遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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2010年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2010年10月

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佐渡写真日記(その1) 【佐渡屋太郎-vol.186】

写真キャプション=直江津港から佐渡へ向けて出でいく船上からの風景


いまは9月6日(月)の21時12分。前回のブログは超大作になってしまった。しかし、まだ書き足りない気がしている。一方、そろそろパチンコ雑誌の記事を書く時期となった。今日は10月号の準備をしていた。大阪は毎日暑く、猛暑日は過去最多の29日目を記録している。そんな中で夏に佐渡で撮ってきた写真を見ていると、そこはかとない清涼感を感じる。佐渡も確かに暑かったが、海や植物たちに囲まれた生活は、やはり瑞々(みずみず)しかったように思えてしまう。

そこで、これからパチンコ雑誌の原稿書きを乗り越えるためにも、元気の出る佐渡の写真集を作ることを思いついた。これは佐渡屋太郎の私的なもので、私が私を元気付けることを目的としている。もっと言えば、本来なら1つひとつの写真について原稿を書くべきなのだろうが、そんな元気と時間はなくなっている。最低限のキャプションだけ付けて、読者の人にも何とか訳が分かるようにするのが精一杯である。では、個人的に佐渡の世界にどっぷりと浸かることにしよう。

SQ写真/10年9月号② 050


佐渡の小木港に着き、カーフェリー「こがね丸」から次々出てくる車。本来なら8月12日(木)に直江津の佐渡汽船ターミナルで、弟の佐渡屋次郎一家と合流するはずであったが、台風4号のために果たせなかった。佐渡屋次郎は前日の8月11日(水)に佐渡に渡り、私は8月13日(金)に日程を延期した。

SQ写真/10年9月号② 053


大阪から担いでいった机の脚。昨年8月の引越し時に、この足を送るのを忘れてしまった。佐渡でいざ組み立てようとしたときに始めて気づいた。昨年はギター2本を担いで帰ったので、それに比べれば大したしたことはなかったが、電車の棚に上げることができず、置き場所に苦労することになる。幸い、横の席が空いていたので、そこにずっと置かせてもらうことにした。

SQ写真/10年9月号② 055


その結果、1年振りにすべてが合体し、組み立てられた机。私はこうしたことに異常に喜びを感じる。物を修理することも大好きで、直ったときに異常な喜びを感じてしまう。この机は今回、資料整理するときに使った。ちょうどいい天板の大きさで、作業中に不便を感じることはまったくなかった。紆余曲折はあったが、この机もやっと復活して生き返ったと言える。

SQ写真/10年9月号② 059


佐渡で一番おいしいというトンカツ屋に飾られていた豚のフィギア。このほかにももっとあり、その収集癖に感心した。鉄瓶のコレクションもあった。そして、そこで注文したカツ丼も確かにうまかった。こうした執着心の強い人は、料理にも凝るのである。さらに、味噌汁に入っていたとろみのあるギンバ草(海藻)が新たな発見で、帰るときに土産屋で買ってきた。

SQ写真/10年9月号② 061


今年6月に帰ったとき、苦労して直した砂利道。近頃、知らない車の車輪の跡がよく残っているというので、こんなものを置くことになった。多分、電気の検針か何かだろうが、勝手に敷地内に車を乗り入れられるのは気持ちよくない。当初は柱を両脇に打ち込んで、鎖を掛けるという構想だったが、母と弟とホームセンターに買出しに行ったら、弟がちょうどいいものを見つけたので、採用することにした。母親は文字がないものの方がいいと言ったが、こちらの意思を明確に示した方がいいと私が主張してこのような結果となった。弟の佐渡屋次郎は「盗られて困るようなものはないだろう」と言ったが、私の“宝”が畑の家には詰まっている。これは大きな価値観の相違である。

SQ写真/10年9月号② 064


昨年に続き、今年も墓参りに行けなかった。しかし、今年は台風4号の影響で、8月12日(木)に佐渡汽船が欠航したという確たる理由がある。母親はそれでも不機嫌であったが、いくら佐渡屋太郎でも直江津から佐渡まで泳いでは渡れない。仏さんを出迎えには行けなかったが、その代わり“送り”には行ってきた。数年前までは海に流していたが、海が汚れるためそれも禁止となり、海辺の決められた場所に捨てるようになった。それも味気ないというので、我が家では畑の一角で送ることにしている。この写真は少しぼけているのが残念だ。仏さんはキュウリの馬に乗り、ナスの牛を連れてあの世に帰っていくという。我が家には4人の仏さんがいるが、みんな相乗りして天空を駆けていくのであろうか。その姿を想像して1人で楽しんでしまった。

