遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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佐渡高校の敗退とワーネッキーの復活【佐渡屋太郎-vol.191】

写真キャプション=秋の気配を感じさせるベランダの植物


いまは10月29日(金)の18時50分。目下、佐渡屋太郎は“原稿地獄”のなかに嵌(はま)り込んで、身動きが取れない状態にある。これは何回、経験してもつらいものだ。まだ、トンネルの向こうから一筋の光も差し込んでこない。そこで気分転換に、以前から気になっていたわが母校である佐渡高校(新潟2位)の野球の結果を調べてみたら、長野2位の佐久長聖に6-0で完封負けしていた。選手諸君の健闘は称えたいが、実に悔しい。その悔しさがエネルギーとなって、このブログの原稿を書く気になった。

実は以前から、週末あたりにこのブログの原稿も書かなければならないと思っていた。本業の原稿もまだまだ先が永いので、ここらで一服しながらブログの原稿を書くことにしよう。今回は佐渡高校の件から、地獄の中にいる自分を元気付けるためにワーネッキーのことを書いて、1回分として仕上げたいと思っている。したがって、今回もパチンコとは無関係の記事になることを先にお断りしておく。



1つ目の佐渡高校の件に関しては、twitterで断続的に報告をしているので、知っている読者の方も多いと思う。佐渡高校の野球部が高校野球・秋季北信越地区県大会の決勝戦に勝ち上がったことを10月9日、弟の佐渡屋次郎からの電話で知った。翌10日の試合ではこれまで春と秋を合わせると13回も優勝している強豪の日本文理と戦い、残念ながら6-1で負けてしまった。しかし、その県大会で1位から3位までは、北信越大会に出場できる。佐渡屋次郎の友人である佐渡高校野球部OBの推測によれば、北信越大会で最低1勝すれば、“21世紀枠”で春の甲子園に出場できる可能性が高いということであった。

そこで、“21世紀枠”がよく分からなかったので調べてみた。これは10年前から設けられもので、部員不足などの困難を克服したチームや、他校の模範となるチームに出場権が与えられるという。推薦には基本的に各都道府県の秋季新人大会で、参加数が128校以上はベスト16、それ以外の県はベスト8以上のチームとある。これは県大会の成績が2位であるので、十分にクリアしている。あとの条件は「選考基準が曖昧」であるとして非難の声も多いという。

写真キャプション=新記事の中で負けた佐渡高校に関するもの


そこで、過去の選考理由を見ると、佐渡高校野球部OBの見解も満更、希望的観測ではなさそうだ。そのなかで、佐渡高校に当てはまるものをピックアップすると、「部員全員が地元中学出身で地域貢献を果たす」「離島の過酷な条件を克服」「生徒数減少の中で文武両道を徹底」「県内有数の進学校」「地元密着の選手育成」「創立100年を超える文武両道の進学校」などがある。“お情け”で甲子園に行くのもどうかと思うが、居並ぶ強豪校を見ると、そんなことは言っていられない。とにかく、“不可能”の壁をぶち破り、“風穴を開ける”というドラマを佐渡屋太郎は見たいのである。そのパワーの源泉は、私流に言うと“佐渡魂”であり、全国的な共通語で言うと“離島パワー”となる。

つまり、劣悪な条件の中で育った人間ほど、抑圧に耐える力を持っている。その力が抑圧を超えることができたとき、ドラマが生まれる。その“瞬間”を見たいと思う。省みれば、私がインド、チベット、クルド族、韓国、台湾、沖縄に魅かれ、いまパチンコ業界にいるのも、そうした抑圧を撥ね付ける“一揆”を見たかったのかもしれない。ただ、そのドラマが果たされ、いつの間にか改革が日常となり、多くの人がその“意義”を忘れたときに“堕落”が始まる。現実はいろんな問題を日常的に突きつけてきて、その判断の中で最も大切であった“初志”を見失ってしまう。そんな場面も多く見てきた。人間は実にものを忘れやすい。

とくに、それが世代をまたぐときに、抑圧を超えた先人の苦労と決死の覚悟を忘れ、パワーダウンしていく。しかし幾世代か過ぎ、いまの世になって佐渡高校野球部が戦闘の態勢に入っていると思うと、“一揆”好きの佐渡屋太郎の血が騒いでくるのである。強いものに立ち向かっていく。これほどスリルがあって面白いことはない。ただ、相手は強靭である。それをどのように打ち負かしていくのか。これを考えることが実に楽しい。高校時代の佐渡屋太郎は毎日、そんなことばかり考えていたので、こんな人間になってしまった。もっと勉強をすればよかったと、いまでは思っている。

では、その注目の北信越大会で、佐渡高校はどのような戦いを展開したのか。まず、出場する各県代表は、●新潟県=日本文理(1位)、佐渡(2位)、北越(3位)、●富山県=桜井(1位)、新湊(2位)、富山第一(3位)、福岡(4位)、●石川県=金沢(1位)、金沢桜丘(2位)遊学館(3位)、●福井県=敦賀気比(1位)、福井工大福井(2位)、福井商業(3位)、●長野県=東京都市大塩尻(1位)、佐久長聖(2位)、松商学園(3位)という顔ぶれだった。その中で佐渡高校(新潟2位)は佐久長聖(長野2位)と1回戦で戦い、6-0で負けてしまった。結局、北信越大会の順位は、1位=金沢(石川1位)、2位=日本文理(新潟1位)、3位=佐久長聖(長野2位)、遊学館(石川3位)という結果だった。これでは、甲子園出場は極めて難しいと言わねばならない。

しかし、思い続けることによって、勝てる瞬間は必ずやってくる。私も剣道でそのことを何回か経験した。その“瞬間”の感激は、何にも代えがたい貴重な体験と言えるだろう。いつの日か佐渡高校の野球部が、北信越の居並ぶ強敵をことごとく打ち破り、正々堂々と甲子園に出場する日が来ることを信じている。さらに、その日はそれほど遠くないはずだ。そのためには、何回も何回も壁にぶち当たって、跳ね返されることを繰り返さなければならない。その回数が多ければ多いほど、壁を破ったときの感激は大きくなる。

決して諦めてはいけない。勝負は勝つまでやれば、それまでの負けはすべてプラスに転化し、大きな自信をもたらしてくれる。負けたままで諦めれば、一生、“負け犬”で終わってしまう。思いつめたとき、人間にはそれまで想像できなかったような“力”が生まれてくる。とここまで書いて、今日は佐渡高校を“肴”にしながら、自分を元気付けているような気がしてきた。そうだ、私も頑張らなくてはならない。

実は昨日、母親から電話があってTシャツが見つかったという。それは何を隠そう、佐渡高校野球部のTシャツである。夏に佐渡へ帰っているとき、ある店で偶然に佐渡高校の野球部員に会った。どうして分かったかというと、胸に「佐渡高校」とあり、裏に「佐渡から甲子園へ」という文字が書かれていたからだ。そのときカメラを持っていたのに、頼んで写真を撮らせてもらわなかったことを今でも悔やんでいる。そこで弟や母親に頼んで、そのTシャツを売っている店を探し出した。梨と一緒に送ってくれるように頼んだので、まもなく私のもとにやってくる。本来ならそれを着て来春、甲子園へ応援に行くはずであった。しかし今となっては仕方ないので、酒を飲むときに着て、私の強い“念”を佐渡高校野球部に送ることにする。

