遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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佐渡屋次郎の偉業―佐渡日記2011①【佐渡屋太郎-vol.223】

新たなベランダに移り、太陽の光を受ける植木たち

いまは10月8日(木)の16時45分。無事に引越しも終わり、荷物もほぼ片がついてきた。思えば盆休みを前にした7月中旬から、ずっと全速力で走り続けてきたような気がする。しかし秋の訪れとともに、やっと落ち着いた日々が返ってきた。その幸せをいま、しみじみと噛み締めている佐渡屋太郎である。

そして今朝、新たなベランダに落ち着いた70鉢の植木たちが、太陽の光を浴びているのをずっと眺めていた。以前のベランダよりも、格段に日当たりが良くなっている。必死で苦労した甲斐があった。そして、やっと“大きな山”を越えたという達成感に浸った幸せな時間だった。こんな“黄金の時”は短い人生において、そんなに何回も訪れて来るものではない。だから、朝から酒は飲んではいけないので、コーヒーを飲みながら、ベランダで“至福の時”を過ごしたのである。

その間、いろんな原稿も書いてきたが、内容的にシビアなものが多かった。これも世相の反映だろう。さらに今月は、大阪の特殊景品の取材をする予定だ。またまたシビアな世界に入っていかなければならない。そこで今回のブログは、自主的に“やわらかい原稿”を書くことにした。この間に頭の休憩を取っておかないと、自分自身が持ちそうにないからだ。というのは口実で、本当はこの一連の原稿を書きたくてウズウズしていた。テーマはもちろん、夏に帰った佐渡での出来事である。昨年の砂利運びや藤ツルとの闘いに続き、今年も父の残した“畑の楽園”を守る重要な任務が待ち受けていたのだ。

“畑の楽園”の西側の南部で生い茂る“ジャングル化”した木々

しかし、昨年と違うのは、弟の“佐渡屋次郎”がいてくれたことだ。次郎は中学生時代、陸上競技の100メートルにおいて佐渡で1番速く走って優勝し、佐渡高校時代はそれまでなかったサッカー部を創り、大学時代もサッカーに身を捧げたスポーツマンである。体力的には、実に頼もしい人材と言える。ただ、7歳年下なので、私が佐渡を出たときには11歳で小学5年生であったと思う。したがって、私は佐渡屋次郎の勇姿を見たことがない。当時の私は一刻も早く佐渡や佐渡の家から出たかったが、弟と別れるのが一番つらかった。今では立派な“おっさん”だが、あの頃の弟はかわいい盛りであったのだ。

弟が佐渡で活躍している頃の私は、1つ目の大学を中退して父から勘当され、その後に行方不明になり、散々な青春時代を東京で過ごしていた。2つ目の大学に入ってから数年後、勘当が解けて久しぶりに佐渡の家に帰ったとき、弟は信じられないくらい大きくなっていた。いつもなら、まず相撲を取る。それが“兄弟の儀式”であった。私は中学2年のとき、野球部ではあったが何故か相撲大会に出ることになり、佐渡で4位になったことがある。しかし、そのとき高校生であった弟の体を見て、瞬間的に相撲を取るのを止めた。“負けるかもしれない”と思ったからだ。負けたら兄貴としての“威厳”を失ってしまうことになる。

その後の弟の人生を見るに付け、あのときの判断は正解だったとつくづく思う。ただ、弟には何回も言い聞かせているが、彼がいまこの世に存在しているのは、はっきり言うと私の“お陰”である。実は私と弟の間には、もう1人の弟がいた。生まれていれば私より3歳年下だった。その幻の“弟”が流産して数年後、私は母親から「弟か妹が欲しいか」と聞かれた。

そのとき、私が「いらない」といえば、弟は存在しなかった。「欲しい」と言ったからこそ、彼はこの世に“生”を受けることができたのだ。言ってみれば、私は彼の“命の恩人”である。そのことを一瞬たりとも忘れることなく、私と接するようにと口を酸っぱくして言っている。さらに、弟が生まれた直後に、父親から名前を2つ提示され、どちらがいいかと聞かれた。そのとき、私は“次郎”という名を選んだ。その結果、彼は由緒ある“佐渡屋次郎”となったのだ。言ってみれば、私は彼の兄であるだけでなく、“ゴット・ファーザー”でもある。

次郎は佐渡へ帰ると、毎年のように同級会や友達との飲み会で、夜はほとんど家にいたことがない。昼間は奥さんや2人の娘を連れて海やプールに行くので、この時間帯も家にいない。私も息子が小さいときは、親類の子供や近所の子供まで一緒に連れて、毎日のように佐渡の様々な海岸に通っていた。あの頃はしんどかったが、今となっては楽しい思い出だ。しかし、子供が中学生くらいになると、だんだん佐渡に行きたがらなくなる。親と遊ぶより、友達と一緒に遊んだ方が楽しいからだ。かくして私の場合は、ここ10年近く、1人で佐渡へ帰るようになった次第である。

ところが今年は、これまでと状況が一変した。まず弟の奥さん(Yちゃん)と2人娘は、佐渡に2日いただけで、奥さんの実家のある広島に行ってしまった。さらに、例年は4~5日しか盆休みを取れなかった弟が、今年は私と同じくらいの期間、休みを取れたという。だんだん、彼も偉くなっているのであろう。その結果、2人の帰る日を合わせ、弟の車で一緒に帰ることになった。私が帰り分の電車代を弟に払うことで、負担を少なくしてやろうという兄の優しい心遣いである。

佐渡屋次郎の偉業により、明るく健康的になった西側南部の雑木林

そして驚くことに、昼間は“畑の楽園”の整備に、自分も参加したいとの申し出があった。弟もこのブログをたまに見ているようで、昨夏に書いた佐渡屋太郎“渾身”の「藤ツルとの闘い」と題した記事を読んで、“感動した”と言っていた。ような気がする。もしかしたら私の勝手な思い込みかもしれない。さらに、その整備作業が始まったとき、佐渡屋次郎はポツリと、ある重要な発言をした。それは「実を言うと、俺も小さい頃は、“樵”(きこり)になりたいと思っていた」という衝撃の告白である。