SQ写真/10年9月号② 102


籐ツルとの闘いの前に、母親の命令によって作ったササゲ豆の棚。写真手前が佐渡屋太郎の製作で、写真の向こう側は畑を貸しているプロのおばちゃんの手になるものである。佐渡屋太郎作の方は、1列目と2列目をさらに竹で繋ぎ、補強してある点が見所となる。

SQ写真/10年9月号② 127


その2日後、佐渡での最終日に撮ったササゲ豆の棚。成長の早いものは、しっかりと私の作った棚にツルを巻きつけている。製作者としてはやはり嬉しい。この立派な棚にしがみ付いて、せいぜい大きな豆を実らせてもらいたいものだ。この夏は“ツル”が最大のテーマとなったが、このササゲもマメ科のツル性の植物であった。まさに2010年は“ツル尽くし”の夏となった。

SQ写真/10年9月号② 079


いとこのMが飼っているメダカの水槽。セメントの土管を利用したものだが、水草の感じが何とも風流な趣を感じさせる。写真ではよく見えないが、覗き込むとメダカの大群が気持ちよさそうに泳いでいた。このメダカは、果たして1匹いくらで売れるのであろうか。小さい頃は田んぼの脇の小川にメダカ、タガメ、ミズスマシ、ドジョウ、フナ、ザリガニ、おまけにヒルまでいて、笹船を作って競争もした。あの生ぬるい水の感触と土の匂いが懐かしい。

SQ写真/10年9月号② 089


畑で育っていたコンニャクイモの木。1年もの、2年もの、3年ものがある。一時期、よく母親手作りのコンニャクを食べさせられた。刺身にして味噌ダレを付けて食べるとおいしい。それと父親の手打ちのそばを食べるのが、佐渡へ帰ったときの儀式であった。父親はそのために、そば畑を作り、そばの実を石臼で挽いた。その発端は私が父親の実家で食べた手打ちのそばの味を絶賛したことだった。それが凝り性の父親に火を点けてしまった。そばに関するすべての道具を集め、そばの実まで自分で作るようになってしまった。私もそばに関する本を何冊も送ってやった。今年はスーパーで買ってきたそばを母親がトビウオのダシ作った汁で食べた。それはそれでとてもうまかった。こんなことを言うと、キュウリの馬に乗った父が怒って、この世に引き返してくるかもしれない。(佐渡屋太郎

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| 佐渡屋太郎の徒然日誌 | 11:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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“籐ツルとの闘い”in佐渡【佐渡屋太郎-vol.185】

写真キャプション=佐渡屋太郎が闘った籐ツルの凄まじい寄生の姿


いまは8月27日(金)の21時40分。佐渡から帰ってもうすぐ1週間になる。その間、このブログの原稿も書いたし、月末締め切りの原稿も大きなものは終了した。あとは小さなものをボチボチと書いていけばいい。やっと、長期盆休みを取っていた“ブランク”を何とか埋めることができつつあるという状態まで漕ぎ着けた。これも一重(ひとえ)に、佐渡屋太郎の頑張りの賜物である。

そこでまた佐渡のことが書きたくなった。書きたいことはいくつもあるが、どうしても報告しなければならないことが1つある。それが帰阪後、体の中でずっとグツグツと煮えたぎっていた。ここらで吐き出しておかないと体に悪い。実は昨年の引越しから、私の行くところには必ず、“ハードワーク”が待ち受けている。これも大量のコレクションを守るため、神が与えた“苦行”であると甘んじて引き受けることにしている。その試練は実に辛(つら)いものであるが、佐渡屋太郎はそれに負けることは決してできないのである。

写真キャプション=畑の家で粛々と進められた資料のファイリング作業


今回の佐渡行きでも、やはり飛びっきりの“苦行”が待ち受けていた。最初の3日間は昨年に送った資料のファイリングに没頭していた。その結果、8つのダンボール箱に詰め込んだ様々な資料は分野ごとに分類され、40冊に及ぶファイルとなって棚に収められた。単に箱のなかのものを外に出しただけだという意見もあったが、私にとっては過去を整理する重要な作業であった。中には少し湿った紙もあり、それを風通しのよい外界に取り出してやっただけでも大きな意義があったと思っている。