それとあと1つ、今回の件でいろいろ調べていて、意外なことを発見した。発端は県大会の対戦相手である「日本文理」をウィキペディアで調べたことだ。私が佐渡にいたころ、こんな高校はなかった。なるほど、1984年の設立であった。ついでに佐渡高校も見ることにした。創立は1896年とあり、今年で114年目を迎える。そして、著名な卒業生を見ると本間雅晴(陸軍中将)、北一輝(思想家、中退)、北吉(思想家、評論家、政治家、教育者、北一輝の実弟)までは知っていた。北一輝先生は中退であったようだ。学校は縦に出るより、横に出たほうが大物になると言われている。それから宮田亮平(東京芸術大学学長)も知っている。受験で東京に行くとき、佐渡汽船の船で海を見ながらイルカのイメージが浮かび、それで大家になった。

その次に、須藤健一(文化人類学者、国立民族学博物館館長)とある。この人は知らなかった。実は、10月20日(水)に民博の初代館長であった故梅棹忠夫先生のお別れ会があり、取材に行く予定であった。しかし、結局はドタキャンになったと東京の編集部から連絡があった。こんなことなら、私が佐渡高校の先輩である須藤先生に直接、頼んだ方がよかったのではないかと今になって思う。私は山好き・探検好きでそれを学問にした今西錦司、梅棹忠夫、中尾佐助、西堀栄三郎、伊谷純一郎、石毛直道など一連の人が大好きで、それらの著書をむさぼるように読んだ時期があった。伊谷先生のお別れ会には取材に行っている。

しかし、その憧れの民博の館長が何と佐渡高校の先輩である。これほど嬉しく励まされることはない。立派な先輩を持って幸せを感じる。できたら一度、会って話をしてみたい。そこで著書を調べてみたら、『母系社会構造 サンゴ礁の島々の民族誌』(紀伊国屋書店、1989年)、『オセアニアの人類学 海外移住・民主化・伝統の政治』(風響社、2000年)などがあった。何となく、海と関係がありそうで佐渡人らしいテーマのようにも感じる。これらの本は是非とも読まなくてはならないだろう。さらに論文を見ると、「ヤップの離島支配」「星と波と風と――ミクロネシアの伝統的航海」などがあり、研究の根幹に佐渡で生まれ育ったことが大きく影響している気配を感じてしまう。須藤先生も佐渡高校が甲子園に出場したら、応援にいくのだろうか。

写真キャプション=天井につかえていた手術前のアオワーネッキ-


また、随分と永くなってしまった。早く切り上げないと、本業に影響が出てしまう。2つ目のテーマは、今年7月22日(木)に“ドクトル佐渡屋太郎”が執刀したアオワーネッキ-に関するその後の報告である。その経緯については、遊技租界の【182】と【183】に書いてあるので、知らない人は参照してほしい。簡単に言うと、逞しい成長力によって2メートル近くになったワーネッキーに対し、上半身と下半身を分断して、その両方の命を救うというもっとも困難な手術を佐渡屋太郎は断行したのだ。あれから3ヵ月以上が経過した。さて、結果はどのようになったのであろうか。

写真キャプション=上半身と下半身を分断され直後のワーネッキーの姿


ここで読者の注目を十分に引き付けたい。TVなら迷わず、CMを5本くらい入れているだろう。何を隠そう、両方とも助かって、以前にも増した成長力を発揮しているのである。バンザ~イ!!である。いま、長大な原稿に負けそうになっている佐渡屋太郎は、その2本になったワーネッキーから、大きな“元気”を日々もらっている。しかし、あいつらは大した植物だとつくづく感心する。並外れた生命力を持った化け物だ。心配した私が馬鹿だった。

写真キャプション=見事に復活を果たして、成長を続けるアオワーネッキ-


まず下半身には、いま6ヵ所から新葉が吹き出ている。頭頂部から3つ、幹の最頂部から30cmのところに1つ。これが一番、大きな新芽になっている。さらに、地表部分からも2つの新芽が出て、どんどんと葉を伸ばしている。いきなり、訳の分からない男に頭を切られ、ワーネッキーは驚いたに違いない。その危機感が、残された下半身の全体に指令を出した。その指令内容は、「生き延びるため、新芽を出せ」というものだった。その指令によって6ヵ所から新芽を出すことができるところに、図太い基底部を持つ下半身の力強さがあったということだろう。

写真キャプション=頭頂部から3 ヵ所、幹の上部から1ヵ所の新芽を出した下半身


一方、上半身は最も心配していた。根がない幹をいきなり土に埋めたからだ。いわば無謀で壮大な“挿し木”を決行したのである。果たして、上半身が枯れる前に、切断面から根を出すことができるのか。これが今回の切断手術における最大テーマであった。最初の1ヵ月は何の変化もなかった。生きているのか死んでいるのかも分からない状態だった。きっと、生死の間をさ迷い、必死になって闘っていたことだろう。ただ、葉が変色するとか、幹が腐ってくるとかという“死”の兆候は見られなかった。

写真キャプション=地表部分からも2ヵ所から新芽を出した下半身


そのうち、上半身を見ることに飽きてきた。いつ見ても何の変化もないからだ。その後、水だけはあげていたが、あまり詳細な観察はしていない。2ヵ月を経過するころに、下半身から新芽が吹き出し、最低限の課題はクリアしたことでやや安心した。それからしばらくして、一方の上半身も葉の数が増えているのではないかと思い始めた。さらにその後、しばらくして今まで垂れていた葉が、徐々に持ち上がっていることに気付いた。それが今から20日前のことだ。つまり、2ヵ月と10日で上半身も生き返ったことを確信したのだ。1つの命が2つになって、それぞれ凄い勢いで成長を始めている。そのことがこの上なく嬉しい。

写真キャプション=垂れていた葉が持ち上がり、新葉を出して成長を始めた上半身


いま、幹が曲がっていた上半身を矯正するため、鉢を半回転してこれまでの裏側を太陽の方に向けている。徐々にまるまった背も伸び始めてきた。これまでつかえていた天井の圧迫もなくなり、両方とものびのびと日々を送っている。今回の手術は、私がワーネッキーを助けるために行なったのだが、彼らの生命力によって逆に私が助けられている。いま元気一杯の上半身を見てきたが、私が彼らと初めて出会ったころと、同じ背の高さであることに気付いた。あれから5年が経っている。その時間の流れの中で、私と彼らは“持ちつ持たれつの仲”になってしまった。(佐渡屋太郎)

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秋が“奇跡”を運んできた【佐渡屋太郎-vol.188】

写真キャプション=猛暑の日々が続いても、元気一杯の南方系の植物たち


いまは9月21日(火)の19時30分。昼間は暑いが、夜になるとめっきり秋らしくなった今日この頃である。先週の9月15日(水)から自宅での冷房はストップした。そして、昨夜はベランダで酒を飲みながら虫の声を聞き、さらに植物たちを眺めて楽しい時間を過ごした。この夜の過ごし方は、盆休みで佐渡に帰っていたときと同じだ。大阪と佐渡はちょうど1ヵ月の“季節差”があるようだ。

