遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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佐渡高校の“甲子園決戦”と野球の思い出【佐渡屋太郎-vol.204】

写真キャプション=中央に黄色で佐渡島の形を彩った佐渡高校応援団


いまは11年3月26日(土)の21時05分。いま佐渡と佐渡屋太郎にとっての、永い1日が終わろうとしている。今日、佐渡高校野球部は確かに甲子園のグランドに立ち、和歌山智弁高校との決戦を行ない、8:1で敗退した。しかし、3塁側アルペンスタンドには、佐渡から来た生徒たちによる1100人を超える応援団と、全国各地から駆け付けた同校のOBや佐渡出身者、さらにその家族など数1000名が集まり、懸命の応援を繰り広げた。

ある報道によると、佐渡の人口6万3000人のうち、5000人が駆けつけたとも書いてあった。このあたりの数のいい加減さは、いかにも佐渡らしくていい。何人かははっきりしないが、とにかく想像を超える“大応援団”だった。それほど、島民や佐渡出身者の期待や激励をしたいという気持ちが大きかったのであろう。試合には負けたが、佐渡高校が甲子園に出場したという事実は、佐渡の歴史にこの日、深く刻まれたのである。その奇跡を起こした佐渡高校野球部のメンバーと、深井浩司監督をはじめ関係者の健闘を称えたい。

写真キャプション=和歌山智弁に全身全霊を掛けて立ち向かった鎌田投手


実はいま、私はこんなことを書いている場合ではない。月末締切りの原稿を4本、合わせて8ページ分を抱えている。そのうち2本は、私が月末と言っているだけで、東京の編集部内では25日締め切りになっているそうだ。だから、佐渡高校の試合が終わって、Y嬢と昼食を摂り、上本町で少し遊んでから、あらゆる誘惑を断ち切って、大阪・難波の事務所に出てきたのである。

しかし、事務所に来てから、興奮で放心状態となり、酒を飲みながら窓の外の夕暮れ風景を1時間も眺めていた。それは春を迎える前の弱々しい光ではあったが、空気が冷たいだけに、緊張感を持った輝きであったような気がする。佐渡高校野球部の今日の戦いを象徴するような夕暮れであった。確かに今日、佐渡の勇士たちが甲子園の土を踏んだ。しかしそれがいま、まるで夢のような気がしてくる。興奮は残っているが、実感がまだ湧いてこない。ただ、その“歴史的な場面”に居合わせることができたことに対し、私は“佐渡人”としての誇りと幸福を感じる。

写真キャプション=佐渡高校野球部の理念を掲げた掛け幕


そして、日が暮れてからブログを見てみると、今月で最高のアクセス数を示していた。少し、踏み込んだ記事を書いたときにはこの3倍以上の数値を上げることもあるが、最近は平凡な記事しか書いていない。不思議に思って、都道府県別の解析を見てみると、東京都に次いで、新潟県が第2位の数値となっている。いつもは、4~5位であるので、これは佐渡の記事を期待する読者の見えざる声であると思った。ただ、今週は25日(金)に記事をアップしているので、通常なら新たに原稿を書く必要がない。

しかし、ここが佐渡屋太郎のアホなところである。今日、撮影した写真データをパソコンに取り込み、ネタに必要な資料をWebで探していたのである。自分のいまの立場を省みず、佐渡ファンのために、新ネタを提供しようと思い立ったのだ。しかしその結果、物凄いことを発見してしまった。以前、佐渡高校野球部のOBに、「日刊スポーツ」の社長がいるということは読んだ記憶がある。佐渡高校は、東京芸大の学長や大阪の民博の館長など、実に偉い人を多く輩出している。だから、そのなかに「日刊スポーツ」の社長がいても、それほど驚くことではない。佐渡高校出身の年老いたおっさんだと思っていた。ところが今日、その人の名前を見て驚いてしまった。

写真キャプション=佐渡人の願いか込められた飾りもの


その人は、中学校の野球部で1年先輩のM君であった。先輩に「君」づけは失礼であろうという意見もあるだろうが、実際に私たち後輩はM先輩を「M君」と呼んでいたのだから仕方がない。ちなみにMは苗字ではなく、名前である。当時、中学3年生のM君がショートで、中学2年生の佐渡屋太郎がファーストであった。何回もM君の投げる球を佐渡屋太郎は受けた。そしてその年に、わがM中学校の野球部は学校創立以来、初めて佐渡の郡大会で優勝し、船で新潟に渡り、新潟地区大会に出場したのである。

いま、酔った私の頭の中には、その頃の思い出が次から次に思い浮かんでくる。地区大会の会場となったのは、巻農業高校のグランドで、近くに豚舎があり、とても臭いがきつかった。宿舎は巻駅前の旅館で、夜中まで隣のビアガーデンから尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が聞こえ、ネオンの光が部屋まで入ってきて、明るくて眠れなかったことを覚えている。遠い昔の出来事である。しかし、M君や佐渡屋太郎がそれほどの実力を持っていたわけではない。ピッチャーであったS君(3年生)が強い“地肩”を持ち、図抜けた剛速球を投げたことが最も大きな勝因であった。

