遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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前回の原稿に関する落とし前 【佐渡屋太郎-vol.31】

写真キャプション1=うるさいパキスタンの人々

 いまは12月5日(水)の18時35分。実は昨夜の21時、2ページの原稿を何とか片付けたので、しばしの開放感を味わっているところだ。しかし、このブログのストック原稿がなかなか貯まらない。前回の12 月2日(日)がストックの格好のチャンスだったのだが、アホな佐渡屋太郎は酒を飲みながら、昔の“放浪時代の思い出“にハマってしまった

 ちなみにそのお詫びとして、私は昔の写真を探し出して持ってきた。今回はパキスタンの南部にある“魔のバルチスタン砂漠”を、バスで越えたときのものを掲載することにした。そのオンボロバスには、パキスタンから追われたアフガン難民も乗っていた。難民の一族はモンゴル系のカザフ族で、私も同族だと思っていたらしい。

 そのナベ・カマを持った一族と一緒に、戦時であったイランのボーダーを越えた。しかし、あの国境の街は、ゾクゾクするくらいスリルのある“租界”であった。(写真キャプション1=うるさいパキスタンの人々、2=ラクダと暮らす土漠の家族、3=メッカに向かって定時のお祈りをするバスの乗客)


写真キャプション2=ラクダと暮らす土漠の家族

 12月2日(日)に書いた原稿は結局1本だけで、それも訳の分からない支離滅裂なものになってしまった。今週の12月3日(月)にたまたま “猪八戒”と飲むことになったのだが(と言いながら、私たちは事あるごとに飲んでいる)、あいつも“一体どうしたんですか”と心配していた。私も本当はあの原稿を “没”にしたかった。しかし、ストック原稿がない悲しさで、“無慈悲な”猪八戒に翌日早々、アップされてしまったのだ。

 それなら早く新しい原稿を書いて、あの原稿をトップページの下に降ろそうと思っていた。しかし、先に触れた2ページの原稿に追われてそれどころではなかったのである。そして、やっと今日になってその時間が取れたというわけだ。そこでまず、前回の原稿の“落とし前”をつけなければならない。

 まず、中村哲医師の件だが、これについては私より皆さんの方が良く知っているのではないだろうか。中村氏は1946年生まれの福岡県出身で、県立福岡高校を経て九州大学医学部を卒業した。母方の叔父は小説家の日野葦平、さらに祖父は北九州・若松で海運業「玉井組」を営んだ玉井金五郎である。まさに日野氏が書いた『花と龍』(映画では高倉健と藤純子が主演。少し古すぎたかな~)の世界が生んだ落とし子とも言える。

 父は戦前の筋金入りの闘士、リベラリストで国粋主義者であった中村勉氏。このあたりでわが北一輝先生と結びつく。その父が息子に対して、耳にタコができほど言い聞かせていた言葉がある。それは「早く大きくなって、日本の役に立つ人間なれ。お前は親を捨ててもいい。世の中のためになる人間になれ」――という名言である。これで私はグッときた。

 中村氏は身長わずか160cm、体重56kgの小兵である。本来は精神科医であるのだが、福岡登高会のヒンズークシュ(ティリチ・ミール峰、7708m)遠征の登山隊付き医師として78年にパキスタンに行ったとき、山村で私宅監置されたハンセン氏病患者を見た。それが中村氏をパキスタンに引き付けたのである。

 『ドクター・サーブ』のなかで、その理由を著者の丸山氏は探し求めた。しかし、自分のことを語りたがらない中村氏からは、その背景について納得のいく答えは得られなかった。最も近い回答は、「医者の“仁義”がそうさせた」という言葉だった。「医者であれば、1番必要とされるところで喜ばれるのが、本望というものでしょう。(だから)なんべん考えても、ほかに選びようがなかった」とも語っている。
 