私たちの父は、木を愛し、木をわが子よりも大切に育ててきた。またその一方で、多くの木を彫り、ヤスリで磨き、木の持つ美しさを堪能した人間であった。そして最後に多くの木と、多くの木彫品を残して死んでいった。その木を愛して育てる気持ちは、私の体に数年前から急激に、しかも恐ろしく強い力で乗り移ってきた。その結果、私はいろんなところから木の苗を抜いて来ては育てるという、異常行動をする“おっさん”になってしまった。しかし、それは私だけではなかった。父のDNAは弟の佐渡屋次郎にも、確実に受け継がれていたのである。

ただ彼の場合は、私のような木を愛し、育てるという遺伝子ではなかった。木を彫り、ヤスリで磨くというDNAであったようだ。それは今回の衝撃の告白によって、明らかになったと私は思う。つまり、父の遺伝子は見事に2つに分かれ、2人の息子に引き継がれたのである。兄の佐渡屋太郎は近頃、“植木屋”になりたいと思うようになってきた。そして、弟の佐渡屋次郎は現代版の“与作”のように、木を切りたいという欲望にまみれた異常な“おっさん”であることをカミングアウトした。多分、2人娘が成人した後は、“きこり”になりたいと思っているはずだ。私の予想では、弟はこれから、木を彫り、ヤスリを掛け、木を愛(め)でていく人間になるはずだ。それは私が断言する。

こうして考えると、“血のつながり”は非常に恐ろしく、根深いものであることを今更ながらに痛感している。その結果として、父の“魂”は、2人の息子の体の中で、今も確実に生き続けているわけである。そのことを実感するとともに、父の木に対する執着が、いかに強いものであったかを身を以って思い知らされた。これは天国方面に向けて、強く報告しておきたい。

それにしても、弟を作っておいて、本当によかったと思う。父の木に対する“異常愛”の半分を受け継いだだけの私でも、正直言って重過ぎると感じる昨今だ。ましてや、これをすべて受け継いだとしたら、果たして真っ当に生きていけるかどうか分らない。改めて、父の木に対する“異常愛”の計り知れない強さに驚愕する。また、その半分を引き受けてくれた弟にも、深く感謝したい。

そして今夏、2つの遺伝子が結合した結果、兄弟2人で“畑の楽園”にある木や竹を切りまくったのである。今回の母からの命令は、竹藪の中の枯れた竹を撤去してきれいにすること。さらに、“植木ジャングル”の最前列にある松の枝をすかして光と風の通りをよくすることであった。しかし、今年はスポーツマンで筋肉の固まりのような弟が参加することになった。そこで、計画を大規模に拡張し、“畑の楽園”の西側に並ぶ木々の枝打ちをアイツにやらせることにしたのだ。

昨年、西側の南部は私が“藤ツルとの激闘”によって、椿の木と竹薮を生き返らせるという偉業を成し遂げた。そこで今回は、その北部にも手を付けることにしたわけだ。そこには、杉や柿をはじめ名も知らぬ大木が鬱蒼と茂り、畑への日当たりを悪くしていた。ただ、そこの枝打ちといっても、その枝はかなり太いものがおおい。それを脚立に乗り、さらに高いところにあるものは、下の枝に乗って上の枝を切るという作業になった。「きこりになりたかった」という弟にとっては、まさに欲望を満足させる打って付けの任務となったのではなかろうか。

柿木を中心にして、枝を茂らせる雑木林

これらの木は、海から吹き付ける風を遮るため、父が植えたものだと思う。以前に書いたように南側の杉は大きくなり過ぎたので切り倒された。しかし、北側の杉はまだ4~5本が残されていた。杉の木を切っただけで、冬の風当たりが強くなったと、畑の横に住むいとこのM兄が言っていた。やはりそれなりに防風林としての効果はあったのだろう。さらにその間に、雑木たちが成長して大きくなり、その前に柿や植木が並んでいる。

柿の木は私が小さいことからあったので、ばあさんが植えたものだと思う。その実で干し柿を作っていた。しかし、その他のものは父によって植えられ、父が死んでからも成長を続けていた。その結果、母にとってもすでに手に負えなくなり、密林の“ジャングル状態”になっていたわけだ。その下は畑になっているが、日当たりが悪く、コンニャクイモくらいしか植えていない。

“きこり”と化した弟は、黙々と作業を行なっていた。きっと夢であった“きこり”になりきっていたのだろう。夢に見た“晴れ舞台”で自己陶酔をしていたに違いない。しかし、この作業はスポーツマンである弟にとっても、かなりハードなものであったようだ。一度、胸が苦しくなって、畑の家で横になっていたという。彼の心臓は“スポーツマン心臓”で、普通の人の2倍くらいの大きさになっているという。しかし、これも言ってみれば一種の“心臓肥大症”で、あまりいいことでないそうだ。その頃、私は竹薮の中で藪蚊や蛇と格闘しながら、せっせと竹を切っていて、そのことは知らなかった。

柿木の枝を払い、明るくきれいになった畑

休憩のときに、「オメ(おまえ)もキーツケロヨ(気を付けろよ)」と言われたが、私の心臓は小さいけれど、剛毛が生えている。数々の“修羅場”を潜ってきたお陰だ。こんな作業でへたばってはいられない。それにしても、2人にとってかなりの重労働であったことは確かだ。その結果、“畑の楽園”の西側は見違えるような明るく健康的な雑木林となった。これは佐渡屋次郎が“きこり”となって成し遂げた、まさに“偉業”である。ただ兄としては、彼がこの作業の喜びによって目覚め、本当の“きこり”になると言い出さないことを祈るばかりだ。