植物はこの“季節差”や“気温差”を敏感に感じ取る。その変化を私が感じたのは、先週の9月15日(水)であった。南方系のハイビスカスやブーゲンビリア、パキラ、そしてザクロ以外の植物は、多かれ少なかれ猛暑の影響を受けた。とくに今年は「金のなる木」の被害が甚大で、空調の室外機の近くにあった鉢は、葉が黒く焼けてすべて落ちてしまった。生命力は強いので、すでに蘇生してくる兆候が見られ、あまり心配はしていない。ただ、8鉢ある中の3鉢は、幹の先端まで腐っているので予断を許さない状況にあるのは確かだ。

写真キャプション=2ヵ月を経て、ついに新葉を出した淀川の河原から採集してきた木  しかし、9月15日(水)を境にして、状況が一変したのである。私はこの日が、大阪における夏から秋に変わった記念すべき日だと実感した。そして“秋の到来”が佐渡屋太郎に、この上なく嬉しい“奇跡”を運んできてくれたのだ。まず、第1の発見は、今年7月7日(水)に淀川の河原から採集してきた木「淀川1号」(まだ樹名は調べていない)の幹や枝に、若芽が吹いていたことだ。この木は大木の下に生えていた若苗だった。しかし、掘り起こそうとしたら、図太い地下茎で大木とつながっていることが分かった。その地下茎をシャベルで何回も突き刺し、やっと断ち切って持ち帰ってきた。ところがその地下茎が長すぎて鉢に入らず、さらにノコギリで切ってやっとねじ込んだという経緯がある。

写真キャプション=大手術をしたにも関らず、しっかり根付いて生き返った淀川1号


果たして、大木から受け継いだ生命力が、大手術によるダメージに打ち勝つことができるかどうか。それが、大きな問題として「淀川1号」の前に立ちはだかっていた。その間、夏の強い日差しを受けて、1枚1枚と葉を落としていった。しかし、主要な幹の2本は生気のある薄緑色をしていたので、まだ生きていることは確認できた。ただ、このまま葉を落とし続け、幹もついには茶色に変色して死んでいくのではないかという不安は、2ヵ月以上も佐渡屋太郎の心の中にあった。ところが9月15日の朝、幹のいくつか節から薄緑色の芽が出ていることを発見したのだ。

その芽が、1日ごとに増えてきた。さらに芽が葉となり、小枝となってどんどんと伸びていく。それはいままで溜め込んだ力を、一気に噴出すような勢いを感じさせた。私が佐渡に行っている間に、Y嬢が枯れかかっている葉を切り落としたという。私が大阪に帰ってきたとき、残りの葉は2枚になっていた。果たして、それが“蘇生”の刺激になったのだろうか。はたまた季節の変化が、成長を促す契機になったのか。その原因は分からないが、とにかく嬉しい。この木は将来的に、“佐渡屋太郎盆栽コレクション”の中心的な存在になると思っている。その大きな期待を込めて、もっとも日当たりのいい場所に置いている。

SQ写真/10年10月号③ 042  次の“奇跡”はモミジの木(小)であった。これは盆休みに佐渡から持ってきたものだ。畑の家への通路脇に並ぶサツキの木の下から、細い幹を伸ばしていたところを発見した。母親は毎年、サツキの木をバリカン刈りにして丸く仕上げている。このモミジの木(小)はそのバリカン攻撃を受け、頭頂部を切られていた。かわいそうだったので、掘り起こしてきた。6月に帰ったときに持ってきた期待の青モミジの2本は、見事に枯れてしまった。そのリベンジのために、また佐渡から掘り起こしてきたのだ。この青モミジ(小)は3本を1鉢に植え、様子を見ていたら、葉が徐々に枯れてきた。しかし、幹は青さを保っていたので、淡い期待は持っていたのだ。

写真キャプション=ついに待望の葉を出してくれた青モミジ(小)


それが9月15日に見たら、先端部分から新葉を出していたのである。これまで、幹に赤い芽が付いていたのは知っていた。それが次第に大きくなり、ついに葉を出して根付いたことを知らせてくれたわけだ。これは記念すべき一瞬だった。そもそも青モミジは、今回の盆栽苗採集における“原点”となった重要な木である。佐渡で見たその葉の青々とした美しさに感動し、これを大阪でも味わいたいと思ったのが発端だ。それなら、その小さい木を大阪に持って帰って、鉢植えにして育てたらどうか。このアイデアを思いついたとき、私は興奮した。頭の中には太い幹に成長し、淀川からの風を受けて葉をそよがせる堂々とした姿が浮かんできた。これはまさに“盆栽への道”に足を踏み入れた瞬間でもあった。

写真キャプション=大阪に着く前に葉を枯らしてしまったモミジ(大) しかし、現実は甘くなかった。6月に持って帰った2本の木は、次々に葉が枯れ、次第に青かった幹も茶色に変色していった。これは実に悲しいことだった。自分の無力をいやというほど思い知らされた。だから再度の挑戦に、この夏は気合が入っていたのである。しかし、採集してきた青モミジ(大)は、すでに帰りの佐渡汽船の船の中で、葉が枯れ始め、大阪駅に着いたときには、葉はすべて茶色に変色していた。とくに、上新庄までの阪急電車では、皆にジロジロと見られた。枯れ枝を大事そうに抱えているおっさんは、確かに気味が悪いと思う。人にどう思われても構わないが、鉢に入れる前に葉を枯らしたことは、私にとって大きな打撃だった。戦う前に負けてしまったような感じだった。

写真キャプション=奇跡的に蘇生し、上部の枝の先端に赤い芽を付け始めたモミジ(大)


だから、まずモミジ(小)の復活は、ことのほか嬉しかった。今までのマイナスを、一気にプラスに変えたような劇的な瞬間だった。そのとき反射的に、もうあきらめて日陰に置いてあったモミジ(大)の方に視線を移した。遠くから見ると、葉は枯れたままであったが、幹はまだ青い部分がだいぶ残っていた。それが意外な気がして、近づいて細部を見ると、何と上部の枝の先が赤く変色しているではないか。今回の3つの“奇跡”のなかでも、この青モミジ(大)が最も衝撃度が大きかった。それまで死んでしまったと思っていたものが、生き返っていたからだ。

写真キャプション=溜め込んだエネルギーを吐き出して、次々と葉の数を増やしている青モミジ(大)


これまで気に掛かっていたことが、ある日(9月15日)突然に解決し、それが逆に日々の大きな活力になってきている。このほかにも、佐渡から持ってきたツバキが葉を落として裸になっていたが、新芽を出しつつある。これで期待していたものは、ほぼすべて根付いてくれた。今は、それらの成長や変化が面白くてたまらない。春から夏にかけて動きまわった盆栽関係の1件は、秋に入って意外な成果をもたらしてくれた。この場を借りて、蘇生して佐渡屋太郎に感動を与えてくれた淀川1号、青モミジ(小)、青モミジ(大)、椿(大)に、心から感謝の意を捧げたい。今年の秋は、このほかにも何か大きな収穫がありそうだ。(佐渡屋太郎

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佐渡写真日記(その2)【佐渡屋太郎-vol.187】

いまは9月7日(火)の20時20分。前回、新たな試みとして、写真にキャプションを付けていく「佐渡写真日記(その1)」を書いてみたら、意外なほどに簡単に書け、しかも欲求不満を解消して余りある達成感があった。実は佐渡から帰ってきてから、いろんなブログを見る必要に迫られていた。それはある仕事でのことであったのだが、とても勉強になった。義務で書かなければならない人と、そんな条件下でも自分で考え、書くことに楽しみを見出している人たちのブログがあった。その中で考えて書いている人たちのブログは、総じて面白かったし、通して読むと書き手の変化が1つのドラマでもあった。

