遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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マルハンへの告発と白夜書房の子会社摘発【佐渡屋太郎-vol.234】

節電署名を求めるために掲げられたプラカード

いまは2月20日(月)の18時30分。今日はあるコンサルタントと、電話で久し振りに話をした。事の発端は、出版社からある企画が持ち込まれ、彼にも1枚噛んでもらおうと、その担当者に紹介したことにある。担当者は先週、彼に連絡したようだ。しかし、結果として協力は得られなかった。ただ、私からの紹介であったということで、その釈明の電話を掛けてきたというわけだ。なかなか丁寧な男である。彼とはこれまでにも、多くの仕事を組んでやってきた。

その彼は開口一番、「いま、“表”には出られないんですよ」と苦しそうに弁明した。本質は“出たがり”の男だが、今回は出られない事情があるという。私も今回の依頼を、彼が断ってくるとは思っていなかった。では、どんな事情があったのか。その件に関し、彼は「最近、マルハンの告発問題や白夜書房の子会社幹部逮捕の件があり、この時期にパチンコ関連で各種メデイアに出ることを会社から暗黙のうちに禁止されている」と事情を説明した。先ごろ、パチンコ雑誌での連載も止めてしまったそうだ。

これは彼の会社だけでなく、上場をしているコンサル会社は多分、同様のスタンスを取るのではないかというのが、彼の推測であった。私はそこまではいかないと思っている。しかし多少の差はあれ、今のパチンコ業界が回りから“危険視”されていることは確かだろう。ある企業では一定のスタンスを取ろうとしているし、一時撤退を考えている企業もある。さらに、一般社会ではパチンコ業界の今後における動向に対し、“好奇な目”で見ていることをヒシヒシと感じる昨今だ。

節電署名の呼びかけでは様々なメッセージが街行く人に提示された

その最も大きな要因は、昨年からの行政による“規制強化”にある。広告規制強化、一部エリアにおける等価交換の実質的な禁止、さらに換金システムへの徹底的な検証などが、業界の今後に大きな影響を与えるのではないかという見方だ。もちろん、“負の要素”として見られている。これまでも、決して一般社会から賞賛されるような業界ではなかった。調子のいいときでも、嫉妬深い冷ややかな目で見られてきた。しかし、このように“負の要素”が大きくなると、「それ見たことか」とか「やっぱりな」という今まで押し殺していた人々の声が、一気に噴出してくる。

今回の2件については、情報としては知っていた。しかし、これほど回りを引かせるほどの事件であるとは正直、私は思っていなかった。そこで彼の言葉を聞いて、改めて調べてみる気になった。その結果、いま強く感じているのは、日本の社会には大きく分けて、“嫌パチンコ派”と“親パチンコ派”という人たちがいるということ。さらに、いま“嫌パチンコ派”の勢いが、急激に強まっているということであった。“弱り目に祟り目”という言葉があるが、まさに弱ったときには徹底的に叩かれてしまう構造である。

この言葉を聞くと以前、無農薬野菜の栽培をしていた友人から聞いた話を思い出す。彼の仲間が飼っていた名古屋コーチンのメスは、他の弱ったメスが出てくるとその肛門を突付き出すという。“肛門”は急所である。そこを突付かれると、ますます弱ってくる。するとメスたちの“肛門攻撃”はさらにエスカレートしていく。そして最後には、破れた肛門から腸をはじめとした内臓を引きずり出すまで攻撃は容赦なく続き、弱ったメスは無残な姿で死んでいくのだそうだ。

この現象をどのように解釈したらいいのだろうか。“メスの嫉妬深さ”“弱者排除の法則”“集団による攻撃本能”など、いろんな解釈は頭に浮かぶが、門外漢の私にはその真相は分らない。ただ、どうやら人間にもこうした本能があるようだ。近頃、多くの“バッシング”を見ていてそれを強く感じる。ネットはもとより、新聞、テレビなどでも、日常的に散見されるようになった。そのなかには、明らかに限度を超えた個人攻撃や偏向した思い込みの記事も少なくない。

しかし、それらの意見が糾合されていくと、一気に加速されて1つの“世論”として認知されていくようになる。ここに一抹の“怖さ”を感じる。問題は個々の事象に関し、実態が正確に把握されているかどうかということだろう。自由に自分の意見を発表できることに対しては、つくづく先人たちの命がけの努力に感謝したい。しかし、一方的な憶測や誤認が、1人歩きしていくこともある。この点に関しては、私自身をはじめ厳格であらねばならないと思う。

2010年12月にオープンした「マルハン寝屋川店」(1154台、P=856台、S=298台

マルハンの件を簡単に説明すれば、ホールが提供する特殊景品を巡る“換金行為主導性”が、刑法第186条第2項の「賭博開帳罪」に当たるというものだ。ちなみにこの第2項は「賭博場を開帳し又は博徒を結合して利を図りたる者は三月以上五年以下の懲役に処す」とある。ある人物はこの条項をもとに、マルハン代表取締役会長を被告発人として11年9月28日、京都地検に告発状を提出した。さらに11月8日、同社代表取締役会長、副会長、社長を被告発人として同地検に同様の告発を行なった。マルハンへの告発はこれだけでなく、同年7月5日にも東京地検特捜部に告発書を提出しているという。

