさんはもう90歳近くになるはずだ。私の長男の虎太郎が小さい頃はよくK山に連れて行き、手打ちのそばをご馳走になった。また、あるときはアメリカ人のジムと中国人の趙さんを連れて行って驚かれたこともあった。しかし、虎太郎が大きくなると、いとこの子供たちや近所の同じ年頃の佐渡っ子たちを連れて、海での泳ぎや野球をして過ごすことが多くなった。そして、K山に行く機会も徐々に減っていったのだ。

おじさんに会ったのは、10年前のオヤジの通夜と葬式。さらに4~5年前、おじさんとおばさんが軽トラに乗っていて坂を踏み外して転落するという事故があり、その見舞いに病院へ行ったのが最後だった。さらに、K山の家にはもう14年も行っていない。だから、元気なうちにもう1度、顔を見ておきたいという気が突然、起こったのかもしれない。幸い、畑での作業が14時頃にケリが付いた日があったので、弟の佐渡屋次郎とまだK山に1度も行ったことがないといういとこのH嬢を連れて出発したのだ。このK山に行くのには、私の街から山道を登り、車で30分ほどかかる。その途中に、今回のテーマとなる「梨ノ木地蔵」がある。

いろんな表情をした地蔵たちはいったい何を思っているのだろうか

「梨ノ木地蔵」の由来については、説明板の写真を見ていただきたい。私の母親は少々、霊感が強くて信心深いので、よくここには連れてこられた。ここには私や弟、そしてあと1人の「身代わり地蔵」がある。実は私には、長男の下に8ヵ月で流産した長女の「はな」がいた。「はな」が流産したとき、母親が地蔵さんを作ってここに祭ってくれた。実にやさしい配慮であり、傷心していた佐渡屋太郎の心はどれくらい、その地蔵の存在に救われたか分からない。そのとき、私や弟の地蔵があることも初めて聞いた。奉納した1年間は堂内に置かれ、参拝者に見守られている。しかし、1年を過ぎると外に出され、他の多くの地蔵たちと一緒にされてしまうのだ。私はそれから数年間、「はな地蔵」が置かれた場所を覚えておいて、夏に帰るとお参りをしていた。

しかし、ある年にお参りに行くと、木下の根の上に置かれていた「はな地蔵」がなくなっていた。新たな地蔵が増えるごとに整理が行われ、その時に他の場所に移動させられたのだろう。近くを探したが、「はな地蔵」は見つからなかった。それまでは「はな地蔵」だけを拝んでいたが、それ以降はすべての地蔵が我が子のような気持ちになった。いま、「はな地蔵」はどこにいて、どんな状態になっているのだろうか。冬は冷たい北風に煽られ、雪の下に埋もれることもあるだろう。しかし、春は桜の花びらが舞い、心弾むような暖かい風に包まれることもあったはずだ。そう思わないと、私の心ははち切れてしまいそうだった。あれからちょうど20年が経っている。生きていれば、少し生意気でピチピチの「20歳の女性」になっていたはずだ。

しかし、物言わぬ「はな地蔵」はその間に、顔の彫りは摩耗し、もしかしたら首が落ちているかもしれない。この落差は、いったいどういうことだろう。「はな地蔵」が摩耗していったように、私の「はな」に対する思いも次第に弱いものになろうとしていた。しかし、佐渡から帰って、この「梨ノ木地蔵」の写真を見ていたら、また「はな」のことを思い出した。実際の「はな」の顔は、私と先日別れたばかりの元女房のお母さんしか見ていない。そして、死んでからの年数を数えていて、今年ハタチになることに気付いた。その瞬間、「ハタチのはな」の顔が目の前に浮かんできたのだ。そして、急に「はな」のことが身近に感じられるようになった。「K山に行け」という指令は、もしかしたら「ハタチになった私を見に来て」という「はな」からの強い誘いであったのかもしれない。

いま、私の目の前には「ハタチになったはな」の顔や姿が、ありありと浮かんでいる。あのとき、私は「はな」を連れて帰ってきたのではないかと思う。「はな」も地蔵を卒業し、観音菩薩の姿に成長してきたようだ。昔、この梨ノ木地蔵を盗んで、売ろうとした東京の人間がいたそうだ。しかし、持って帰ってから様々な不幸が相次いで、そいつの身の回りで起こった。それで怖くなり、地蔵を戻しにきたという話も聞いたことがある。