具体的に言うと、折角、書くという作業をしながら、だんだんやせ細っていく人がいる。その人たちは、途中で書き続けることができなくなり、ブログを中断してしまう傾向が強かった。一方、書くことで自分自身が研ぎ澄まされてくる人もいる。それは自分と向き合っているからで、その変化が実に読者として興味を引き付けられる。何か持っている人は、書くという作業によってどんどん成長していく。模索しながら、次第に自分が求めることを発見していくというドラマが、ブログのなかで実際に展開されているものもあった。

そのなかで、風俗関係のブログに興味を引き付けられた。おそらく、店や自分の宣伝のためのものなのだろう。自分の写真を入れて、前日の出来事やコメントを短く添えたものだ。本数も半端ではなく、1日に2~3本アップしているものもあった。出勤前や客待ちの間に写真を撮ったり、記事を書くのであろう。仕事前の昼食や仕事後のアフターや飲み会の写真もたくさん掲載されていた。そのなかには有名な風俗嬢やニューハーフがいたが、そんな子は自分の見せ方もうまいし、記事も面白い。そうした手際のよさを見ると、さすがに有名になる子は、人を魅きつける何かを持っていると改めて感心した。

その手法を色気抜きでパクったのが、前回の「佐渡写真日記(その1)」であった。写真を11点も載せたのだが、まだ重要な写真が何点も残っている。そこで、間髪を置かずに第2弾をぶち込むことにした。前回は軽めの写真が多かったが、今回はいよいよ佐渡屋太郎の“極私的な世界”に入っていくことにする。個人的には今回の写真の方に格段の思い入れがある。

SQ写真/10年9月号② 090


これは畑の東側の写真である。この一番左の木を見てもらいたい。この畑の敷地において最も大きく、佐渡屋太郎家を象徴する木である。樹齢は少なくとも60年、ひょっとすると100年を超えるのかもしれない。昔、この木は刈り取った稲を干すハゼの木であり、この木を軸に横木を渡して6段のハゼを作った。小学生の頃の佐渡屋太郎は、田んぼから刈り取った稲を一輪車に積み、あぜ道や畑の横を通って、このハゼ場まで運んでくるのが仕事であった。あぜ道から車道に上がる箇所には小川があり、大きな段差になっていた。そこに一輪車が通れるように2枚の板が渡された。勿論、急傾斜なっている。

刈り取った稲の20束を縄で縛って1括(くく)りにして、3~4括りを1輪車に載せる。刈り取ったばかりの稲は水分を含んでいるので、結構重いのである。まず、フラフラしながらあぜ道を通る。そして、渡し板の前で一服して態勢を整え、やや助走を付けながら一気に急斜面を押し上げるのだ。しかし、バランスを崩したり、押し上げ切れなくて、何回も転倒した。皆は稲刈りをしているので、誰も助けてくれない。半ば意地になって佐渡屋太郎は頑張ったのである。その小さい頃の自分の必死な姿を思い浮かべると泣けてくる。

そして、夕方になると皆が総出の稲掛けとなる。女衆は下の1段から3段目に稲を掛ける。男衆は上段のハゼに足を掛けて跨(またが)り、下から放り上げられる稲束を受け取りながら、4~6段目に掛けていくのだ。このハゼの木に乗るのが一番カッコいいのだが、それは父親の役目だった。しかし、一番つらいのが稲を投げ上げる役だ。これは中学の野球部時代、佐渡で優勝した佐渡屋太郎の担当であった。

しかし、何百束も投げ上げるとさすがに疲れてくる。投げ上げた稲束が受け手に届かなくて落ちてくるときは、男としての最大の“屈辱”である。夕食の準備にために女衆が帰ったあと、暗闇の中で父親と稲束を媒介にして取り組んだ“男と男の仕事”であり、“男と男の闘い”でもあった。今は亡き父の寡黙でたくましかった姿を思い浮べると、佐渡屋太郎はまた泣けてくる。少し今日は、飲み過ぎているのかもしれない。そんな思い出がこの木には染み込んでいる。仏さん“送り”もこの木の近くでやった。

正直に言うと、私も息子とこうした“男の闘い”をしてみたかった。そうしたら息子も、もっと根性のある人間になったかもしれない。唯一の闘いは毎年夏に、私が通っていた佐渡の小学校の校庭でやっていた野球だった。あれは息子が中学2年生のときだった。中学1年生からレギュラーで、中学2年生のときに学校創立以来、初めて佐渡の郡大会で優勝し、船に乗って新潟での地区大会へ行き、3回戦で拉致被害者の横田めぐみさんの母校でもある寄居中学校に惜敗したのが、佐渡屋太郎の野球人生である。その佐渡屋太郎が渾身の力を込めて投げたボールを、中学2年生の息子は打ち返し、ホームランとなった。負けるはずのない闘いで負けてしまって、佐渡屋太郎のプライドは痛く傷ついてしまった。しかし、これが“勝負の世界”である。また、別のフィールドで闘いたいと思っている。どこからでも掛かって来いと言いたい(ただし、野球以外にしてほしい)。

SQ写真/10年9月号② 106


さて、気分を変えよう。佐渡には金北山(1,173m)という最高峰がある。その麓(ふもと)に湧き出る水は甘くてうまい。したがって、その清水は行列ができるほどの人気がある。この水で氷を作り、さらに焼酎を割って飲むのが数年前からの私の習慣になっている。私の母親は昔、美人であって、今でもこの清水を汲んできてくれる奇特な人たちがいる。そのお陰で1年中、この清水を飲んでいるようだ。しかし、息子が帰ってきたときくらいは、自ら汲みに行くのである。また、今年も行ってきた。昨年は焼酎「大五郎」の4ℓボトルで10本ほど汲んでいたが、今年は20ℓのタンクを使うようになったようだ。さらに今回、もう1つタンクをホームセンターで買い足し、40ℓを汲んできた。

SQ写真/10年9月号② 107


佐渡といえば魚である。しかし、買う場所によって、倍以上も値段が違う。魚を買うなら「キング」しかない。安いし、種類も豊富だ。刺身が200円台で売っている。その秘密は仕入れのルートにあって、ここでは漁師からの直売システムを採っているという。

SQ写真/10年9月号② 109


壮観である。佐渡の海の豊かを感じさせる。本来、魚はこんな値段であるはずではなかったのだろうか。佐渡の人間は魚をドンドン食べ、カルシウムに満ちた骨太の若者たちに、東京や大阪に大挙して攻め込んできてもらいたい。この値段を見て驚いた人も多いだろう。100円台で新鮮な魚が食べられる。醤油と味醂と酒で煮付ければ、最高の肴になる顔ぶれが勢ぞろいしている。これを食っていれば、誰にも負けない体になる。

SQ写真/10年9月号② 081


さて、今回のテーマの1つである青モミジに突入する。これはいとこのMの庭の片隅にあった青モミジである。地植えなら、このくらいの大きさの頃が可愛いらしい。しかし、これからグングンと大きくなっていくことだろう。何と言っても、この涼やかな姿がいい。しかも、生命力に満ち溢れている。この力を私の鉢植えにもほしい。