写真キャプション=ハート型の葉のツルが巻きついていた百日紅の木


その作業が一段落したら、畑の家の周りにある木の“枝打ち”をしろという命令が下っていた。父親の残した“ジャングル植物園”や周りにある竹やぶに入り込んで、徹底的に枝を切り落としてスッキリとさせた。これは割合、楽な作業で私にとっては得意科目であった。しかし、その作業中に妙なものを発見してしまった。ここからは写真と連動していくので、参照していただきたい。最初は百日紅(さるすべり)の木であった。幹をみるとツルが巻きついているのである。見上げると、本来の百日紅とは異なるハート型の葉が、木の全体を覆いつくしていた。つまり、ツルが百日紅の木に“寄生”していたわけだ。

私はこの場合、木の立場になる。ツルに巻きつかれるのは気持ち悪い。また、他人に“寄生”するという生き方も好きではない。人間は誰とも対等であるべきだ。その中で強い者と弱い者が出てくるが、強い者が尊敬できれば師事すればいいし、尊敬できなければ強くなって闘うしかない。私は個人的に、日本や中国やインドは“寄生社会”の典型であると思っている。強い者にはヘイコラして、弱い者に威張り散らす。いわば発展途上国の下級役人のようなもので、私も放浪中に税関や各地の警察に盾(たて)を突いたばかりに、何回も何回も痛い目に遭ってきた。しかし、そのたびに仲間に助けられ、またその仲間を助けるためにさらに痛い目に遭ったりして、かけがえのない経験をさせてもらった。

写真キャプション=百日紅の木から引きずり下ろされたツルの全貌


まず、私はそのハートツルを根元からぶった切り、巻きついたツルを引きずり下ろした。この作業は実に気持ちよかった。自分の体に巻きついた鎖を断ち切るような快感と、その作業によって百日紅の木を生き返らせたという使命感に酔っていた。しかし、そうした目で見ることによって、新たな発見をしてしまったのだ。裏の竹薮は問題がなかった。そのなかで新たな発見と言えば、今は亡き父親はこの竹やぶの中にも、モミジの木を何本も植えていたことだ。多分、ジャングル植物園だけでは足りなくなったのであろう。その執着心には敬服した。そして、畑の家の横の竹薮に足を進めたときに、今回の闘いの発端を見てしまったのである。

写真キャプション=竹薮に覆いかぶさるようにして増殖を続ける籐ツル


以前は杉の木が等間隔にならび、その後ろに椿の木が立ち、それを竹薮が取り囲んでいるという構成だった。植えてから30年以上にもなる杉の木は大きくなり過ぎて、数年前に切り倒された。根元の周囲が1.5mもある立派な大木であった。さぞや高く売れただろうと思ったが、切り倒すのに金を払い、その木を引き取るのであればその引き取り料も要求されたという。母親がいとこのMに相談したら、「何かに使うので木は残しておけ」ということで、いまでも焼却場の横に転がっている。東京のおじさんはその皮を剥いで持ち帰り、小屋根に貼って近所から好評を得ているという。しかし、その横の竹薮が荒れていることは数年前から気付いていた。枯れた竹が絡まり、それこそジャングルのようになっていた。

その横の竹薮の上方を見上げると、竹でも椿でもない葉が生い茂っているのである。それは籐の葉であった。勇気を出して蛇の出そうな竹薮に潜り込んでみると、さらに恐ろしい光景を目にしてしまった。私の太い腕ほどある籐の幹が水道管のように竹薮を縦横に這い、そこから立ち上がった幹が椿や竹に巻きついて、木々の頂上まで這い上がっているのである。それは巨大な“蛇”が、竹薮という“獲物”に必死になって巻きついている“地獄図”であった。チベットでの鳥葬場やインドはガンジス川の向こう岸でいくつもの死体を見てきた佐渡屋太郎ではあるが、その光景には一瞬、立ちすくんでしまった。

写真キャプション=引っ張られて、その姿を顕(あらわ)にしてきた籐のツル


さて、ここで佐渡屋太郎は考えた。この事態をどうすべきか。父親もこの事態は知っていたに違いない。亡くなったのは02年で8年前のことになる。その頃は、まだ籐はこれほどまでに“猛威”を振るっていなかったのかもしれない。しかし、私は見てしまった。これをそのままにして置けるのか。サッカー選手であった弟の佐渡屋次郎は、前の日に兵庫県に帰ってしまった。母親はジャングル植物園の草刈りをしている。「やるしかない」――これがそのときの結論である。その心が決まると、佐渡屋太郎はノコギリを手に“魔の竹薮”に飛び込んでいった。