いま“畑の楽園”の防衛団は新たに弟を加え、母と私の3人となった。しかし、この3人が何をしているのかというと、結局は父が残したものの整備と管理である。もっとはっきり言えば、父の“尻拭い”をしているわけだ。父は生きているとき、“人に迷惑を掛けること”が最も嫌いであった。弟が若い頃に、道を外れた恋愛をしたとき、泣きながら弟を諭したという。相手の家族に迷惑を掛ける息子を、体を張って阻止したのである。私が京都の出版社をやめるとき、名古屋でのいとこの結婚式を終え、新幹線に乗ってから京都まで車両の間に立ちながら大声で論争し、さらに京都の私のマンションについてからも夜中の3時まで私を説得に掛かった。

私はこれまで多くの人と喧嘩や論争をしてきたが、父よりタフな相手はいなかった。父の論理は単純明快で、妻や子供に迷惑を掛けるようなことはするなということである。当時、父は68歳であった。その老体で、馬鹿息子の道に外れたと思う行動に対し、体を張って止めに掛かってきたのである。私は自分の考えを必死になって何回も説明した。父は自分の考えを何回も繰り返してきた。互いの考えはいつまで経っても併行線を辿り、あとは体力勝負になった。しかし、父は一歩も譲らなかった。このとき、私は自分の考えを変えるつもりはなかったが、父には負けたと思った。

繰り返すが、私はこれまで多くの人と喧嘩や論争をしてきたが、父ほどタフな相手はいなかった。目の前にいる老人の底知れない“粘り”や“体力”はどこから出てくるのかと思い、空恐ろしくなったのだ。果たして、私は自分の息子に対し、ここまで体を張れるのか。それは親の愛情とも責任感とも解する見方もあるが、私が感心したのはそんなことではない。論争としての観点で言えば、父の主張は完全に破綻している。私は妻や子供に一時的な迷惑は掛けるかもしれないが、もっといい環境を作れるという自信を当時は持っていた。

そのとき、私が感心して、空恐ろしくなったのは、父が持つ底知れない強靭な“エネルギー”である。この“エネルギー”は一体、どこから出てくるのか。それから5年後、父は親類の家のコタツに入り、女子高生であったその家の娘と話しながら、眠るように静かに死んでいったという。あのとき、父は女子高生とどんな話をしていたのだろうか。それの内容を、切に私は知りたい。いずれにしても、最高に幸せな死に様であった。そして、幸せな人生を送った人であったと、いまさらながらに思う。

佐渡屋次郎によって切り落とされ、畑に積み上げられていった雑木の枝の一部

もし、あのときの論争で、父の“エネルギー”がかなり消耗したのであれば、父の死の責任は私にある。これも馬鹿息子を持った父の運命であったと言うしかない。他人事のように言うが、“運命”とはそういうものだ。その後、佐渡に帰ると、毎年のように父が残した膨大なコレクションの処理に困った母から、いろんな相談を受けるようになった。

タンスに残された数多くのスーツやコート、押入れの中に整然と詰め込まれた茶器や陶器。家のいたるところに置かれた石の置物。今年、弟が発見した梱包された絵画や版画、さらに初版本を復刻した文学全集のダンボールの山。その一方で、“畑の楽園”に残された数々の木々や植木があることは前述の通りだ。こうした現象の中で、佐渡屋太郎は父が死んでから10年にわたり、そのコレクションの全貌を見せられることになった。そして、やっと父のエネルギーの“源泉”を知ることに至ったのである。

その結論は、父のエネルギーの源泉は、“物を集める”ことにあったという発見である。これには2つの推論がある。つまり、1つ目はエネルギーがあったから、“物を集めた”という考え方。あと1つは、“物を集める”ことによって、エネルギーを徐々に強くしていったという考え方である。これは私から見たら、答えは実に簡単だ。正解は後者である。そもそもある対象に興味を持つ人がいる。その興味をさらに深めていこうとしたら、“のめり込む”しかない。“のめり込む”ことによって、更なる興味が湧いてきて、より大きなエネルギーを注ぎ込むことになる。そして最後には、そのエネルギーは無限の高まりを見せるのである。

あるものに興味を持って集め始めると、さらにもっと多くのものが欲しくなり、“エネルギー”はものすごい勢いで高まっていく。その欲望は、ほとんど“病気”である。これを井上陽水流に表現すれば、「限りない欲望」ということになる。ただ、父の場合の特徴は、その対象が実に拡かった。盆栽、面、柱、石、陶器、古くは切手、コイン、マッチ箱、カメラ、手作り模型、私が生まれる前は自分で籠を作り、ウグイスやメジロを飼っていたという。その鳥籠(とりがご)を見たが、実に精巧なつくりであった。さらに言えば、お金を貯めるのも好きだった。

いまの私から見れば、誰からも咎(とが)められることなく、さらに収容スペースに困ることもなかった父は、最高に幸せな“コレクター”であったと言える。まさに、父の人生は、ことコレクションに関して言えば、“やりたい放題”であったと想像する。その結果、永年にわたって父は、膨大な“エネルギー”を体内に貯め込むことになったわけである。これは、私の周囲にいる人々に強く発信しておきたい。

佐渡屋太郎をエネルギーに溢れた“大きな人間”にしたいのなら、私の収集癖に文句を言ってはならない。それがすなわち、佐渡屋太郎を平凡で“小さい人間”にすることと同義であることを認識してほしい。私自身で言えば、もっと資力を持ち、“やりたい放題”ができる男にならなくてはいけない。ただ、私の場合で言えば、対象はB級で実に細(ささ)やかなものだ。酒や女や政治や保証人の判子(はんこ)で、身上(しんしょう)を潰してきた先祖からみれば、実に高尚で安全な“道楽”ではないかというのが、私の主張である。