SQ写真/10年9月号② 076


今年6月、帰省したときに鉢上げをした青モミジ。何とか生きていてくれた。掘り起こしてすぐ、鉢に入れたのが勝因だろう。同じときに掘り出して大阪に持ってきたものは、2本とも枯れてしまった。しかし、母親に聞くと1度は枯れても、時期になれば生き返ってくるという。その言葉を信じて、まだ枯れ枝を捨て切れないで取ってある。佐渡に帰っていたときは、この庭に椅子を持ち出し、酒を飲みながらこの青モミジを眺めるのが、夜の楽しみだった。涼しい風と虫の声に囲まれ、この枝ぶりの将来像を思い描くのが至福のときで、毎晩2時間~3時間を前庭で過ごしていた。

SQ写真/10年9月号② 175 そして佐渡での最終日、ジャングルの片隅で成長している青モミジを発見した。こんな誰も見ない片隅にいるより、庭に持ってきてその生命力に溢れた姿を多くの人に見てもらった方がいいというのが、佐渡屋太郎の判断であった。しかし、太い地下茎で命を繋いでいたことも、掘り起こすうちに分かってきた。その地下茎を三角スコップで断ち切り、家に持ってきた。しかし、家にあった鉢は小さ過ぎた。そのため、残った地下茎をさらにノコギリで切って、やっと鉢の中に収めることができた。この状態で生き続けていけるかどうか不安である。はっきり言って、切り過ぎだと思っている。しかし、その姿は雄大だった。他の2本がたちまちかすんでしまった。それくらい迫力のある青モミジであった。

SQ写真/10年9月号② 168


また、今回も懲りずに盆栽苗を持ってきてしまった。何としても大阪のベランダで青々として茂る“青モミジ”がほしかった。そのため、また父が残した植物園から“盗掘”をしてしまった。しかし、一番大きな有望株は、大阪に着くまでに葉が枯れ、小さなものも瀕死の状態だった。今回はそのほか、杉と竹の苗なども持ってきた。その経過はこのブログで報告していきたい。竹と杉はいま必死に頑張っている。

SQ写真/10年9月号② 082


さて、いよいよ今回のブログの最後に近づいてきた。すなわち、最高の見せ場である。まず、この写真の中央にある小さな木を見てもらいたい。これは「ネズミサシ」という。この枝をネズミの通り道に置くと嫌がるので、ネズミ除けにしたことからこの名前が付いた。短縮して「ネズ」とも呼ばれる。確かに小さくはあるが、樹齢としては少なくとも30年以上の古木である。主に岩場や尾根などの痩悪地に成育し、成長の遅い木として知られる。根元の平均年輪幅は0.43mm/年であり、その代わり材は緻密で針葉樹林のなかでは最も重い幹比重(0.54)を持つそうだ。盆栽の世界では「杜松(としょう)」という。

SQ写真/10年9月号② 074


その「ネズミサシ」に父親が狂ったのが、私の中学生の終わりから高校生の初めの頃であった。訳の分からない柱を何本も当時、納屋であった裏の家に持ち込み、来る日も来る日もヤスリ掛けをしていた。冬の日、高校から雪の中を自転車で帰ってくると、裸電球の薄暗い中、黙々と柱を磨いていた。私が高校2年生のとき、家を建て替えた。そのとき、初めて姿を現したのが、この「ネズミサシ」の床柱であった。一応、父の職業は学校の教師であったが、山の方の学校にいるときにいろんな人と知り合いになり、この柱や面をもらったのか買ったのかは知らないが、家に持ち込んで来ては磨いていた。定年までの15年間は、木工師か庭師のような生活をしていた。今回、東京のおじさんたちが家に来たとき、この床柱の話題になった。母によると、この床柱は樹齢300年であるという。もうこれだけの木は佐渡にはないのではないかということであった。このほかにも父は何本もの「ネズミサシ」の柱を磨き、知り合いの人たちにあげて喜ばれたそうだ。

その中で一番立派なものを、自分が建てた家の床柱にした。これは父親の人生において、1つの大きなドラマであったと思う。自分が精魂込めて磨いた床柱を、家の中心に据える。これほどの喜びはなかったのではないか。さらに、家長としての威厳も十分に示した。私の評価も一変した。父は家を建てるとき、毎晩のように大工の家に行って話しこんでいた。普段は寡黙であるが、好きなことに関しては非常に社交的になる人間であった。

SQ写真/10年7月号② 112


ただ、惜しまれるのは、仏間の長押(なげし)を通すために、この床柱を削ったことである。そのため、この見事な柱に長押の板が食い込む結果となった。その工事をしたとき父は不在で、大工による勝手な判断であった。それを何回も見て、悲しそうな顔をしていた父の姿を思い出す。これはセンスの問題だ。私が大工だったら、こんなことは間違ってもしない。その大工は、「ネズミサシ」の床柱の価値を分かっていなかったに違いない。

SQ写真/10年7月号② 107


これが裏の家の2階である。以前は、父と母の部屋であった。その天井壁の四方には様々な面が掛けられている。鬼、能面、佐渡の文弥人形、のろま人形、説教人形の面、さらに佐渡屋太郎が昔、土産としてあげたインドのサドゥーや韓国の面も飾ってある。いま佐渡へ帰ると、私はこの部屋で寝ている。約60体の面に睨まれながら、爆酔しながら爆睡している。神経の細い人間は、怖くて寝られないのではなかろうか。

SQ写真/10年7月号② 123


今年の夏は、その中の馬の首の掛け位置がおかしかったので、深夜で酔っているにもかかわらず直してやった。それが気になって眠れなかったからだ。大した親孝行ではないか。父親の未完成を息子が完成させてやったのだ。几帳面な父がなぜこんなことをしたのであろうかと不思議に思う。これで、すべてが収まるとことに収まった。

SQ写真/10年7月号② 124


こうしてみると、私が放浪時代に贈ったインドのサドゥー(修行僧)の面もなかなかのものである。これはヤシの実で作られている。贈った本人が忘れているのに、ちゃんと保管してくれていた。こうした収集癖と保存本能を尊敬する。とにかくやりたいことをやり、その成果をいろんな形で残してくれた父親であった。

SQ写真/10年7月号② 119


そのなかで私が一番好きなのは、この布袋まがいの老僧の木彫りである。これは父が心酔していた山奥に住む老彫り師の作品だ。失敗作で捨てられていたのを父がもらってきて、残りを彫り、懸命に磨いて仕上げたものであるという。その老師は片腕がなかった。足で木を固定し、片手で彫っていたのである。この像にも片手がない。その老師を私は見たことがないが、この像のような人ではなかったかと想像する。一度、大阪に持ってきてテレビの上に置いていたが、この像が「佐渡へ帰りたい」と言ったので、持ち帰ったものだ。やはり片腕の老師は、父の部屋の床の間にいるのが一番似合っている。

SQ写真/10年7月号② 129


今回の2回にわたる写真日記は、私にとって実に意義深いものとなった。“収集癖”の固まりであった父を回顧し、私の“収集の道”が決して間違っていなかったという確信を得ることができた。これらのブログは、主に佐渡方面に強く発信しておきたい。私も父の残したものの良さが、次第に分かるような年齢となった。以前は母のことを書き、今回は父のことを書いたので、私の肩の荷もだいぶ軽くなったような気がする。飲み過ぎでもし私の方が早く死ぬことがあっても、このブログの記事から弔辞を抜粋してもらいたい。死人からの弔辞は採用されないかもしれないが、私が書くべきことはだいたい書いたような気がしている。実に爽快な気分だ。明日からはまた、せっせと収集に励むことにしよう。(佐渡屋太郎)