これに対し、京都地検は11月29日に告発書を受理。12月26日に、マルハン代表取締役3名の「賭博場開帳図利罪」に関する告発に関し、嫌疑不十分の「不起訴」という判断を下した。しかし、この人物は同件に関して京都の検察審査会に審査申立を行ない、12年1月6日に受理された。この検察審議会は、起訴の権限を独占する検察官の判断に対して民意を反映させ、不当な不起訴処分を抑制するために設置されたもの。会議は無作為に抽選された国民(有権者)11人で構成される。議決には「起訴相当」、「不起訴不当」「不起訴相当」の3種があり、「起訴相当」には8人以上の同意が必要となる。

この議決は至極、真っ当な判断であると思う。もっと別の角度から換金システムの実態を攻めたらどうなるか分らないが、この正面突破では埒が開かないだろう。いまさら説明するまでもないが、パチンコ営業は換金システムまで含め、警察によって認められた“許可営業”である。だからこそ、警察による景品交換に関する指導も行なわれているわけだ。これが「賭博場開帳図利罪」に当たるとすれば、警察が賭博開帳を認めていることになってしまう。ある人物は告発書が“受理”されたことが、大きな前進であるといっている。しかし、これも一応、様々な世論を無下にできないという配慮であったように感じる。

大阪で4年前にオープンしたカジノゲームセンター

ただ、昨年の東日本大震災以降、こうした“嫌パチンコ派”の動きが波状的に起こり、世論に少なからぬ影響を与えていることは否定できない。なかには、“パチンコ本来の姿を晒す”、“欠陥から成り立つ換金可能なパチンコ営業”、“人の不幸で生活をしている”といった表現も散見される。その批判の多くが、パチンコ営業の換金部分に集中している。言うまでもなく、“換金合法化”はパチンコ業界において、最大のテーマである。現在はこれまでの慣行を考慮し、「直ちに違法とは言えない」というグレーゾーンにある。

しかし、そろそろ明確な基準を設定すべきときが、来ているのではないだろうか。パチンコでの換金を法的に認めるのか、認めないのか。認めるとしたら、どのような条件がつくのか。こうした世論の高まりに対し、いつまでも無視を続けていくわけにもいかないだろう。たとえば、1回の遊技での換金は最高1万円までで、あとは一般景品との交換か貯玉とするという手も考えられる。個々の特殊景品は1人当たり上限が総額1万円分までの限定商品の扱いとする。このあたりがいい線なのではないだろうか。そうすれば、一般景品の上限1万円と特殊景品の括りが同等の扱いとなる。いずれにしても現行のシステムのままでは合法化はできないだろう。

マルハンが出資したマカオ「ポンテ16」のルーレット

問題は射幸性の低減である。それには換金システムを変えるか、遊技機を変えるかしかない。換金システムを変えるのなら、前述のように換金の上限額を設定するか、換金率を低減させること。一方、遊技機は保通協での試験を経て市場投入されている。しかし、ここで顧客が遊技するまでに、ホールによる“整備”という関与が行なわれる。本来、法的には認められていないが、正直言って調整を行なわないホールはない。その“ホール関与”を一切、排除しようとすれば、遊技機は“封入式”となり、完全にブラックボックス化される。

これまで射幸性の低減を図るために、広告・宣伝、交換率と手が付けられてきた。これからは、換金、遊技機とその範囲は広がっていくことだろう。いよいよ“パチンコ包囲網”の全貌が水面上に現れつつある。その背景となっているのが“カジノ法案”である。このカジノ絡みで出てきたのが、白夜書房の子会社社長の逮捕である。この子会社は「白夜プラネット」(東京都豊島区)で2月1日、同社社長の森下幹人(40)容疑者ら3人が常習賭博容疑などで、警視庁保安課に逮捕された。森下容疑者は白夜書房社長の長男である。

逮捕の要因となったのは、同社が運営する携帯電話ゲームサイトの「カジパラ」で、ポーカー、花札、チンチロリン、ブラックジャックなど7種のゲームを年齢制限なく提供していた。08年11月に開設され、同課の捜査によって閉鎖されるまでの約3年間で、会員登録者1500人以上、利用回数は6万回以上、掛け金は総額約8000万円に上っていたという。

賭博で得た利益は、手数料を合わせて約1000万円であるが、収入源になっていたのは広告料で、3年間で約3億円以上にも上った。広告を出していたのは、風俗店やヤミ金、出会い系サイトなど30業者。森下容疑者は風俗店やサラ金の広告は儲かるので、そういう広告を掲載できるサイトを作りたかったと供述している。

多くのギャンブルファンで賑わうカジノセンター

“カジノ熱”が高まってくれば、当然のことながらこうした事案は増えてくることだろう。現在でも多くある“闇カジノ”は言うまでもなく、新たな形態の賭博ゲームも次々と出てくるはずだ。こうした動きに対しても、“嫌ギャンブル派”と“親ギャンブル派”の意見は真っ向から対立する。ただ、“嫌ギャンブル派”は声高に反対を唱えるが、“親ギャンブル派”はあまり声を上げない。