年代の古いものは顔が摩耗し、首の落ちたものもある

私は地蔵から魂だけを抜き、京都に連れて帰ってきた。それは「はな」が望んだことでもあった。決して、私が誘拐してきたわけではない。せいぜい、これから仲良く暮らしていこうと思う。それにしても、この佐渡の梨ノ木地蔵は、実にワイルドな風習である。一度、冬に佐渡へ帰ったとき、暗い境内で雪に埋もれかかった「はな地蔵」を見たことがあった。これは親にとって、何とも残酷で、心が切り刻まれるような“痛い”光景であった。そのとき、佐渡の厳しさを改めて思い知らされた。

こんな寄り道をしながら、私たちはK山の家に着いた。おじさんもおばさんも元気だった。ただ、おじさんは足が腫れて、ソファに横になっていた。原因不明だというが、もしかしたら壊疽かもしれない。さらにおじさんが掛かっている医者は、あまり腕が良くないと母親が言っていた。なるべく早く、国立の佐渡病院に行くことをこの場から進言したい。そのおじさんと話していたら、窓の向こうに小屋が見えた。昔、トイレとして使っていた建物で、今は物置きになっているという。私にとっては思い出深いトイレである。

もう時効なので、その話をして笑わせようと思ったが、少し失礼かもしれないと止めておいた。しかし、いまとても披露したくなった。これも記録として残しておいた方がいい。私が小学1年生か2年生のとき、正月に両親とK山の家に遊びに行った。両親は夕方になって帰るといったが、私はいとこのTちゃんとの遊びに夢中になり、何日か泊まっていくと言った。怒った父親は「もう帰ってくるな」といって山を降りていった。私は何不自由なく遊んでいたが、1つだけ怖いものがあった。それが窓の向こうにあるトイレだった。

当時は汲み取り式だったが、そんなことは我が家と同じだったので驚きはしない。問題はその下にある排泄物の状態だった。多分、冬で雪が2mも積もっていたので、汲み取りができなかったのであろう。積み重なった排泄物はマッターホルンのような急峻な山となり、その山頂は便器から顔を出すくらいになっていた。それは便器をまたいで腰を下ろすと、尻の穴を突き破るような勢いであった。トイレは2室あったが、運の悪いことに両方ともそんな状態であったのだ。幼い佐渡屋太郎にとっては、衝撃的な光景であった。ここで排泄をするどころか、トイレの戸を開けて、そのおぞましい光景を見ることも2度とできなかった。

山に囲まれるように佇むK山の家。トイレ小屋は一番奥にあって見えない

それからは、必死になって大便を我慢することにした。しかし、おじさんとおばさんはあれを食べろ、これも食べろと勧めてくる。それは恐ろしいくらいの執拗さであった。当時、私の赤飯好きと餡餅(あんもち)好きは有名で、おだてられるといくらでも食べていた。しかし、そのときは油汗をかき、はちきれそうな腹を抱えながら、必死で赤飯と餡餅に向かい合っていたのだ。その時もトイレのことは言い出せなかった。そして、何日後かに、ついに我慢の限界点を迎えた。一応、トイレに向ったのだが、戸を開ける勇気もなく、その前で漏らしてしまった。その量は半端なものではなかった。

仕方なく、それをパンツに包んで縁の下に投げ入れた。縁の下には稲を干すハゼ木が突っ込まれており、いずれ発見されることになるだろう。何か非常に悪いことをしたような気がした。そんな事件があった後、急に家に帰りたくなった。しかし、ここで帰ると言ったら、おじさんやおばさん、そしてTちゃんは気を悪くするかもしれない。そこで私にとって最後の頼みの綱は、当時はまだ生きていたK山のばあちゃんであった。ばあちゃんは働き者であったが、腰が曲がり耳も遠かった。その遠い耳に口を付け、「帰りたい」と泣きながら佐渡屋太郎は訴えたのである。

すると、ばあちゃんは何も言わずに立ち上がり、身支度を始めた。そして、玄関まで行くと、私の長靴に唐辛子を何本も入れてくれた。それから後ろも見ずにどんどんと歩き出したのだ。私も遅れまいと駆け足でその後を追った。当時は積雪量も多く、車もあまり走っていなかったので、曲がりくねった山道に積もった新雪を踏みしめながら歩いた。歩くと長靴の中の唐辛子が暖かくなってきた。耳の遠いばあちゃんとは一言も交わすこともなく、静かな雪景色の中を懸命に歩いた。その光景を今でも思い出す。結局、3時間も歩いたのだろうか。やがて、懐かしい我が家が見えてきた。