いけない。私の主張に力が入りすぎた。振り返って父のことを考えると、そのエネルギーを持ってすれば、息子2人をねじ伏せるくらいは訳のないことであった。しかも、“人に迷惑を掛けるな”という大義名分を持っていた。これは“鬼に金棒”の独壇場である。しかし、“人に迷惑を掛けるな”と言っていた本人が、その残したコレクションによって、“大きな迷惑”を親族に負わせているのだ。その一番の被害を蒙っているのが母親である。この人は、小学校の頃は保健委員になるほど清潔好きで、整理することと捨てることが大好きな、“コレクター”にとっての天敵であった。

父が死んでから数年間は、母は父が残したものを焼いたり、人にあげたりしていた。生きていたときには言えなかった鬱憤を、一気に晴らすような母の執念を見たような気がした。それを知って驚いた私が、そのすべての行動にストップを掛けた。そのときから父の“魂”が、私に下りてきたのではないかと思っている。いま私は父に成り代わって“自省”をしている。私(父)には2つの大きな特性があった。“物を集めたい”という欲望と、“人に迷惑を掛けるな”という理念である。

佐渡屋次郎の頑張りによって、ジャングルから明るい雑木林に変わった“畑の楽園”の西側南部

しかし、この理念は失敗だった。これは本人も予想していなかったはずである。“人に迷惑を掛けるな”と言っていた本人が、人に迷惑を掛けることになってしまった。さらに、“物を集めたい”という欲望は、息子2人に引き継がれている。その結果、父の残した2人の息子という最も少ないコレクションは、人に“迷惑を掛ける”ことをしながら、“物を集める”人間になってしまった。父としては死後、自らの存在理由であった理念を、欲望の結果である遺物(コレクションと息子たち)によって、完全に否定されることになったのである。

弟のコレクションは、衣類である。今年は2階の押入れの中の布団を投げ出し、自分用のクローゼットを作っていた。自分の家で収容し切れなくなった多くのスーツやブレザーが掛けてあった。もちろん、母は激怒していた。私も今年に送った読了本を“畑の家”の本棚に詰めながら、「もう一杯になったから、また新しい本棚が要るな」と言ったら、「これ以上、どこに本棚を置く場所があるか」と母はマジ切れしていた。こうして脳に強い刺激を与えることによって、母にはボケずに長生きしてもらいたいと思っている。これが馬鹿息子たちにできる、精一杯の“親孝行”である。

佐渡屋次郎の力によって、切り落とされていった雑木林の枝の山

父は生前、私がいくら本を佐渡に送っても怒らなかった。それどころか、私がもらった“畑の家”の書庫部屋をフローリングにしてくれた。それからどんどん、本棚と本が増え続けても何も言わなかった。唯一、言った言葉は「同じ本が何組もある」ということだけだった。私が送った本を本棚に並べながら、“重複収集”に気付いたのであろう。私は余りにも多くの本を集めているうちに、以前に買ったかどうかの記憶が怪しくなってきている。その結果、同じ本を何回も買うことになるのである。“迷ったときは買う”。これが私の哲学だ。

しかし、几帳面な父はその書名を息子より明確に記憶していた。多分、私が集めた本の背表紙を、“畑の家”で何回も眺めていたはずだ。その姿を思い浮かべると、佐渡屋太郎は泣けてくる。いまの私は、“畑の家”で自分が集めた本の背表紙を眺めることが、何よりの幸せと思っている。これほど私のコレクションを、詳細な内容は判らなくても、行為として理解してくれた人は父以外にはいなかった。そして、いまの私の寂しい気持ちを、最も分かってくれるのは、実は父ではなかったのかという思いに至ったのである。

今から思えば私にとって父は、“同病”の先輩であり、同じ気持ちを分かち合える“同志”でもあったはずだ。それなのに、死ぬまでつまらぬ意地を互いに張り合い、つねに些細な喧嘩をしていた。これを“近親憎悪”という。でき得(う)れば、コレクターの先輩として父と一度、じっくり話し合ってみたかった。そして、私は心の底から父の“尻拭い”をすることに、最高の幸せを感じている。それを天国方面に強く発信して、今回の意味深いブログの原稿を終わることにしたい。      (佐渡屋太郎)

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“減収減益”に陥ったマルハンの現状【佐渡屋太郎-vol.222】

佐渡の小木港沖に沈む夕日

いまは9月27日(火)の16時55分。明日に2年ぶりの引越しを控え、今日の佐渡屋太郎は久しぶりに燃えている。先程、自分の人生を振り返って、これまでの引越し回数を数えてみた。そしたら何と明日の引越しは、我が人生で13回目になることが判明した。これまで12回の内訳は、東京(3回)、北九州(2回)、京都(4回)、大阪(3回)となる。

“放浪癖”は何とか治ったと思っていたが、長い目で見るとやっぱり“移動“を繰り返していることが分かる。今回は大阪から京都への引越しとなった。また、“母なる京都”へ戻っていくわけだ。京都とはやっぱり妙な“縁”があるようだ。なお、念のために言っておくと、今回の引越しは私の発案ではない。Y嬢の家庭の事情で、実家に近いところに住まなければならなくなったのだ。

当初、Y嬢は恐縮していたが、引越しの提案に佐渡屋太郎が反対する訳がない。本人よりも積極的に話を進めてしまった。私の条件は3つだけ。1つ目はベランダが南向きで広いこと。2つ目はベランダからの景色がいいこと。3つ目は自分の部屋が確保できること。つまり、私にとっての引っ越す最低条件は、植木を育てられる環境とスペースを確保すること。さらに、本や資料とキャンプ道具や釣り道具を収納できるスペースがあれば、どこでもいいいということだ。