 それが契機になり、幾多の紆余曲折を経て、現在は「ペシャワール会」(現在の会員=約1万2500人)の支援により、パキスタン北西辺境州とアフガニスタンに、1病院と4診療所を運営している。年間の診療患者は16万人(03年度)に上る。また、00年夏からは旱魃に見舞われたアフガニスタンの村々に、1000ヵ所以上の水源(井戸・カレーズ)の確保作業も継続して行なっている。

 ただ、そこまでの過程はまさに波乱に次ぐ波乱の連続であった。まず中村氏は84年5月、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)の派遣ワーカーとして、「ペシャワール・ミッション・ホスピタル」に赴任する。その派遣を前に83年9月、支援組織の「ペシャワール会」は福岡市で発足した。

 一方、隣国アフガンでは79年10月のソ連軍の進攻を契機に、共産政府対ゲリラ勢力、さらに部族抗争による“内戦”が続いていた。そのアフガンから流入する難民の窮状をみて中村氏は86年暮れ、日本側の援助を仰ぎながら、アフガン人によるアフガン人ハンセン氏病患者のための医療チーム「ALS」(アフガン・レプローシー・サービス)を立ち上げる。

 2年後の88年には「ALS」を発展改組し、難民すべてを対象にした医療組織「JAMS」(ジャパン・アフガン・メディカル・サービス)の旗揚げとなった。やがて事態は変化し、88年5月からソ連軍の撤退が始まり、翌89年2月をもって完了する。このあとに起こったのが、アフガンの“復興援助”という名のカネのバラまき合戦だ。最大の援助資金拠出国は日本で、その額は60億ドルだった。

 その一方で、中村氏はアフガン国内への診療所開設を精力的に進めていった。91年=ダラエ・ヌール診療所、92年=ダラエ・ピーチ診療所、94年=ワマ診療所で、パキスタン北西辺境州北部のラシュット診療所を合わせれば4つの診療所ができた。しかし、本拠であった「ペシャワール・ミッション・ホスピタル」で異変が勃発することになる。

 まず同ホスピタルの病院長はハンセン氏病棟を、欧米ミッション団体からの寄付金集めの道具としか思っていなかった。結局、中村氏は病院から追い出され、病棟のパキスタン医療チームを連れて「JAMS」本部に身を寄せる。しかし、ここも名声を得るようになったアフガンスタッフが100名以上の一大勢力となっており、パキスタン医療チームを蔑視するのだ。設立当時の初心を忘れた“変質”と言うしかない。カネと名誉が人間を変えてしまったのだ

 そこで中村氏は自分が作った「JAMS」とも、袂を分かつことになる。そして、パキスタン医療チームと「JAMS」の古参メンバー数名を引き連れて、「PLS(ペシャワール・レプロシー・サービス)医院」をスタートする。このとき、中村氏は“自前で統合病院を建設する”という決心をする。そして「PLS」と「JAMS」を統合し、すべてをペシャワール会直轄とする新組織「PMS」ペシャワール会・メディカル・サービス)を設立するに至るのである。

 そして94年に発案したこのプランは、96年から建設が始まり、98年4月にはついに「PMS統合病院」が開院する。敷地が約2000坪で、その半分の土地に造られた地上2階、地下1階の白亜の病院である。しかし、読めば読むほどタフな人間である。また、「ペシャワール会」もよく中村氏の活動を支えてきたと思う。本人は単純なストーリー化を嫌うそうだが、これは誰が見ても“一大事業”と言うしかないだろう。

 やっと、ここまで書き上げた。この本は話が入り組んでいるので、それを整理するのはひと仕事だった。お陰で私自身がこれまでの経過がよくわかった。これは飲みながらでは書けない。これで、前回の不明点の1つが分かってもらえたと思う。実はあと1つあるのだが、またいつものように原稿量が1回分を超えてしまった。続きは次回にして、ストック原稿を増やすことにしよう。

 挿入写真は昔、私がアジアからヨーロッパあたりをうろついていた頃のものを使うことにする。懐かしいな~、実に懐かしい。また、飲みたくなってきた。
佐渡屋太郎


写真キャプション3=メッカに向かって定時のお祈りをするバスの乗客


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