たとえば、東日本大震災の被災県に対し、復興特区としてカジノを認めてはという案が出たことがあった。これに対し、某県の県知事は「金のために魂を売るのか」と激昂した。これなどは“嫌ギャンブル派”の筆頭であろう。しかし、なぜかホール組合の総会に来賓として出席していた。カジノは政治主導で動いているが、“嫌ギャンブル派”の国民をいかに納得させていくのか。ここが見ものである。

観光産業の振興という大義名分はあるが、最終的にはカジノ税の住民還元という点を前面に打ち立てていくのであろう。それで“カジノ解禁”が果たされれば、パチンコ業界にとっても、重要な前例となる。“パチンコ税”をはじめとした地域還元の具体例を考えていく方法も浮上してくるだろう。私が最も危惧するのは、パチンコ業界が何も動きを示すことなく、このまま規制強化によって業界自体が“ジリ貧”になっていくことだ。もしかしたら、カジノ法案絡みで、“パチンコ蘇生”のシナリオはすでに出来上がっているのかもしれない。ただ、私は寡聞にしてそうしたシナリオがあることを知らない。(佐渡屋太郎)

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『アミューズメント』完成と永久シード選手【佐渡屋太郎-vol.233】

2月13日に送られてきた『アミューズメント』の見本

いまは2月15日(水)の16時40分。近頃、やけに雑事が多くなり、多くの時間を取られている。しかし、1つひとつ片付けていくと、やはりスカッとして気持ちがいい。それも今までそんな雑事を溜めに溜め込んできた私に、その責任の全てがある。さらに根源には、好きなことは人に反対されても突進していくが、嫌いなことになると尻を叩かれてもギリギリまでやろうとしないという性向が私にはある。まったくいい年をして、“困ったおっさん”である。

しかし先週から心を改め、馬鹿になったつもりで、1つひとつ分らないことは人に聞き、自尊心に封印して、“屈辱”に耐えてきた。ある件では怒られ、ある件では呆れられ、ある件では同情されながら、佐渡屋太郎は1つひとつの案件を解決してきたのである。この1週間で、人間がだいぶ丸くなったように感じる。果たして、何件の書類に記入し、何件の手紙を書き、何件の電話をしたことだろうか。しかし、“馬鹿佐渡屋太郎”に徹したお陰で、随分と肩の荷を下ろすことができた。

本来、佐渡屋太郎は“馬鹿”ではないかという声も聞こえてくる。そんなことはどうでもいい。私にはまだ最大の案件が、3つほど肩に食い込んでいるのである。来週も“馬鹿佐渡屋太郎”で突っ走ることにする。この案件が解決したら、きっと飛び上がって喜ぶことだろう。ガッツポーズの1つも出るかもしれない。その日を思い浮かべ、もうしばらく“忍耐の日々”を送ることにしたい。必ず、“黄金の成果”が得られるはずだ。そのことを信じて、馬鹿道を突進していきたい。

そんな中、今週は嬉しいことが2つあった。1つ目は、『アミューズメント』が出来上がり、見本が送られてきたことである。これは大学生を対象にした就職用の業界研究本で、「最新データで読む産業と会社研究シリーズ」というシリーズ本の1冊。私が昨年11月、必死になって原稿を書いていたものの中の1つだ。こうして完成品を手に取ると、それまでの苦労が一瞬のうちに消え去ってしまう。この仕事はもう10年以上も続けているが、こうした感激がつらい作業を支えている。

しかし、産業界全般、とりわけパチンコ業界は“不振”の渦中にあり、編集作業も大変だったようだ。来年度に向けた対策の相談依頼も受けている。こんなときこそ、柔軟な発想を持つ若い人たちにパチンコ業界に入ってもらい、業界改革の原動力となってほしい。ホール企業側の採用動向も心配だが、顧客側の視点を持った若者に期待するところは大きい。もう、お上(かみ)至上主義、事なかれ志向、自らの力で改革も行なえないような年寄りに任せていては、業界に未来はないと思う。

さらに、この本の編集者とは今春、別の媒体で仕事をすることになっている。いま、その準備で打ち合わせを重ねている最中だ。個人的には非常に興味のあるテーマでもあるので、大いにやる気になっている。その取材を通して、パチンコ業界のこれまでの経緯と今後の歩み方について、個人的にもじっくりと考えてみたい。いろんな媒体が、パチンコ産業に対して興味を持っていることは確かだ。しかし、この業界に拠って立つ強固な信念と、産業としてのあるべき将来像、さらに目標に向けて改革を行なう推進力が、果たしてあるのかどうか。少し不安ではあるが、この点を確認してみたい。