昨日は無事に、70鉢の植木を3日掛かりで運び込んだ。これだけは引越し業者に任せられない。と言うより、引越し業者が嫌がって、植木はこちら側が運ぶことという条件を付けられてしまったのだ。しかし、その間もY嬢と荷物のことで過酷な“闘い”があった。私はこのグログでも書いたが、2年前にコレクションの大部分を“佐渡”に送るという、身を切られるような“地獄の体験”をしている。それは肉体的にも精神的にも大変に厳しいものであった。

雨の中、小木線の“七曲り”から見た真野湾

あれから2年、Y嬢から本がまた少し増え出しているという指摘があった。さらに今回、とくに問題になったのは、鉢や土や肥料など植木用品が異常に多いという事実であった。以前の京都の拠点や事務所にあったものを、とりあえず大阪の拠点に持ち込んだからだ。その量は佐渡屋太郎から見れば“屁”みたいなものだが、徐々に減らしていくということで合意が得られた。またいずれ、故郷の佐渡に送ることになるだろう。怒りに震える“母”の顔が見えるようだ。

ということで、今回は無事に引越しの荷造りが進んでいった。2年前、1人で120個の荷造りをした佐渡屋太郎から見れば、こんなものは“屁”みたいなもので、子供の“ままごと”のような実にかわいい規模であった。しかしその作業をしながら、なぜ私の周りにはこんなに物が増えていくのだろうかと考えた。空気を吸うだけで太る人がいるが、私の場合は生きているだけで物が増えてくる。結局、買い過ぎと捨てられないことが原因であることは分かっている。しかし、捨てることを前提にして、物を買っているわけではない。

この問題は、これからじっくりと考えてみることにしたい。しかし、やっと捨てる決心が付いたときは、“死の前日”だったということも十分に有り得る話だ。まあ、こんな葛藤を続けながら、死ぬまで生きていくことになるのだろう。さらに今回の引越しで驚いたことは、その移転先がM師匠の家と目と鼻の先にあったことだった。M師匠は、私が放浪をやめて東京から京都に移り、“定住”を始めた頃にとてもお世話になった人である。関西では有名なコピーライターであったが、すでに現役を引退し、いまNPO法人を立ち上げて丸木船などを作っている。

しかしまだ、M師匠には引越しのことは連絡していない。何だか嫌な予感がするからだ。師匠も無類の酒好きで、会えば近所の飲み屋で連日にように飲むことになり、最後には丸木船を彫らされるのではないかと怯えているのだ。しかし、この世の中は不思議な“縁”で結ばれている。今回は京都に呼ばれ、M師匠に呼ばれたような気がしている。今から24年前、佐渡屋太郎は日本に帰ってすぐに、中国からインドまで一緒に旅をした女の子に会うために、京都にやってきた。

船客の差し出す「かっぱえびせん」や海苔巻き煎餅に寄ってくるカモメ

そして、一時停泊のために下ろした碇(いかり)が、“京都”という岩礁に引っ掛かり、もがき苦しみながら京都で生きることになった。そのとき、心の支えになってくれたのが、M師匠であった。当時、狂っていると言われた私の目から見て、唯一のまともな人間だった。M師匠もある意味では、狂った人間であった。しかし一度、佐渡屋太郎は京都の苦しみに耐えられず、大阪への逃亡を試みた。ところが、また京都に引き戻されることになってしまった。それは物凄い力であったと言うしかない。これも運命だろう。何か大きな意味があるのではないかと思っている。そのことを考えると、佐渡屋太郎はやっぱり丸木船を彫る運命にあったということなのだろうか。

こじつける訳でないが、マルハンの本社も京都にある。私が京都の出版社にいた頃は、マルハンの京都本社脇を流れる高野川で花見をし、出町商店街を酔ってふらつきながら毎夜のように徘徊していた。今年、マルハンの会社説明会はホール組合の総会とぶつかって、取材に行けなかった。そのため、後日にその資料を送ってもらった。しかし、総会や盆休みのための前倒し進行、引越し騒動などいろいろあって、やっと今になってその資料を眺めてみる気になった。

問題はこれまで急激な右肩上がりの成長を続けてきた同社が、03年以来の“減収減益”を記録したことだ。具体的には、売上高が前年比で320億円(3.9%減)の減収。利益面では、営業利益が同じく65億円(11.6%減)、経常利益が67億円(12.0%減)、当期純利益が53億円(19.4%減)の減益という結果になっている(下の図表参照)。

【マルハンとダイナムの11年3月期実績一覧】 ※( )内は前年同期比

        マルハン         ダイナム
売上高  2兆389億円(▲3.9%)    8530億円(▲0.5%)
営業利益    491億円(▲11.6%)    280億円(▲16.3%)
経常利益    487億円(▲12.0%)    273億円(▲14.7%)
当期純利益   220億円(▲19.4%)    126億円(10.7%)

この要因として同社では、減収については、貸金業法の改正やAPEC開催に伴う入れ替え自粛などによる稼働の大幅低下を挙げた。一方、減益に関しては、利益幅の少ない低貸市場の拡大などを挙げている。つまり、4円パチンコのファン離れと、低貸市場の拡大が、同社の収益構造を激しく圧迫するまでに進行しているということだろう。ではその実態は、どのように変化してきたのだろうか。

見事な飛翔姿で船を追ってくる佐渡の“カモメ軍団”

まず、稼働の推移を見ると、パチンコは09年3月期=3万5728個(前年比287個減)→10年3月期=3万4585個(同1143個減)という減少傾向にあった。そして、11年3月期はさらに3万1242個(同3343個減)という大幅な落ち込みを記録している。一方、パチスロは、09年3月期=1万3934枚(同694枚増)、10年3月期=1万4684枚(同750枚増)、そして11年3月期も1万5066枚(同382枚増)と確実に回復基調にあることが分かる。