果たして、この籐ツルとの闘いに勝てるのだろうか。そのときは籐ツルではなく、巨大な“蛇”に立ち向かっていくような気持ちだった。もしかしたら、“蛇”に飲まれるかもしれない。しかし、負けるわけにはいかない。この竹薮を守るのは自分しかいない。その戦いを回避したら、父親が残した“植物の楽園”が、憎き“蛇”に飲み込まれるかもしれない。佐渡屋太郎は父親の残した楽園を守るために、“命”を掛ける決心をした。それがこれまで育ててくれた恩義に応える“道”ではないか。見て見ぬ振りは私にはできなかった。

写真キャプション=竹に巻きついて成長してきた籐ツルの実態


一方、その姿を見た母親は、また馬鹿息子が竹薮に入って、何か訳の分からないことをやっていると思ったようだ。さらに、とうとう気が狂ってしまったかと心配したのかもしれない。「そんなことをして、何になる」という声も、竹薮の中で何度か聞いた。しかし佐渡屋太郎は、やるときはやるのである。目の前でうねる籐の幹を、ノコギリで切りまくった。それは恐怖に駆られた人間が、滅法やたらに刀を振り回すのに似ている。とにかく、目の前に次々に現れる憎き籐の幹を切りまくった。それは一種の“格闘”であった。相手は幸いにして動かなかったが、私に歯向かってくる闘志を感じた。籐も命を絶たれるに当たって、懸命な反撃に出てきたのである。

写真キャプション=次々と竹薮の中から切り出される籐のツル


しかし、私には籐の命を絶つことに、揺るぎない信念があった。それは、先住権を持つ竹や椿を守るという“大義名分”である。さらに、侵略者から“楽園”を守るという父親から付与された使命感である。だから死んでくれと願った。その結果、とうとう闘いは終わった。そして竹薮から出て、そのツルを引きずりおろそうとした。以前のハート型ツルは“茎”であったので、引けばズルズルと落ちてきた。しかし、今回は“幹”であり、ガッチリと竹や椿の幹や枝に絡み付いている。

写真キャプション=竹や椿の天井部から引きずりおろされ、断ち取られていった籐の葉の部分


その絡み付いている“幹”を引っ張ると、大きな椿の木全体が撓(たわ)んでくるような状態だった。そのときは自覚していなかったが、佐渡屋太郎は憎しみによって想像以上の力を発揮したようだ。その反動は恐るべきものだった。1週間後になっても、指や掌は従来の1.5倍くらいに腫れていた。腰は朝になっても自力で起き上がれないくらいの打撃を受けていた。この闘いがどれくらい凄まじいものであったかを物語る1つの証拠であろう。その後、枯れた竹を切って取り出し、椿の木は覆いを取られ、明るく元気な“楽園”に戻った。

写真キャプション=籐とともに切り出された竹の山


その結果、畑の家の横には膨大な量の竹や籐つるが切り出されて山のようになった。佐渡屋太郎はこれで勝負は終わったと安堵していた。勝負は終わり、私は勝ったのである。しかし、母親はその積みあがった残骸を見て、「これをどうするつもりか」と聞いてきた。それは明らかに、私の行動に対して批判的な口調であった。私としては、命を賭けて竹薮を守ってやったと思っていた。一方、母親はいらないことをして、ゴミを積み上げたと思っている。その結果、さらに母親から「この後始末を、私にしろということか」という言葉が投げつけられた。私が味わった巨大な“蛇”と闘う恐怖や、この“楽園”への侵入者を退治した闘いへの苦労に対し、母親の理解は全くなかったのである。

アホな息子も息子だが、物分りの悪い母親も依然として変わっていなかった。しかし、佐渡屋太郎も年を取って幾分、賢くなってきた。そのような考え方があることも分かってきた。腕や足が傷だらけの“満身創痍”で、闘いに全精力を使い果たしてフラフラの状態であったが、対戦相手の死体処理も担当することになった。その処理として、それら残骸を一気に焼くことにした。そして翌日、母親は張り切っていた。この人は焼くことが大好きである。佐渡屋太郎の“焚き火好き”も母から受け継いだDNAかもしれない。