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佐渡写真日記(その1) 【佐渡屋太郎-vol.186】

写真キャプション=直江津港から佐渡へ向けて出でいく船上からの風景


いまは9月6日(月)の21時12分。前回のブログは超大作になってしまった。しかし、まだ書き足りない気がしている。一方、そろそろパチンコ雑誌の記事を書く時期となった。今日は10月号の準備をしていた。大阪は毎日暑く、猛暑日は過去最多の29日目を記録している。そんな中で夏に佐渡で撮ってきた写真を見ていると、そこはかとない清涼感を感じる。佐渡も確かに暑かったが、海や植物たちに囲まれた生活は、やはり瑞々(みずみず)しかったように思えてしまう。

そこで、これからパチンコ雑誌の原稿書きを乗り越えるためにも、元気の出る佐渡の写真集を作ることを思いついた。これは佐渡屋太郎の私的なもので、私が私を元気付けることを目的としている。もっと言えば、本来なら1つひとつの写真について原稿を書くべきなのだろうが、そんな元気と時間はなくなっている。最低限のキャプションだけ付けて、読者の人にも何とか訳が分かるようにするのが精一杯である。では、個人的に佐渡の世界にどっぷりと浸かることにしよう。

SQ写真/10年9月号② 050


佐渡の小木港に着き、カーフェリー「こがね丸」から次々出てくる車。本来なら8月12日(木)に直江津の佐渡汽船ターミナルで、弟の佐渡屋次郎一家と合流するはずであったが、台風4号のために果たせなかった。佐渡屋次郎は前日の8月11日(水)に佐渡に渡り、私は8月13日(金)に日程を延期した。

SQ写真/10年9月号② 053


大阪から担いでいった机の脚。昨年8月の引越し時に、この足を送るのを忘れてしまった。佐渡でいざ組み立てようとしたときに始めて気づいた。昨年はギター2本を担いで帰ったので、それに比べれば大したしたことはなかったが、電車の棚に上げることができず、置き場所に苦労することになる。幸い、横の席が空いていたので、そこにずっと置かせてもらうことにした。

SQ写真/10年9月号② 055


その結果、1年振りにすべてが合体し、組み立てられた机。私はこうしたことに異常に喜びを感じる。物を修理することも大好きで、直ったときに異常な喜びを感じてしまう。この机は今回、資料整理するときに使った。ちょうどいい天板の大きさで、作業中に不便を感じることはまったくなかった。紆余曲折はあったが、この机もやっと復活して生き返ったと言える。

SQ写真/10年9月号② 059


佐渡で一番おいしいというトンカツ屋に飾られていた豚のフィギア。このほかにももっとあり、その収集癖に感心した。鉄瓶のコレクションもあった。そして、そこで注文したカツ丼も確かにうまかった。こうした執着心の強い人は、料理にも凝るのである。さらに、味噌汁に入っていたとろみのあるギンバ草(海藻)が新たな発見で、帰るときに土産屋で買ってきた。

SQ写真/10年9月号② 061


今年6月に帰ったとき、苦労して直した砂利道。近頃、知らない車の車輪の跡がよく残っているというので、こんなものを置くことになった。多分、電気の検針か何かだろうが、勝手に敷地内に車を乗り入れられるのは気持ちよくない。当初は柱を両脇に打ち込んで、鎖を掛けるという構想だったが、母と弟とホームセンターに買出しに行ったら、弟がちょうどいいものを見つけたので、採用することにした。母親は文字がないものの方がいいと言ったが、こちらの意思を明確に示した方がいいと私が主張してこのような結果となった。弟の佐渡屋次郎は「盗られて困るようなものはないだろう」と言ったが、私の“宝”が畑の家には詰まっている。これは大きな価値観の相違である。

SQ写真/10年9月号② 064


昨年に続き、今年も墓参りに行けなかった。しかし、今年は台風4号の影響で、8月12日(木)に佐渡汽船が欠航したという確たる理由がある。母親はそれでも不機嫌であったが、いくら佐渡屋太郎でも直江津から佐渡まで泳いでは渡れない。仏さんを出迎えには行けなかったが、その代わり“送り”には行ってきた。数年前までは海に流していたが、海が汚れるためそれも禁止となり、海辺の決められた場所に捨てるようになった。それも味気ないというので、我が家では畑の一角で送ることにしている。この写真は少しぼけているのが残念だ。仏さんはキュウリの馬に乗り、ナスの牛を連れてあの世に帰っていくという。我が家には4人の仏さんがいるが、みんな相乗りして天空を駆けていくのであろうか。その姿を想像して1人で楽しんでしまった。

SQ写真/10年9月号② 102


籐ツルとの闘いの前に、母親の命令によって作ったササゲ豆の棚。写真手前が佐渡屋太郎の製作で、写真の向こう側は畑を貸しているプロのおばちゃんの手になるものである。佐渡屋太郎作の方は、1列目と2列目をさらに竹で繋ぎ、補強してある点が見所となる。

SQ写真/10年9月号② 127


その2日後、佐渡での最終日に撮ったササゲ豆の棚。成長の早いものは、しっかりと私の作った棚にツルを巻きつけている。製作者としてはやはり嬉しい。この立派な棚にしがみ付いて、せいぜい大きな豆を実らせてもらいたいものだ。この夏は“ツル”が最大のテーマとなったが、このササゲもマメ科のツル性の植物であった。まさに2010年は“ツル尽くし”の夏となった。

SQ写真/10年9月号② 079


いとこのMが飼っているメダカの水槽。セメントの土管を利用したものだが、水草の感じが何とも風流な趣を感じさせる。写真ではよく見えないが、覗き込むとメダカの大群が気持ちよさそうに泳いでいた。このメダカは、果たして1匹いくらで売れるのであろうか。小さい頃は田んぼの脇の小川にメダカ、タガメ、ミズスマシ、ドジョウ、フナ、ザリガニ、おまけにヒルまでいて、笹船を作って競争もした。あの生ぬるい水の感触と土の匂いが懐かしい。

SQ写真/10年9月号② 089


畑で育っていたコンニャクイモの木。1年もの、2年もの、3年ものがある。一時期、よく母親手作りのコンニャクを食べさせられた。刺身にして味噌ダレを付けて食べるとおいしい。それと父親の手打ちのそばを食べるのが、佐渡へ帰ったときの儀式であった。父親はそのために、そば畑を作り、そばの実を石臼で挽いた。その発端は私が父親の実家で食べた手打ちのそばの味を絶賛したことだった。それが凝り性の父親に火を点けてしまった。そばに関するすべての道具を集め、そばの実まで自分で作るようになってしまった。私もそばに関する本を何冊も送ってやった。今年はスーパーで買ってきたそばを母親がトビウオのダシ作った汁で食べた。それはそれでとてもうまかった。こんなことを言うと、キュウリの馬に乗った父が怒って、この世に引き返してくるかもしれない。(佐渡屋太郎

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| 佐渡屋太郎の徒然日誌 | 11:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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“籐ツルとの闘い”in佐渡【佐渡屋太郎-vol.185】