その前に来ると、ばあちゃんは手で「行け」という合図をして、私の家に寄ろうともせずに、今来た雪の道をまたすたすたと引き返していった。あの時の小さな後ろ姿は、いまでも瞼の裏に焼き付いている。これが私とばあちゃんの秘密の“逃避行”であった。ウンコが取り持つ奇妙な縁だ。このとき、私はばあちゃんの凄さと無言の契(ちぎ)りというものを知った。その後、耳が遠いことで他の親類の子供たちがばあちゃんを馬鹿にすることがあったが、そのたびに容赦なくぶちのめした。そして、ばあちゃんに目で合図をすると、いつもニコニコと笑っていた。その後も、ほとんど話はしなかったが、目と目でお互いの信頼は確認し合っていたと、幼い私は思っていた。そして、ばあちゃんはそれから10数年後、私との2人だけの秘密を胸に抱え、彼岸に向かってあの雪道を歩いたときのように、すたすたと歩いて行ってしまった。

14年振りに訪ねたK山の家の前で思索にふけっていたおばさん

こんな高尚な話の後にするもの不謹慎であるが、弟の佐渡屋次郎もまたK山で、排泄に関わる事件を起こしている。これも家系なのだろうか。弟は新婚早々、嫁のYちゃんを連れて、K山に行った。可愛いYちゃんを見て、K山の一家は大歓迎をし、弟はしこたま酒を飲まされた。私の場合の赤飯や餡餅もそうであったが、山の人は歓迎の意を表すために、食べ物や酒を無理強(じ)いする傾向がある。それで弟はフラフラになり、トイレに行くと言って外へ出ていった。その頃もまだ外のトイレを使っていたようだ。

しかし、しばらくして気付いて見ると、弟はいつまで経っても帰って来ない。トイレにでも落ちたのではないかと、懐中電灯を持って皆で探し回ったそうだ。しかし、弟の姿はどこにもなかった。仕方ないので、その晩は酒の酔いもあって皆が寝てしまった。そして明け方、さすがに心配になったYちゃんが敷地の周りを探したところ、朝靄(あさもや)の中で変わり果てた弟の姿を発見して凍りついた。何と弟は、以前にニワトリを飼っていた小屋の中で倒れていたのである。それも尻を丸出しにしてウンコを垂れ、口からはゲロを吐き出していたという。この姿を金網越し見て、新婚早々のYちゃんはどのように思ったのだろうか。

これも佐渡屋家の不名誉な伝説の1つである。しかしこの件に関しては、未だにYちゃんは口を閉ざしている。一方、夏に帰ると今でもこの話をして、我が家は弟以外の皆で笑い合っている。幸い、弟も高校生と中学生の娘を持つまでになった。Yちゃんの寛容な心に、私たちは佐渡屋家を挙げて感謝しなければならないだろう。しかし、K山はワイルドな風習に満ちている。Tちゃんが青年団長のとき、その集会について行ったことがある。集会場は古いお堂のようなところだった。そこで大きな盃に日本酒をなみなみと注ぎ、飲み干しては次に回していくのだ。宮古島のオトーリのようなものだ。酒好きの佐渡屋太郎にとっては、格好の場であった。次第に気持ちよくなってきた。しかし、飲み終ったヤツは、次々と外へ出て行ってまた戻ってくる。そしてその飲み回しは、いつまで待っても終わらないのだ。

それは、団長であるTちゃんが終りを告げない限り、延々と続くのだという。さすがの私も気持ち悪くなって、外へ出てみたら、数人が涙を流しながら、ゲロを吐いていた。しかし、Tちゃんは一向に終了宣言をしない。この時ばかりはTちゃんの顔が鬼に見えてきた。その晩は皆が乗ってきた車の中で、死んだようになって寝た。こんな厳しい掟のなかで、皆が支え合いながら山の村を守ってきたのであろう。そして、ばあちゃんもその厳しさの中で、鋼(はがね)のような肉体と精神を鍛えてきたのだと思う。トイレに入れなかったり、ニワトリ小屋で寝ているうちは、まだまだ修行が足りないということである。(佐渡屋太郎)

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