このパチンコにおける稼働の大幅低下が、同社ホールの“競争優位性”にも少なからぬ影響を及ぼすことになった。これまで同社のホールは、エリア内で9割以上が地域1番店の地位にあった。それが去年から今年にかけて、いくつかのエリアで他社のホールに1番店の地位を奪われるという現象が起こってきたのだ。

その結果、10年3月期と11年3月期を比べると、地域1番店=93.8%→89.4%(4.4ポイント減)、地域2番店=5.0%→7.9%(2.9ポイント増)、地域3番店=1.2%→2.7%(1.5ポイント増)という比率となった。新店では必ず1番店を取れるわけではなく、既存店では1番店から2番店、2番店から3番店へという他店による“下克上現象”が起こってきたというわけだ。

年間で見ると、8月から11月にかけて、大きな稼働低下現象が起こっている。例年でもこの時期は稼働が落ち込むのだが、前期は前述のAPEC開催による入れ替え自粛が10月から11月にかけて行なわれ、その落ち込み幅をさらに大きくしたようだ。参考までに同社の平均稼働を月別に見ていくと、10年4月=66.0%、5月=64.1%、6月=61.6%、7月=65.4%、8月=62.8%、9月=60.3%、10月=58.5%、11月=55.9%、12月=59.3%、11年1月=62.6%、2月=63.8%、3月=60.3%という流れになっている。とくに、このところ60%の稼働を切ることがなかった同社が、10年10月に58.5%、11月に年度最低の55.9%、12月に59.3%を記録した。

その間の経費の動きを見ると、広告宣伝費は概算で7月=11億円から8月=7億5000万円、9月=6億7000万円、10月=6億1000万円、11月=6億4000万円と絞込み、12月からは10億2000万円くらいに膨らませている。一方、機械入替費は4月から9月まで月に40億円から70億円を掛けていたのが、10月には入れ替え自粛で30億円ほどに減少している。

つまり、ここで何を言いたいのかというと、さすがのマルハンでも新台入れ替えと宣伝広告を抑えれば、確実に稼働は低下してくるということだ。しかも、その落ち込み幅は他社のホールに比べて大きく、競争優位性も低下してくるという数値的なデータが出たのだ。これは個人的に、実に貴重な資料であると思う。

このデータから分るのは、マルハンの“競争優位性”の大きな柱の1つが、大量の機械入れ替えと他社と比べて膨大な宣伝広告費にあったということだ。これまでホール業界自体も大なり小なり、その傾向にあったといえる。資力のあるホールがその資力を機械入れ替えと販促に投入し、稼働を上げていく。その稼働の上昇によって得た利益を顧客還元と新店の店舗展開に投入し、ホールの信用(ブランド)の向上と会社としての規模拡大につなげてきた。

カモメの羽根が持つ美しさには、毎年うっとりとしてしまう

しかし、ファンの消費マインドや資力の低下、さらに今回の広告宣伝規制によって、その“ビジネスモデル”が徐々に崩れ始めているのではないだろうか。その大きな“転換点”を、マルハンの減収減益に見たような気がする。これはマルハンだけの問題ではなく、ホール業界全体に言えることだと思う。現状のファンの実態を踏まえて、これからのホール営業のあり方を根本的に問い直す時期に来ている。それは、ファンをはじめとした業界内の動向だけでなく、行政をはじめとして水面下で進む“業界包囲網”が、そのことを如実に物語っているように思う。もしかしたら、その転換はすでに遅すぎたのかもしれない。

一方、収益構造の変化をもたらしたのは、“低貸営業”の拡大である。4円パチンコの客離れによって、マルハンも低貸へのシフトを強めざるを得なくなったというのが本音だろう。現在、同社の低貸導入店舗は全269店のなかで252店を占め、全体の93.6%にも上っている。北海道、東北エリアの店舗に至っては、すでに全店舗で低貸を導入している。

さらに、全パチンコ台に占める低貸パチンコ台の比率も次第に高くなってきた。08年からの推移を見ると、08年=5.1%、09年=11.9%、10年=18.6%、11年=24.6%。すでに全パチンコ台に対し、1/4のラインを超えようとしている。同社の低貸はほとんどがパチンコであるので、全遊技台数に占める低貸台数の比率は18.2%で、競合店舗の23.4%や15分商圏内の店舗の26.8%よりは低いが、徐々に他店レベルに近づいてきていることが分る。

では、実際に店舗での営業はどのように行なわれているのか。まずは、1店当たり台数比率から見ていくと、11年4月時で4円パチンコ=55%、低貸パチンコ=19%、パチスロ=26%。低貸パチンコは、全遊技台数のほぼ2割を占めるまでになっている。そして、この“低貸パチンコ”はこの2年間で倍増している。09年=10%、10年=15%、11年=19%という急増振りだ。

一方、「4円パチンコ」は09年=67%、10年=63%、11年=55%と激減している。これが同社の減収減益の大きな要因となった、“4円パチンコ離れ”を如実に語る数値データと言える。パチスロは、09年=23%、10年=22%、11年=26%と堅調な回復傾向を辿っている。そして、最も注目すべきその台数比率による11年4月時の稼働比率は、「4円パチンコ」=53%、「低貸パチンコ」=21%、「パチスロ」=26%という実績だった。台数比率と稼働比率を比べると、「4円パチンコ」=-2%、「低貸パチンコ」=+2%、「パチスロ」=±0%。稼働的には「低貸パチンコ」に、まだまだ伸びる余地はある。

こうした結果を見ると、他社よりは持ちこたえたが、さすがのマルハンも“低貸の波”には打ち勝てなかったということを感じる。その“臨界点”を迎えたのが11年3月期の決算であり、それが“減収と大幅利益減”になって現れたと見るべきだろう。パチスロ比率を上げるのか、さらなる経費節減に励むのか、それとも営業形態の根本的な改革に乗り出すのか。いずれにしても大幅な収益構造の見直しが必要なことは確かだ。