写真キャプション=佐渡屋太郎が闘った籐ツルの凄まじい寄生の姿


いまは8月27日(金)の21時40分。佐渡から帰ってもうすぐ1週間になる。その間、このブログの原稿も書いたし、月末締め切りの原稿も大きなものは終了した。あとは小さなものをボチボチと書いていけばいい。やっと、長期盆休みを取っていた“ブランク”を何とか埋めることができつつあるという状態まで漕ぎ着けた。これも一重(ひとえ)に、佐渡屋太郎の頑張りの賜物である。

そこでまた佐渡のことが書きたくなった。書きたいことはいくつもあるが、どうしても報告しなければならないことが1つある。それが帰阪後、体の中でずっとグツグツと煮えたぎっていた。ここらで吐き出しておかないと体に悪い。実は昨年の引越しから、私の行くところには必ず、“ハードワーク”が待ち受けている。これも大量のコレクションを守るため、神が与えた“苦行”であると甘んじて引き受けることにしている。その試練は実に辛(つら)いものであるが、佐渡屋太郎はそれに負けることは決してできないのである。

写真キャプション=畑の家で粛々と進められた資料のファイリング作業


今回の佐渡行きでも、やはり飛びっきりの“苦行”が待ち受けていた。最初の3日間は昨年に送った資料のファイリングに没頭していた。その結果、8つのダンボール箱に詰め込んだ様々な資料は分野ごとに分類され、40冊に及ぶファイルとなって棚に収められた。単に箱のなかのものを外に出しただけだという意見もあったが、私にとっては過去を整理する重要な作業であった。中には少し湿った紙もあり、それを風通しのよい外界に取り出してやっただけでも大きな意義があったと思っている。

写真キャプション=ハート型の葉のツルが巻きついていた百日紅の木


その作業が一段落したら、畑の家の周りにある木の“枝打ち”をしろという命令が下っていた。父親の残した“ジャングル植物園”や周りにある竹やぶに入り込んで、徹底的に枝を切り落としてスッキリとさせた。これは割合、楽な作業で私にとっては得意科目であった。しかし、その作業中に妙なものを発見してしまった。ここからは写真と連動していくので、参照していただきたい。最初は百日紅(さるすべり)の木であった。幹をみるとツルが巻きついているのである。見上げると、本来の百日紅とは異なるハート型の葉が、木の全体を覆いつくしていた。つまり、ツルが百日紅の木に“寄生”していたわけだ。

私はこの場合、木の立場になる。ツルに巻きつかれるのは気持ち悪い。また、他人に“寄生”するという生き方も好きではない。人間は誰とも対等であるべきだ。その中で強い者と弱い者が出てくるが、強い者が尊敬できれば師事すればいいし、尊敬できなければ強くなって闘うしかない。私は個人的に、日本や中国やインドは“寄生社会”の典型であると思っている。強い者にはヘイコラして、弱い者に威張り散らす。いわば発展途上国の下級役人のようなもので、私も放浪中に税関や各地の警察に盾(たて)を突いたばかりに、何回も何回も痛い目に遭ってきた。しかし、そのたびに仲間に助けられ、またその仲間を助けるためにさらに痛い目に遭ったりして、かけがえのない経験をさせてもらった。

写真キャプション=百日紅の木から引きずり下ろされたツルの全貌


まず、私はそのハートツルを根元からぶった切り、巻きついたツルを引きずり下ろした。この作業は実に気持ちよかった。自分の体に巻きついた鎖を断ち切るような快感と、その作業によって百日紅の木を生き返らせたという使命感に酔っていた。しかし、そうした目で見ることによって、新たな発見をしてしまったのだ。裏の竹薮は問題がなかった。そのなかで新たな発見と言えば、今は亡き父親はこの竹やぶの中にも、モミジの木を何本も植えていたことだ。多分、ジャングル植物園だけでは足りなくなったのであろう。その執着心には敬服した。そして、畑の家の横の竹薮に足を進めたときに、今回の闘いの発端を見てしまったのである。

写真キャプション=竹薮に覆いかぶさるようにして増殖を続ける籐ツル


以前は杉の木が等間隔にならび、その後ろに椿の木が立ち、それを竹薮が取り囲んでいるという構成だった。植えてから30年以上にもなる杉の木は大きくなり過ぎて、数年前に切り倒された。根元の周囲が1.5mもある立派な大木であった。さぞや高く売れただろうと思ったが、切り倒すのに金を払い、その木を引き取るのであればその引き取り料も要求されたという。母親がいとこのMに相談したら、「何かに使うので木は残しておけ」ということで、いまでも焼却場の横に転がっている。東京のおじさんはその皮を剥いで持ち帰り、小屋根に貼って近所から好評を得ているという。しかし、その横の竹薮が荒れていることは数年前から気付いていた。枯れた竹が絡まり、それこそジャングルのようになっていた。

その横の竹薮の上方を見上げると、竹でも椿でもない葉が生い茂っているのである。それは籐の葉であった。勇気を出して蛇の出そうな竹薮に潜り込んでみると、さらに恐ろしい光景を目にしてしまった。私の太い腕ほどある籐の幹が水道管のように竹薮を縦横に這い、そこから立ち上がった幹が椿や竹に巻きついて、木々の頂上まで這い上がっているのである。それは巨大な“蛇”が、竹薮という“獲物”に必死になって巻きついている“地獄図”であった。チベットでの鳥葬場やインドはガンジス川の向こう岸でいくつもの死体を見てきた佐渡屋太郎ではあるが、その光景には一瞬、立ちすくんでしまった。

写真キャプション=引っ張られて、その姿を顕(あらわ)にしてきた籐のツル


さて、ここで佐渡屋太郎は考えた。この事態をどうすべきか。父親もこの事態は知っていたに違いない。亡くなったのは02年で8年前のことになる。その頃は、まだ籐はこれほどまでに“猛威”を振るっていなかったのかもしれない。しかし、私は見てしまった。これをそのままにして置けるのか。サッカー選手であった弟の佐渡屋次郎は、前の日に兵庫県に帰ってしまった。母親はジャングル植物園の草刈りをしている。「やるしかない」――これがそのときの結論である。その心が決まると、佐渡屋太郎はノコギリを手に“魔の竹薮”に飛び込んでいった。

果たして、この籐ツルとの闘いに勝てるのだろうか。そのときは籐ツルではなく、巨大な“蛇”に立ち向かっていくような気持ちだった。もしかしたら、“蛇”に飲まれるかもしれない。しかし、負けるわけにはいかない。この竹薮を守るのは自分しかいない。その戦いを回避したら、父親が残した“植物の楽園”が、憎き“蛇”に飲み込まれるかもしれない。佐渡屋太郎は父親の残した楽園を守るために、“命”を掛ける決心をした。それがこれまで育ててくれた恩義に応える“道”ではないか。見て見ぬ振りは私にはできなかった。

写真キャプション=竹に巻きついて成長してきた籐ツルの実態


一方、その姿を見た母親は、また馬鹿息子が竹薮に入って、何か訳の分からないことをやっていると思ったようだ。さらに、とうとう気が狂ってしまったかと心配したのかもしれない。「そんなことをして、何になる」という声も、竹薮の中で何度か聞いた。しかし佐渡屋太郎は、やるときはやるのである。目の前でうねる籐の幹を、ノコギリで切りまくった。それは恐怖に駆られた人間が、滅法やたらに刀を振り回すのに似ている。とにかく、目の前に次々に現れる憎き籐の幹を切りまくった。それは一種の“格闘”であった。相手は幸いにして動かなかったが、私に歯向かってくる闘志を感じた。籐も命を絶たれるに当たって、懸命な反撃に出てきたのである。