写真キャプション=佐渡高校の女の子も随分と可愛くなった。私のいた頃は、学年に2人くらいしかいなかった


さらに練習もしなかった。その年は、このブログでも前に書いたことがある2年先輩で“野球の鬼”であったT君が卒業し、野球好きの顧問のH先生も転勤になった。ちなみにH先生は私が1年生のときの担任で、クラブをサボると必ず次の日の朝に問い詰められた。だから、T君とH先生がいなくなって、正直みんながホッとした。それまでの厳しい練習から、ダラダラの練習となった。しかし、試合になると不思議な連帯感が生まれた。その結果、前年にあれだけ練習しても1回戦か2回戦で負けていたのに、その年はあれよあれよという間に、気が付いたら佐渡で優勝していたのだ。この構造をいま興味深く考えている。

さらに、地区大会でも面白いことがあった。巻に着いた初日の夜に、街へ散歩に出たらボウリング場を見つけた。当時、佐渡にはボウリング場はなかった。私もそこで生まれて初めてボウリングをした。それがとても面白かったのだ。そのとき、キャプテンのY君が「明日の試合で勝てば、またボウリングができるぞ」と言った。それは凄い発想であったと思う。そして皆がその意見に賛同し、“心”が1つになった。その結果、死に物狂いで戦い、1回戦で勝ち、2回戦でも勝って、夜に旅館をこっそり抜け出して、ボウリングに興じていたのである。

しかし、3回戦の相手は手ごわかった。ここで修正がある。以前、その相手をのちに横田めぐみさんが通うことになる寄居中学校と書いたが、今回ネットで調べてみたら、双葉中学校であることが判明した。“寄居”は私が大学生の頃に同棲していた女の子と、八高線を巡る旅をしていたときに泊まった埼玉県の“寄居”であった。ぼけた頭で混同していた。しかし、横田めぐみさんを思う気持ちは変わらない。その双葉中学校は試合前に、40人くらいの部員が全員、カッコいいユニフォームを着て、グランド一杯に散らばって練習をした。

一方、佐渡のM中学校は補欠を含め、13人しかいない。このとき、中学2年生であった佐渡屋太郎は、初めて“佐渡”というものを自覚したのではないかと思う。田舎者で少人数ではあるが、都会者の大軍勢と戦うのが、“佐渡人”の生まれ持った宿命であると思い知らされた。それは以後の人生において、ずっと付きまとってきたテーマでもあった。では少数の“佐渡人”は弱いのか。決して、そんなことはない。

写真キャプション=甲子園の土の上に立つ先輩たちを必死で応援する後輩たち


佐渡という島は、それに打ち勝つ武器として“佐渡魂”を与えてくれた。“佐渡魂”というとき、私の頭にはいつも冬の外海府の荒れた海が思い浮かんでくる。そこには“波の花”も散っている。“波の花”とは、厳冬の荒波にもまれた海中の植物性プランクトンの粘液が、石鹸状の白い泡を作る特殊な現象だ。佐渡における冬の風物詩でもある。海が荒れた日の海岸沿いの道には、シャボン玉の塊(かたまり)のような“波の花”が舞っているのだ。その姿は悲しいほどに美しい。それほど、冬の佐渡の海は荒れるのである。

“過酷な環境が、強い人間を作る”ということは、真実であったといまの私は確信している。さらに規模を大きくして言えば、“少人数がいかにして大軍に勝てるのか”、または“弱いものがいかにして強いものに勝てるのか”――その課題が佐渡人に課せられている。私が高校生時代に、ずっと考えていたテーマでもある。

これは意外性という意味において、まさにドラマである。すなわち、佐渡人にはドラマチックな生き方しか用意されていないのである。佐渡高校野球部の今後も、その路線を行く以外に、道は用意されていない。逆に言えば、佐渡高校野球部の今後の行く末は、そのまま佐渡人の生き方を象徴しているとも言える。だから、みんなが応援するのだ。今回、佐渡高校野球部が味わったような屈辱は、ほとんどの佐渡人は自分の人生で何回も何回も体験している。

だから、心配することはない。私たち佐渡高校の先輩たちは、そんな屈辱や負けは何回も何回も経験してきた。そのたびに立ち上がって、自分の道を切り拓いてきたのだ。そして、最終的には必ず、勝てるのである。これは酒飲みの佐渡屋太郎が言っては説得力がないが、東京芸大学長の宮田亮平氏や国立民俗学博物館館長の須藤健一氏、さらに日刊スポーツ社長のM君など、偉い先輩たちの生き方が示してくれているのではないだろうか。“勝負は勝つまでやれば、必ず勝てる”――これが佐渡屋太郎の大局観だ。その執念と粘り強さが、佐渡人の特質である。

写真キャプション=甲子園出場にあたり、これまでなかった応援団に名乗りを上げた有志の団長と団員たち


今日は爆酔しながら、良くここまで話を持ってきたと思う。自分でも感心している。前半はどうなることかと思っていた。しかし、最後に言いたいことがある。私の左足の第2指は第3指よりも短い。それは先述した地区大会で、双葉中学校との試合のとき、スパイクで踏まれたためだ。ファーストを守っていたのだから、それも仕方ない。試合中、スパイクの中がネトネトしていた。そして試合が終わってスパイクを脱いだら、白いソックスが真っ赤に染まり、血が滴っていたっていた。そのとき、私は初めて負けて悔しいと思った。

それから、私の左足第2指は成長を止めてしまった。足の爪を切るとき、いつも地区大会のことを思い出す。もう40年近い昔のことだ。その第2指を見るたびに、闘志が湧き上がってくる。当時の佐渡屋太郎は、都会人は汚いと思った。しかし、相手のスパイクを踏んででも、塁に残ろうとする勢いに負けたような気がする。いま思えば新潟も田舎である。そんなことで歴戦を経てきた佐渡人は、決して動じなくなってしまった。(佐渡屋太郎)

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