一堂に会した左から青木、尾崎将、中嶋、尾崎直、片山の永久シード選手

2つ目の嬉しかったことは、ゴルフの永久シード選手の全員を、目の前で見ることができたことである。それは2月13日に開催された「杉原輝雄お別れの会」の取材の場でのことだった。マスコミスペースに一番近い最前列に、日本ゴルフ界を支えてきた永久シード選手が勢揃いして着席したのだ。その顔ぶれは、青木功、尾崎将司、中嶋常幸、倉本昌弘、尾崎直道、片山晋呉の各氏だ。倉本氏はジャパンゴルフツアー選手会の会長であったので、中央の席に座っていたが、他の5氏は肩を触れ合うようにして並んで座ったのである。こんな豪華なショットは久し振りだ。

それにしてもプロゴルフ界は実に、マスコミに対してオープンだった。式中のフラッシュ撮影もOKであったし、式場以外の展示会場も自由に撮らせてくれた。最高の取材環境と言える。しかし、そんなときに限って、補助用のバッテリーを持っていくのを忘れてしまった。実は持って行ったのだが、忘れたと勘違いしていたのだ。2重の凡ミスである。前の晩に充電して、マスターのバッテリーをカメラに入れるのを忘れていた。それでてっきり、補助用を置いてきたと早合点したのだ。当日はできる限り、ショット数を減らして取材を行なった。本来なら、この5氏が並んだショットは5カットくらい撮っている。帰って見たら3カットしかなかった。何枚でも撮れる環境にありながらこの始末だ。何とも情けない。

祭壇前に整列した永久シード選手の6人

しかし、杉原輝雄という人は、実に偉い人であった。勝負に対する執念深さから、“マムシ”と呼ばれた。また、ゴルフに全身全霊を捧げつくした人でもあった。勝つために、自分ができる努力はすべてやり尽くしたと言ってもいいだろう。遼くんが若手なので一番先に行って練習しようとグリーンに出たら、朝もやの中で1人、コツコツとボールを打つ人がいた。それが最長老の杉原輝雄氏であったという。この話を聞いていたら、思わず泣けてきた。「あの人ほど努力をした人はいなかった」と中嶋常幸氏も語っている。

小学生のときに、茨木カンツリー倶楽部でキャディーのアルバイトを始めた。中学を卒業すると、同倶楽部に就職した。そして夜間高校に通いながら、研修生として練習に励み、1957年に20歳でプロテストに合格した苦労人であった。その後も努力を重ね、身長162センチの小柄ながら、青木、尾崎に次ぐ通算63勝を上げた。杉原氏ももちろん、永久シード選手であった。青木や尾崎との死闘の名勝負は、いまや伝説になっている。その死闘を支えた杉原氏のエネルギーは、前述のように勝つことに対する“執念”であった。

60歳のとき、前立腺癌が発覚する。しかし、杉原氏は手術を拒否した。選手としてのブランクができるからだ。この人は精神力で癌を打ち負かせると思ったに違いない。私もこの人の強靭な精神力なら、癌など蹴散らしてくれると思っていた。それにも増して、こんなに努力をしている人に対し、“天”は必ず救いの手を差し伸べてくれるはずだと信じていた。しかし、“マムシ”はそんな甘い考えは持たない。何しろ、現実的だった。加圧トレーニングなど、更なる激しい練習に取り組んだのである。そのときの映像も流れた。

祭壇前で弔辞を読む倉本昌弘氏

その激しいトレーニングでぶっ倒れる姿を見たとき、また泣けてきた。癌を殺すという執念を、その厳しい眼差しに感じた。この“マムシ”はひょっとすると、癌と刺し違えようとしているのではないか。そこには、執念を超えた“殺気”があった。これほどまでに、ゴルフに打ち込んだ人であった。その結果、06年にレギュラーツアーにおける世界最年長予選通過記録となる68歳10ヵ月、10年に世界新となる中日クラウンズの51年連続出場を達成した。また、07年9月13日には、日本プロゴルフゴールドシニア選手県大会で優勝。同日に開催されたSRIXONチャレンジで長男の敏一氏が優勝し、“親子同日優勝”という快挙もあった。

お別れの会で参会者に配られた記念のゴルフボール

故人が真の意味で偉かった人であると、葬儀やお別れ会はある種の感動に包まれる。逆に言えば、数多くの取材を経験すると、故人がどれほどの人であったのかが、地位や業績を除外して分ってくる。その目で見ると、この杉原という人は、第1級の“偉い人”であった。自然と頭が下がるし、その生前の努力や執念が、多くの後進に1つの“生き方”を黙して示してくれている。感動的な取材であった。この執念と努力の1/100でも我が物としたいと思い、もらってきた記念のゴルフボールを机の上に飾り、朝起きるとお祈りをしている佐渡屋太郎である。(佐渡屋太郎)

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佐渡から“寒ブリ”がやってきた【佐渡屋太郎-vol.232】

撤収を始めた“旧事務所”の様子

いまは2月10日(金)の19時13分。今週は京都の伏見や向島、さらに広島や大阪での打ち合わせや飲み会などで、バタバタしているうちに過ぎ去っていってしまった。何とも時の経つのは早い。その中で嬉しかったのが、月末の原稿締め切りを経験することにより、“新事務所”が機能的に整備され、十分に対応していけることが実証されたことだ。移転や整理によって様々な資料が散乱したが、1本1本の異なった分野の原稿を書くうちに、関連の資料が落ち着くところに落ちついてきた。