写真キャプション=次々と竹薮の中から切り出される籐のツル


しかし、私には籐の命を絶つことに、揺るぎない信念があった。それは、先住権を持つ竹や椿を守るという“大義名分”である。さらに、侵略者から“楽園”を守るという父親から付与された使命感である。だから死んでくれと願った。その結果、とうとう闘いは終わった。そして竹薮から出て、そのツルを引きずりおろそうとした。以前のハート型ツルは“茎”であったので、引けばズルズルと落ちてきた。しかし、今回は“幹”であり、ガッチリと竹や椿の幹や枝に絡み付いている。

写真キャプション=竹や椿の天井部から引きずりおろされ、断ち取られていった籐の葉の部分


その絡み付いている“幹”を引っ張ると、大きな椿の木全体が撓(たわ)んでくるような状態だった。そのときは自覚していなかったが、佐渡屋太郎は憎しみによって想像以上の力を発揮したようだ。その反動は恐るべきものだった。1週間後になっても、指や掌は従来の1.5倍くらいに腫れていた。腰は朝になっても自力で起き上がれないくらいの打撃を受けていた。この闘いがどれくらい凄まじいものであったかを物語る1つの証拠であろう。その後、枯れた竹を切って取り出し、椿の木は覆いを取られ、明るく元気な“楽園”に戻った。

写真キャプション=籐とともに切り出された竹の山


その結果、畑の家の横には膨大な量の竹や籐つるが切り出されて山のようになった。佐渡屋太郎はこれで勝負は終わったと安堵していた。勝負は終わり、私は勝ったのである。しかし、母親はその積みあがった残骸を見て、「これをどうするつもりか」と聞いてきた。それは明らかに、私の行動に対して批判的な口調であった。私としては、命を賭けて竹薮を守ってやったと思っていた。一方、母親はいらないことをして、ゴミを積み上げたと思っている。その結果、さらに母親から「この後始末を、私にしろということか」という言葉が投げつけられた。私が味わった巨大な“蛇”と闘う恐怖や、この“楽園”への侵入者を退治した闘いへの苦労に対し、母親の理解は全くなかったのである。

アホな息子も息子だが、物分りの悪い母親も依然として変わっていなかった。しかし、佐渡屋太郎も年を取って幾分、賢くなってきた。そのような考え方があることも分かってきた。腕や足が傷だらけの“満身創痍”で、闘いに全精力を使い果たしてフラフラの状態であったが、対戦相手の死体処理も担当することになった。その処理として、それら残骸を一気に焼くことにした。そして翌日、母親は張り切っていた。この人は焼くことが大好きである。佐渡屋太郎の“焚き火好き”も母から受け継いだDNAかもしれない。

写真キャプション=新たに畑の北側のゴミ捨て場に作られた焼き場


まず、畑の北側にあるゴミ捨て場を焼き場にしようというのは、母親の提案であった。しかし、1ヵ所では足りないので、従来の奥の竹薮横の焼き場も並行して使っていこうというのが私の提案だった。“焼き”に関して意見は一致した。その後、北半分の残骸をゴミ捨て場へ持って行き、南半分にあった籐ツルを従来の焼き場に運んだ。言っておくが、残骸のほとんどを運んだのは佐渡屋太郎である。母親は椅子に座って火の番をしていた。私は長い竹を抱えて畑の間を引きずり、曲がりくねった籐ツルを竹薮沿いに何回も運んだ。猛暑の中でその作業は40回にも及んだ。

写真キャプション=従来からあった奥のやけ藪の横の焼き場で勢いよく燃え上がる籐のツルと竹


しかし、朝の9時から作業を始め、昼の12時には残骸のすべては火の海の中にぶち込まれた。作業自体はつらいが、半日あれば十分に片付くと私は予想していた。一方、母親は作業が意外に早く終わったことに驚いていた。そして最後に、「お前は力があるんだな」とあきれた顔で言った。力があるのではない。ない力を懸命に振り絞ったのである。父親が仮に生きていても、この作業はできなったであろう。どうしても気になれば、いとこのMに頼み込むしかない。Mであれば、チェンソーでぶった切っていくだろう。しかし、巻きついた幹を引き摺り下ろす作業は、機械ではできない。ヘロヘロになって見た“焚き火”は実に壮観であった。竹はもとより、籐もさすがにマメ科である。油分をたっぷりと含み、生木でもゴーゴーという音を立てながら燃え上がった。

写真キャプション=籐の葉を除去され、夏の太陽を一杯に受けて生き返った竹薮


「また、やらされてしまった」――これが今回の1件を乗り切った佐渡屋太郎の感想である。ただ、横の竹薮の全敷地にはまだ潜り込んでいない。まだ、ちらほら籐の葉が見える箇所もいくつかあった。しかし、大元となる幹は切っておいた。翌日に見たら、それらの葉は力なく萎れていた。来年には枯れていることだろう。竹薮は明るく風通しがよくなった。5本あった椿の木も頭に被っていた籐の葉を取り除き、横枝も切ってきれいに整形してやった。夏の日を受けて輝く、これら椿の木のすがすがしく生命力にあふれる姿が、今でも目を閉じると蘇ってくる。椿の木と竹たちを私は救ったのである。皆が「ありがとう」と言いながら、風にそよいでいたような気がした。

写真キャプション=籐のツルを取り除いてやっと全貌を現した椿の木 母に聞くと、竹薮の向こうにある隣の敷地に、確か藤の木があったという。そこの家の田んぼはもう10年以上も休耕田になっている。持ち主も年を取り、藤の木のある田んぼには通わなくなった。その間に、藤の木はどんどんと成長し、我が家の土地に侵入してきたというわけだ。京都にある平安神宮の籐棚は見事で、まさに藤色の花の咲く時期には見に行ったことも何回かある。しかし、つる性の植物はどんどん横に拡がっていく。竹藪も同じだ。人の手によって管理していかないと、とんでもないことになる。今回は“自然の猛威”をいやというほどに見せ付けられた。一方、佐渡から持ってきた盆栽苗は、なかなか根付いてくれない。籐の生命力を見習ってもらいたいものである。

写真キャプション=必死の攻防が展開された竹薮と命を救われた椿の木たち


今回、畑の楽園の全貌を見て回る機会を得た。この他にも、いろんな問題が生じていることだろう。それらをいち早く見つけ、迅速な対処をしていかなければ楽園は維持していけない。その作業はつらいが、楽しくもある。幸い、今回は籐ツルとの戦いに勝つことができた。その細(ささ)やかな自信によって、来年夏の次なる“戦い”が楽しみになってきた。“歯向かうやつは、束になって掛かってこい”というのが今の心境である。私が生きていて、戦意を喪失するまで、この戦いは続いていくことになるだろう。果たして、いつまで勝ち続けていくことができるのだろうか。今回は気合が入り過ぎて、思わぬ超大作になってしまった。毎日、仕事の合間に少しずつ書き進め、すでに3日が経過している。実は、佐渡のことでまだまだ書きたいことが一杯ある。また、ぼちぼち書いていくことにしよう。(佐渡屋太郎)

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