気性は獰猛であるが、意外とかわいい目をしている

さらに個人的な意見を述べさせてもらえば、これは“低粗利時代”への完全移行と見ることもできるのではないか。今後は“薄利多売”もしくは“薄利少売”のホール像が、さらに明確になってくると考えている。しかし言ってみれば、これが本来のパチンコホールであって、ファンを大切にすることにつながってくれればと願っている。

そのためには、大型店での進出、新台の大量導入、多大な出費による販促合戦という“店舗間競争”に費やしてきた経費の無駄な部分を互いのホールがカットすること。その分を顧客還元に当て、来店客から信頼され、喜んでもらうという効率化の道を歩んでもらいたい。それが本来のパチンコホールのあり方であり、“顧客本意の営業”はないかと思う。

思えば、パチンコは“突出”しすぎた。それには社会的な背景もあった。遠くはバブル時代、さらにその後のバブル崩壊と社会不安の増大のなかで、国民の“陽と陰のストレス”が高まっていった。そのストレスを解消するために、国民はより強い刺激を求め、パチンコもそれに同調して大きな役割を果たしてきた。そして、その結果として業界は膨れ上がっていった。しかし、最も浮かれていたのは、業界自身だったのではないだろうか。裏舞台から表舞台に立って、本来の自らの姿を見失っていった。

表舞台に立ち続けるのなら、それなりの自覚を持ち、社会的な要請にも応えなければならない。しかし、この業界はそれができなかったし、これからも業界全体として社会を納得させる存在になれそうもないと思わせる事象が次々と露見している。したがって、与えられたテーマをクリアできなかった、もしくはクリアしようともしなかった業界は、手足を縛られて、もとの裏舞台に帰っていくしかない。社会的な要請もその点にある。ついに、“この業界は変われなかった”というのが、残念ながら正直な感想だ。

これからいくつもの試練が襲ってきて、否応なく元の“パチンコ屋”に帰っていく作業が始まる。これからは、その中で地道に顧客を喜ばせていくしか、ホールの生きる道はない。それが本来の“パチンコホールの道”であったのかと近頃、しみじみと思っている。無念さや悔しさは募ってくるが、これがパチンコホールの“運命”であったのかもしれないと感じる昨今だ。近頃、急に冷えてきた秋風が、身に沁みてくるようになった。なお、今回は入れる適当な写真がないので、佐渡からの帰りに撮った海とカモメの写真を入れておく。 (佐渡屋太郎)


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ぱちんこ情熱リーグ⑤-(パチンコ玉三郎亘理店)【佐渡屋太郎-vol.221】

入場式で自店の紹介を行なう「パチンコ玉三郎亘理店」のスタッフ

いまは9月22日(木)の14時25分。昨夜に続き、ブログの原稿を書いている。明日からは3連休が始まるが、その前にこの原稿をやっつけておきたいと思い立った。この3連休は私にとって、大きな転機となる作業が待ち受けている。作業自体は大変であるが、いまからワクワクするほど胸を躍らせているのだ。したがってその作業の前に、この6回連載の記事も終了させて、“心機一転”の感慨をさらに増幅させたいと考えたわけだ。

それに加え、台風15号が通り過ぎてから、大阪はめっきりと涼しくなってきた。そのせいか、これまで疲労の極致にあった体も、やや軽くなってきている。気分も俄然、前向きになってきた。ここで“土砂ダム”のように貯まっている仕事を、堤防に発破を仕掛け、一気に川に押し流してしまおうと企んでいるのである。訳の分からない前フリとなったが、早めに今回のテーマになだれ込んでいくことにする。

さて、この連載もいよいよ最終回となった。始めたのが6月24日だから、すでに3ヵ月が経過してしまった。誠にチンタラとした連載であると、我ながら思う。しかし、第3回ぱちんこ情熱リーグの応募締切りが10月31日なので、出場を迷っているホールには何らかの資料提供ができたのではないだろうか。そうでも思わないとやっていられない。今回も恒例によって、パチンコ雑誌に書いた記事を採録する。

見出しは、「『ありがとう』の溢れる店づくりで業績が2倍増」というものであった。このホールで特筆すべきなのは、経営する玉三郎グループが、参加300店舗のなかで、先の「黒崎店」とこの「亘理店」の2店を、決勝進出5店舗の中に通してきたことだ。確かに、JOY STAGEグループの2店が1チームとして出場するため、2次予選で6位の「亘理店」が繰り上げ出場になったという背景はある。しかし、“運も実力のうち”である。6位に入った実力は大したものだ。2回目のリーグでは「JOY STAGE」の㈲ミヤマ実業と、「パチンコ玉三郎」の玉三郎グループが注目される。では、記事を見ていくことにしよう。

溢れる元気を形に表わした店舗紹介パフォーマンス

最後にプレゼンを行なったのは、宮城県亘理郡の「パチンコ玉三郎亘理店」(総台数=400台)だ。このホールは業績が伸び悩む店舗を買い取り、10年4月にグランドオープンした。スタッフは全員、旧店舗から残ったメンバー。しかし、オープンから1年で、業績は旧店舗に比べて2倍もアップした。では、どこに違いがあるのだろうか。

その要因は、まずオープンに当たり、新台の入れ替えや地域初となる等価交換の導入など、新たな取組みがあった。しかし、データを見ると、常連客の来店回数や滞留時間が増え、新規客も大幅に増加している。この点について昨年11月に赴任した新田悟店長は、「それらのお客様が繰り返し来店してもらえるのは、やはりスタッフによるところが大きい」と分析する。

旧店舗でも顧客との繫がりでは誇れるものがあった。スタッフは皆が素直で、一生懸命に接客を行なってきた。ただ、正式な訓練を受けていないので、個人的な感覚による偏りや荒削りなところがあった。それは常連客には居心地が良くても、新規客には馴染めない点にもなっていた。