さらに、各種の機材もいくつかの問題をクリアし、また新たな機材も買い足した。それによって、機能性は前にも増してアップしている。今日はNHKラジオで国会での予算委員会の中継を聞きながら、古い友人たちに移転のメールやFAXを送った。久し振りに落ち着き、満ち足りた時間を過ごすことができた。夕方、買い物に出掛けたあと、今も酒を飲みながら、NHKラジオを聴き続けている。なかなか渋くていい。

“旧事務所”から“新事務所”に運び込まれた荷物の一部

今週は不思議と親族との関わりが多い週であった。その発端は2月5日(日)に掛かってきた弟・佐渡屋次郎からの電話であった。嫁であるUちゃんのお父さんが亡くなったという。それで7日(火)に、広島での葬儀に参列することになった。昨年、お父さんの様態が悪くなったときに弟から連絡があり、佐渡の母とも相談して、私が佐渡屋家を代表して、葬儀にいくことになっていた。そのとき打ち合わせた内容をすっかり忘れてしまったので、母に電話して細かなことを確認した。何とも頼りない佐渡屋家の代表である。

翌6日(月)は用事で京都に行っていたら、息子から電話があった。昨年11月から勤めていた大阪の会社で正社員になれたので、京都から大阪に引っ越すという。付いては保証人として住民票など必要書類を集めておいてほしいとのこと。それから、京都の街を歩き回る羽目になったが、ギリギリで何とか書類を手に入れた。次の7日(火)は5時15分に起きて、広島行き。10時からの告別式に参列し、喪主であるUちゃんのお兄さんに挨拶し、弟夫婦と2人の娘たちとも昨夏の佐渡以来の再会をした。

私は葬儀で棺の中のお父さんの顔を見ながら、16年前になる佐渡の夏を思い出していた。弟夫婦が結婚した年の夏に、Uちゃんのご両親が佐渡へ遊びに来てくれたのだ。そのとき、山の中腹にあった「佐渡ニューホテル」のビアガーデンからお盆の花火を見た。親類の人々やその子供たちも一緒で、何ともにぎやかな集まりだった。私は花火の写真を撮ったのだが、うまく写っていなかった。ただ、そのとき何とか撮れていたご両親の幸せそうな写真を今でも持っており、その写真を見ながらこの原稿を書いている。

しかし、そのホテルも平成14年に廃業してしまった。ホテルの支配人の息子は私の高校の同級生で、オープンの1年前に東京から転校してきた。やがてブラスバンド部の部長になり、指揮者でもあった。いま、何をしているのだろうか。そして、私の父が10年前に死去し、Uちゃんのお父さんも亡くなった。一方、弟の長女は今年、高校受験であるという。時の経つのは実に早いものだ。ウカウカしていると、置いていかれそうな勢いだ。

その日は、葬儀のあとすぐ大阪に戻って打ち合わせを1件こなし、夕方から息子と会ってマンションの手続きを行い、梅田で飲んだ。家の中で飲むことはあったが、外で一緒に飲むのは初めてのことだ。息子が生まれた頃、一緒にキャッチボールすることと、一緒に飲むことを夢見ていたような気がする。その夜、息子は正社員になったこともあって、実に雄弁であった。その姿を見て、頼もしさを感じたのは親の欲目だろうか。

“新事務所”に拡げられた資料類の一部

2人のじいさんたちは死んだが、孫たちは確実に成長している。そして、あと数年経つと、この孫たちが佐渡屋家をリードしていく“主役”になることだろう。さらに、数年経って機会に恵まれれば孫たちは結婚し、私や弟夫婦にも孫ができるかもしれない。孫が生まれれば成長し、やがて私たちは確実に死んでいく。いよいよシナリオの“終点”が見えてきた。だから、死ぬまでの間に、“もう一花咲かせたい”と私は切実に思うようになった。いま、そのプランを具体的に詰めていて、近頃は夢にも出てくるようになった。自分でも抑え切れないような激しいエネルギーを感じる。

そんな矢先、佐渡近くを震源とする地震があった。2月8日(水)の21時01分に発生し、震度5強、マグニチュード5.6の大きなものだった。そのニュースを見たとき、ビックリした。私のエネルギーがその地震を起こさせたのではないかと、密かに実感したのだ。こんなことは人には言えない。私の“野望”が佐渡の地を揺るがせたようだ。幸い、さしたる被害がなくて胸を撫で下ろしている。

その後、Uちゃんから電話が掛かってきた。葬式へ行ったお礼である。その前に佐渡の母に電話をしているとき、ちょうど地震が起こったという。そのとき、母親は「いま、揺れているようなので、少し待ってくれ」と慌てふためいて叫んだそうだ。その情景を思い浮かべて、私は大笑いした。弟の佐渡屋次郎にも、その話を少し脚色して教えてやったら、大笑いしていた。ただ、その震源が佐渡屋太郎であったことは伏せておいた。