写真キャプション=新たに畑の北側のゴミ捨て場に作られた焼き場


まず、畑の北側にあるゴミ捨て場を焼き場にしようというのは、母親の提案であった。しかし、1ヵ所では足りないので、従来の奥の竹薮横の焼き場も並行して使っていこうというのが私の提案だった。“焼き”に関して意見は一致した。その後、北半分の残骸をゴミ捨て場へ持って行き、南半分にあった籐ツルを従来の焼き場に運んだ。言っておくが、残骸のほとんどを運んだのは佐渡屋太郎である。母親は椅子に座って火の番をしていた。私は長い竹を抱えて畑の間を引きずり、曲がりくねった籐ツルを竹薮沿いに何回も運んだ。猛暑の中でその作業は40回にも及んだ。

写真キャプション=従来からあった奥のやけ藪の横の焼き場で勢いよく燃え上がる籐のツルと竹


しかし、朝の9時から作業を始め、昼の12時には残骸のすべては火の海の中にぶち込まれた。作業自体はつらいが、半日あれば十分に片付くと私は予想していた。一方、母親は作業が意外に早く終わったことに驚いていた。そして最後に、「お前は力があるんだな」とあきれた顔で言った。力があるのではない。ない力を懸命に振り絞ったのである。父親が仮に生きていても、この作業はできなったであろう。どうしても気になれば、いとこのMに頼み込むしかない。Mであれば、チェンソーでぶった切っていくだろう。しかし、巻きついた幹を引き摺り下ろす作業は、機械ではできない。ヘロヘロになって見た“焚き火”は実に壮観であった。竹はもとより、籐もさすがにマメ科である。油分をたっぷりと含み、生木でもゴーゴーという音を立てながら燃え上がった。

写真キャプション=籐の葉を除去され、夏の太陽を一杯に受けて生き返った竹薮


「また、やらされてしまった」――これが今回の1件を乗り切った佐渡屋太郎の感想である。ただ、横の竹薮の全敷地にはまだ潜り込んでいない。まだ、ちらほら籐の葉が見える箇所もいくつかあった。しかし、大元となる幹は切っておいた。翌日に見たら、それらの葉は力なく萎れていた。来年には枯れていることだろう。竹薮は明るく風通しがよくなった。5本あった椿の木も頭に被っていた籐の葉を取り除き、横枝も切ってきれいに整形してやった。夏の日を受けて輝く、これら椿の木のすがすがしく生命力にあふれる姿が、今でも目を閉じると蘇ってくる。椿の木と竹たちを私は救ったのである。皆が「ありがとう」と言いながら、風にそよいでいたような気がした。

写真キャプション=籐のツルを取り除いてやっと全貌を現した椿の木 母に聞くと、竹薮の向こうにある隣の敷地に、確か藤の木があったという。そこの家の田んぼはもう10年以上も休耕田になっている。持ち主も年を取り、藤の木のある田んぼには通わなくなった。その間に、藤の木はどんどんと成長し、我が家の土地に侵入してきたというわけだ。京都にある平安神宮の籐棚は見事で、まさに藤色の花の咲く時期には見に行ったことも何回かある。しかし、つる性の植物はどんどん横に拡がっていく。竹藪も同じだ。人の手によって管理していかないと、とんでもないことになる。今回は“自然の猛威”をいやというほどに見せ付けられた。一方、佐渡から持ってきた盆栽苗は、なかなか根付いてくれない。籐の生命力を見習ってもらいたいものである。

写真キャプション=必死の攻防が展開された竹薮と命を救われた椿の木たち


今回、畑の楽園の全貌を見て回る機会を得た。この他にも、いろんな問題が生じていることだろう。それらをいち早く見つけ、迅速な対処をしていかなければ楽園は維持していけない。その作業はつらいが、楽しくもある。幸い、今回は籐ツルとの戦いに勝つことができた。その細(ささ)やかな自信によって、来年夏の次なる“戦い”が楽しみになってきた。“歯向かうやつは、束になって掛かってこい”というのが今の心境である。私が生きていて、戦意を喪失するまで、この戦いは続いていくことになるだろう。果たして、いつまで勝ち続けていくことができるのだろうか。今回は気合が入り過ぎて、思わぬ超大作になってしまった。毎日、仕事の合間に少しずつ書き進め、すでに3日が経過している。実は、佐渡のことでまだまだ書きたいことが一杯ある。また、ぼちぼち書いていくことにしよう。(佐渡屋太郎)

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