舞台上で必死になってプレゼンを行なう「パチンコ玉三郎亘理店」の女性スタッフ

そこで、「ありがとうが溢れる店づくり」をテーマに掲げた。スタッフ1人ひとりがマインド・メディシャン(心の医者)となり、お客様に笑顔を持ち帰ってもらうことを心掛けた。具体的には、①情報発信は大きな文字で表示、②コスプレでお客様を迎える、③レシピの持ち帰りサービス、④顧客の名前や好きな飲み物を覚え、各人に合わせた会話の励行など、1歩進んだ接客に取り組んだのだ。

その結果、来店客からもらった「ありがとう」という言葉は、この1年間で1万8000回に達したという。これが、スタッフの大きな自信と誇りを創り出し、業績アップ実現の背景となった。

ここで記事は終わっている。決勝大会後の懇親会では、たまたま玉三郎グループの隣のテーブルにいたが、三井社長を中心にして出場したスタッフたちは大変な喜びようであった。きっと、決勝大会出場が一人ひとりの生涯における貴重な思い出となり、今後の大きな自信につながったことだろう。また、これまで人材教育や店舗演出、営業手法など様々な改革を行なってきた玉三郎グループにとっては、まさに“面目躍如”といったところだ。

自店の変化を観客に説明する店舗の幹部

こうして決勝大会のプレゼンは終わった。すでにご承知の通り、“パチンコ日本一”に輝いたのは「JOY STAGE」であった。しかし、そのほかにも健闘したホール企業やホールにも表彰が行なわれた。そのなかには読者の住んでいるところに近いホールがあるかもしれない。参考までに、「優秀企業賞」と「優秀店舗賞」も紹介しておこう。

「優秀企業賞」を受賞した3店舗の関係者

【優秀企業賞】
①公楽(岩手県盛岡市)
②プリメール開発(大阪府堺市堺区)
③玉川物産(石川県石川郡)

「優秀店舗賞」を受賞した全国10ホールの代表者

【優秀店舗賞】
①「マックス・ヤナセ」(栃木県宇都宮市)
②「いちえん本舗」(大阪府大阪市港区)
③「ハイパーノースランド八尾店」(富山県富山市)
④「マルハチ古新田店」(岡山県岡山市南区)
⑤「KEIZ江南店」(愛知県名古屋市港南区)
⑥「デルーサ・ザ・マックス」(大阪府大阪市西成区)
⑦「スタジアム2001徳島川内店」(徳島県徳島市)
⑧「まるみつ霧島店」(鹿児島県霧島市)
⑨「パーラー虎王 加古川店」(兵庫県加古川市)
⑩「Gold tamakoshi 玉越 中川店」(愛知県名古屋市中川区)

 全国の名店や強豪店が顔を並べ、まさに“壮観”というほかない。さらに、こうした店舗と競り合って決勝大会に進出した5ホールの凄さを、今更ながらに感じている。今回のリーグ参加がどのホールにとっても、今後の店舗改革の一助になってくれることを祈りたい。と言っている間に、すでに「第3回ぱちんこ情熱リーグ」が動き出している。東北大震災などの影響によって、第2回の決勝大会が延期になったため、これまでとは大きく日程が変動した。

まず、その概要から説明すると、参加店舗数の目標は当初の500店舗から350店舗に引き下げられた。その理由は、規模を拡大するばかりではなく、より実践的な学びの場としてのシフトを強めたことにある。その背景には、このリーグが“ホール日本一”を決める大会であると、表層的に捉えられる傾向が強かったからだ。しかし、理念に掲げられるように、リーグの目標は「共に実践、共に感動、共に成長」することにある。

その改善策として、まず1次審査の期間を前回の3ヵ月から4ヵ月に延長した。その理由は、審査期間中にホール改革を行なうための、時間的な余裕を持たせることにある。具体的には1回目の覆面調査の結果を見て、参加ホールはミーティングを開き、自店の強みと弱みを分析する。さらに配布された「気付きシート」や「感動アップシート」への記入により、スタッフ自身の改善点や顧客が喜ぶ点を明確にしていく。

また、期間中にホール改善の事例や手法を学ぶ勉強会が開催される。こうした方法で、“ホール改革”実践におけるアシストがなされるわけだ。その結果、参加ホールは1次審査の4ヵ月間に、自店の改革に取り組むことになる。過去のリーグにおける参加各ホールでは、実にユニークな改革が実践された。それは通常のセミナーではなかなか得られない、具体的で臨場感に溢れる貴重な情報であった。そんな情報や手法を全参加ホールに公開し、「共に成長」していこうわけである。具体的なスケジュールは以下の通りだ。

●参加エントリー、サポーターの受付期間=2011年7月1日~10月31日
●1次予選=2011年12月1日~2012年3月31日(この間に3回の覆面調査を実施。その成績により上位35店舗が2次審査に進む)
●2次予選=2012年4月1日~4月30日(この間に1回の覆面調査を実施。その結果を1次審査の得点に加算し、上位6店舗が決勝大会に進出)
●決勝大会=2012年7月18日(会場は「メルパルク東京」〈東京都港区〉で、招待客は1500名を予定)

 これでやっと6回の連載が終了した。パチ、パチ、パチ。執筆所要時間は2時間55分。ほとんどが雑誌の記事の切り張り転載である。その間の飲酒量=焼酎水割り5杯。すっかりいい気持ちになってしまった。現在、17時20分。外はまだ明るい。この余勢を駆って、もう1本、原稿を書いてから帰ることにしよう。永らく連載にお付き合いいただき、有難うございました。果たして、読んでいる人はいるのだろうか。第3回目の告知もできたので、これにて“一件落着”としたい。           (佐渡屋太郎)


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