佐渡から送られてきた“寒ブリ”8キロの全貌

佐渡といえば、昨年暮れに佐渡から“寒ブリ”を送ってもらった。これが、今回のテーマである。やっと話がつながった。実は、これ以降の文章は1月5日(水)に書いたものだ。しかし、あまり身内のことを書き過ぎたので、掲載をためらっていた。ただ、おじさんである漁師のSちゃんと元やくざで今はタクシー運転手をしているTちゃん兄弟は、私の大好きな人物で、その“豪快な生き方”は幼かった佐渡屋太郎に大きな影響を与えた。今回は、過激な表現を削りながら、“寒ブリ”を仲介にした心暖まる物語を紹介する決心をした。以下、その文章を校正しながら、続けてみる。

さて、正月といえば、生まれ故郷である佐渡の味が恋しくなるが、昨年末に異変が起きた。それは、佐渡沖の寒ブリ漁がまれにみる“豊漁”で、10キロ以上の大物もどんどん上がっているという。ニュースによく出てくるのが、両津湾内の漁場の1つである黒姫沖。定置網の「大謀網」(だいぼうあみ)で、多くの漁師が網を掛け声とともに引き上げる。獲物が大きいだけに、その光景は見ていても豪快そのものだ。

そのニュースを見ていて、あることが閃(ひらめ)いた。私の親戚のおっさんの1人は、内海府で漁師をしている。小さい頃は夏休みになると、親類のにいちゃんたちと一緒に遊びに行ったこともある。一緒に泳いだとき、その泳ぎのうまさに、さすが“漁師”であると感心したことを憶えている。

そのおっさんには“伝説”がある。ある年、漁に出ていったとき、それを追うように台風が接近してきて、音信が途絶えてしまった。残された家族や親類は悲嘆の底に落とされ、一縷の望みにすがるしかなかった。しかし、2日経っても3日経っても、一向におっさんからの連絡はない。もうこれは諦めるしかないと皆が思い始めたとき、沖の方から1隻の小さな船がヨロヨロと港に入ってきたそうだ。近づいてきてよく見ると、甲板に何かがうずたかく積み上げられている。

頭と胴体を切り離された“寒ブリ”の無念な姿

ことの真相は、次のようなことだった。沖に行ったおっさんは、漁場で台風に遭遇して翻弄された。そのとき、無線もやられてしまった。しかし、その台風を何とかやり過ごしたとき、“イカの大群”に出会った。どんどん巻き上げても、海面はイカで埋め尽くされていたという。おっさんは狂ったようにイカを次から次へと巻き上げ、生簀が一杯になると、甲板に放り出していった。このときの興奮をどのように表現すればいいのだろうか。それはパチンコで、何十連チャンしたときのトキメキをも超えるものであったと想像する。

おっさんのアドレナリンは放出を続け、イカを採りまくった。しかし、甲板がイカで埋め尽くされると、ふと我に返った。“これ以上、釣ったら船が沈んでしまう”。そこでやっと正気に戻り、港に帰る決心をした。しかし、まだイカの大群は海面を埋め尽くしていた。後ろ髪を引かれる思いで、ポイントを後にした。そして、今にも沈みそうな船を騙し騙し、ヨロヨロと港に帰ってきたというわけだ。そのときのおっさんは満面の笑顔であったという。もう死んだものと諦めていた親族の悲嘆の表情とは好対照であった。

その笑顔を見て、親族は当初こそ喜んだが、やがて時が経つとともに、感情は怒りに変わっていった。おっさんの個性は“飄々”としているのが特徴だった。しかし、漁師を続けるのも金が掛かる。使った軽油代以上の水揚げがなくては採算が取れない。さらに、より多くの漁獲量を上げるために、大きな船を持とうとしたら、相当な投資も必要になる。これは決していい職業とは言えない。そして何より、命がけの危険が伴う。もともと百姓一族であったわが家系では、おっさんが漁師になることに、皆が“反対”であった。

そもそもおっさんは、佐渡屋太郎のばあさんの妹の息子である。その妹は、私の保育園時代の先生であった。妹は、漁師町出身で騎兵隊の隊長であった人と結婚した。その結果として生まれたのがおっさんである。おっさんは両津高校の水産科を出て、漁師になった。弟は佐渡高校を卒業し、関東の国立大学を受けに行ったまま行方不明となった。それから数十年後、その弟が佐渡に帰りたいと言ってきたとき、体には刺青(いれずみ)があった。

私の保育園時代の先生であったおばさんは、ヤクザであった弟(私にとってはTおじさん)に、「佐渡に帰ってくるなら、刺青を消してこい」と条件を付けた。弟は刺青をすべて焼き潰して、佐渡に帰ってきた。私が大学生の頃、佐渡に帰ったときにパチンコ屋に行くと、高校時代の音楽の先生であった通称“ベートーヴェン”とTおじさんは、いつも壁際でパチンコを打っていた。いま、その「佐渡センター」もなくなってしまった。Tおじさんはハンサムで、「足があと10センチ長かったら、石原裕次郎のように映画俳優になっていた」と言っていた。

考えてみるに、この兄弟は早世した漁師町出身であった“父親”のDNAが相当に入っている。長男は海の香りが忘れられずに漁師になった。そして、弟は血の気が多い漁師気質を受け継いで、東京でヤクザなった。弟は東京にいた頃はダンプの運転手で、佐渡に帰ってからは、タクシーの運転手になった。ある年、Tおじさんに両津の港まで送ってもらったが、私の町から20分で両津の船着場まで着いた。普通だったらいくら飛ばしても30分は掛かる。追い越し禁止車線をまたぎながらのスリル満点の運転であった。前を走るすべての車を追い越して、車は港に着いた。それはまさに芸術というべきテクニックで、命が縮まる思いをした。

出刃包丁がなかったので、力ずくで解体された“寒ブリ”の新鮮な部位

正直に言うと、私は小さい頃から一族において批判の対象になっているこの兄弟を、“憧れ”の気持ちを持って見ていた。その理由の1つは、生き方が豪快であり、エネルギッシュであること。ただし、採算は取れていない。2つ目は純粋であること。私のばあさんと父親が死んだとき、こんなに剥き出しの感情で悲しんでくれた人はいなかった。この兄弟は大声で、ばあさんと父親の偉かったことを語ってくれた。これは“仁義”である。心と心を剥き出しにした、本当の人間と人間の付き合い方を知っている。

随分、前置きが長くなったが、母親を通して、私はその漁師のおっさんに寒ブリを送ってくれと頼んだのである。私はおっさんがこの豊漁で、以前のイカと同様にアドレナリンを出しまくっているのではないかと思っていた。しかし、漁法は前述の通り、“大謀網”であった。小さな船しか持っていないおっさんは、網引き要員でしかないという。しかし、網を引くと何本かの“寒ブリ”を持って帰れるそうだ。その寒ブリを送ってもらった。実に見事な寒ブリであった。重さは8キロを超えていた。

刺身、ズケ(漬け)、しゃぶしゃぶ、ブリ大根、照り焼き、兜煮、バター焼きなど、あらゆる手法を駆使して、寒ブリをしゃぶり尽くした。8キロの寒ブリは相当な量であった。いまの心境を正直に言うと、寒ブリはしばらく見たくないというほどに堪能した。その料理を食べたあとに、古い写真帳を取り出して、小学5年生の佐渡屋太郎とおっさんが写っているモノクロの写真をY嬢に見せながら、シコタマ佐渡の思い出話を語ってしまった。しかし、どれだけ男と男のドラマをY嬢が理解したかは分らない。願わくば、あのWという漁村の海でもう1度、小学生の頃に戻って泳いでみたい。

ふるさとの味には、それによって喚起される豊穣な思い出がある。その思い出を噛み締めながら、思いは時空を飛び回る。あのころ少年であった佐渡屋太郎は、いつの間に“おっさん”になったのだろうか。その記憶の境目がまったく欠落してしまっている。思えば、私もいろんな風景と人間の感情を体感してきた。だからこそ、“寒ブリ”の味わいが分る年になったということだろうか。私はSちゃんとTちゃんは最高にカッコいいと、今でも思っている。こんなことを言うのは、佐渡屋一族のなかで私しかいないのではないか。送られてきた“寒ブリ”は、忘れかけていた“仁義”の味がした。(佐渡屋太郎)

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2011年におけるマルハンの出店状況【佐渡屋太郎-231】

「マルハン昭島店」(東京都昭島市)、704台(P=480台、S=224台)、10年12月オープン

いまは2月3日(金)の13時35分。やっと1月末締め切りの原稿書きが終わった。いま、原稿チェックの結果を待っているところ。この原稿書きのために、新事務所の資料整理が中断してしまった。いまだに、私が関わってきた雑誌類のバックナンバーと、様々なところから送られてきた未読のFAXニュース類がうず高く積み上げられている。

雑誌類は私が書いた記事のページだけを切り取り、残りは処分する予定。FAXニュース類は、一応すべてに目を通し、今後必要になると思える資料だけを残し、あとは潔く廃棄することにしている。それにしても、積年にわたって溜め込んだ資料整理には感慨深いものがあった。

パチンコ業界について言えば、古くは16年前のものからざっと目を通し、テーマごとに分類し、古いものから順にファイルしていった。テーマは自分が興味あるものに限り、他のものはみんな捨てた。たとえば、「換金問題」のファイルを見ると、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が古くから展開されてきた。私もことあるごとに記事を書いてきた。しかし、いまに至って何ら解決されておらず、そのことがいま業界を危機的な状況に陥れようとしている。

「マルハンメガシティ堺」(大阪府堺市西区)、1072台(P=800台、S=272台)、08年3月オープン

そんなことを考えながら、分厚い4冊にまとめられた「換金問題」のファイルをめくっていると、激しい“徒労感”に襲われる。そんな記事を書くことでいままで生活してきただから文句は言えないが、それにしても悲しい。これまで何をしてきたのかという業界と自分に向けた“自責の念”に押し潰されそうになる。しかし、物事には始まりがあれば、必ず終わりがある。一体、この問題はどのような形で決着するのか。それは他の問題も含めて、見続けていかなくてはならない。

さて、こうした資料整理のお陰で、昨年に送られてきたマルハンのニュースリリースを、すべて揃えることができた。この紙の束がまた「マルハン」のファイルに追加されるわけだ。その前に、昨年1年の出店状況をこのブログにまとめておきたい。昨年は東日本大震災やそれにつづく規制強化で、パチンコ業界は大打撃を受けた。それはマルハンも例外ではない。2010年度の決算では2003年度以来の7年ぶりの“減収減益”を記録した。目下、利益率アップのために懸命に対策を講じているという。そんな状況下、2011年の新規出店はどうであったのだろうか。ニュースリリースからその状況を見ていくことにする。

「マルハン加島店」(大阪市淀川区)、1400台(P=800台、S=600台)、05年11月オープン

【2011年におけるマルハンの新規出店状況】
①1月20日=「マルハン大安寺店」(奈良県奈良市)、640台(P=480台、S=160台)、奈良県7店舗目、全国267店舗
②1月28日=「マルハン泉南店」(大阪府泉南市)、528台(P=400台、S=128台)、大阪府31店舗目、全国268店舗
③2月10日=「マルハン大山店」(東京都板橋区)、700台(P=508台、S=192台)、東京都8店舗目、全国269店
(以上は2010年度分で合計11店の新規出店)
④4月14日=「マルハン下松店」(山口県下松市)、600台(P=400台、S=200台)、山口県2店舗目、全国270店
⑤8月5日=「マルハン加古川店」(兵庫県加古川市)、720台(P=480台、S=240台)、兵庫県13店舗目、全国270店
⑥8月11日=「マルハン佐賀店」(佐賀県佐賀市)、900台(P=600台、S=300台)、佐賀県3店舗目、全国271店
⑦8月24日=「マルハン会津若松一箕店」(福島県会津若松市)、560台(P=400台、S=160台)、福島県7店舗目、全国272店
⑧12月1日=「マルハン川口店」(埼玉県川口市)、870台(P=560台、S=310台)、埼玉県5店舗目、全国273店
⑨12月23日=「マルハン十和田店」(青森県十和田市)、602台(P=440台、S=162台)、青森県9店舗目、全国273店
⑩12月27日=「マルハン仙台新港店」(宮城県仙台市宮城野区)、810台(P=560台、S=250台)、宮城県6店舗目、全国274店
(以上は2011年度で、12月末日までの新規出店は合計7店舗)

これら10店舗の平均値を計算すると、総台数=629台(P=435台、S=194台)で、PとSの総台数に対する比率はP=69%でS=31%となる。昨年もこのブログで同様の記事を書き、2010年4月~12月に新規出店したホールの平均値を取った。その結果は、総台数=728台(P=537台、S=191台)で、P=74%、S=26%であった。昨年のデータと今年を比べると、総台数=99台減(P=102台減、S=3台増)、P=5%減、S=5%増となる。

つまり、店舗規模は大きく縮小し、その縮小分のほとんどがパチンコの減台であるということだ。とても興味深い結果となった。もっと具体的に言えば、パチスロは現状維持されたが、パチンコは1店舗当たり100台も減台され、それがそのまま店舗規模の縮小に結びついたことになる。今のパチンコの状況を如実に物語っている。一方、パチスロは堅実に微増の歩みを続けている。しかし逆に言えば、パチスロはパチンコの“大不振”を埋めるだけの存在に育ってきていない。これに低貸営業による粗利減少が加わることにより、ホールの苦境が透けて見えてくる。

「マルハン茨木店」(大阪府茨木市)、737台(P=487台、S=250台)、98年12月オープ

一方、同社の出店動向を見ると、例年は年末の出店ラッシュがあったのだが、昨年末は2店舗に留まった。ちなみに2011年度(2012年3月期)の新規出店計画は18店舗を掲げていたが、これはほぼ不可能だろう。2011年3月期並みの11店舗くらいの線に落ち着くのではないだろうか。ここで昨年5月26日に発表されたマルハンの会社説明会資料を探し出してきたので、備忘録として、今期の計画数値を記しておきたい。

【マルハンの2012年3月期経営計画】
●売上高=2兆2240億円(連結)
●営業利益=453億円(連結)
●経常利益=454億円(連結)
●新規出店数=18店舗(単体)
●設備投資=426億円(単体)

【設備投資の内訳】
●店舗関連投資=411億円
  土地取得=70億円
  新規出店=198億円
  改装店=40億円
  既存店=93億円
  復興関連=10億円
●システム投資等=15億円

現在は同社だけでなく、業界全体において、これまでにない想定外の事態に陥っていると言ってもいいだろう。そのなかで、どのように経営を立て直していくのか。今年の決算結果が注目される。新規出店に関しても、いろんな動きが出てきている。北関東の建設予定地から基準値を超える放射能が検出され、関西に出店地を変更したいくつかのホール企業。円高の進行で生産拠点を海外に移した首都圏の工場跡地を、全国展開の大手や関西の大手が次々とホール予定地として確保している動き。4月以降にそれらの動きが次第に明らかになってくることだろう。(佐渡屋太郎)

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