遊技租界 『佐渡屋太郎のパチンコ商売道日記』

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アフガン人のゾウのこと(前篇)

写真1=これが話題のアフガン人・ゾウである いまは12月6日(木)の20時20分。今日、このブログを開いてみて、ビックリしてしまった。トップページに何と「新垣結衣」の写真が載っているではないか。てっきりページを間違えたのかと思いながら、じっくり見入ってしまった。この写真には、凄い威力があることを実感した。一方、遊技租界はオトコ2人でやっているので、むさ苦しくていけない。やっぱり色気が必要だ、色気が……。色気を持ってこい!!。猪八戒!ソコントコ、何とかせんかい!

 そのお返しと言うわけではないが、逆にむさ苦しい写真をお目に掛けよう(写真1参照)。これが、前々回の原稿で訳の分からない叫びを上げてしまった「ゾウ」である。そう、今回も前々回の原稿の説明をするために書いている。彼はれっきとしたアフガニスタン人である。“イヤらしそうな印象”を多くの人が持つだろうが、まさに正解。彼は実際、“イヤらしい”のである。

 無類の女好きではあったが、実にいいヤツだった。最初に出会ったのが、インドの北にある「ダラムサラ」という山間の町だった。インドに詳しい人なら知っているように、この町にはチベットの亡命政府がある。私もここで、チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世と握手をさせてもらった。インデラ・ガンジーの父・ネルー首相が、チベットを逃れたダライ・ラマ14世にために用意してくれた土地でなのである。

 しかし、この町には松が生えていることでも分かるように、標高が低くて湿気がある。一方、チベットの首都であるラサの高度は3650mで富士山の頂上くらいあり、しかも極度に乾燥している(写真2参照)。ダラムサラに住むチベット人は、「ネルーに騙された」と言っていた。湿気のために神経痛をはじめ、いろんな病気にかかる人が多いからだ。そのうえ、若者たちはインドでフラフラしているヒッピーたちと恋仲になり、その多くが国外に出ていってしまうのだ。


写真2=チベットのラサにあるポタラ宮。ダライ・ラマ14世は1959年3月17日、この王宮を去ってヒマラヤ山脈を超え、インドへ亡命していった

 そういえば、チベットもよかった。私はシルクロードを巡ったあとで西寧(シーニン)まで戻り、そこからチベットに向かって中国人用のオンボロバスで登った。途中の鳥魯拉山(5220m)も超えたが、一向に高山病に罹る気配もなく、酒を飲みながら1泊2日でラサに到着した(しかし、さすがに高地のため、酒の回りは早かったように感じた)。

 しかし、チベット特有の“藍色の空”を1度見てしまうと、2度と忘れることができない。あの“天空”に近い爽快感は人間を神聖にもするし、その“天空”に吸い込まれそうな不思議な高揚感も与えてくれる。つまり、“神聖なハイ状態”になるのだ。それと人懐っこいチベット人がよかった。

 チベット人は今で言うところの“アウトドアライフ”が大好きで、休みの日などは離宮や公園などに絨毯を敷き、チベットビールともいうべき“チャン”を飲みながら宴会をするのだ。私も決して嫌いな方ではないので、よく呼ばれて“ご一緒”させてもらったものだ。実にワキアイアイの楽しい宴会だった(写真3参照)。


写真3=同じチベット文化圏であるインドの「レー」での宴会。ビンに入っている泥水のような液体が“チャン”である

 それですっかりチベットにハマってしまい、最後には高山病に罹ったと仮病を使って、ビザを延長してもらった(中国公安の諸君、ビザ延長をありがとう)。それから、ゆっくりギャンツェ、シガツェ、ラツェ、ニュラムを巡りながら(写真4参照)、「文化大革命」で壊された寺などをいくつも見た。いまは再建が進んでいるようであるが、当時は親しくなったチベット人のことを思い、その暴挙に対して私のはらわたは煮えくり返っていた。それは、筆舌に尽くしがたい悲惨な光景だった

写真4=シガツェまで行く途上で出会った「ヤク」の隊商

 それから、当時やっと開いたばかりのネパールのボーダーを目指して、チベットの“天空”から“下界”に下りていった。あの最後の急降下は、実に感動的なものだった。1日に3000mくらいを一気に下りてきたのではなかったろうか。赤茶けた荒土に次第に緑が混じり出し、チベットでカサカサに乾き切った体に湿気が蘇ってくるのが手に取るように分かった。

 チベット側で最後に泊まったのがニュラムの町だった。それは川沿いに家が転々とある山間の村という言った方がいいだろう。緑の濃い静かな村だった。そこの宿屋に荷物を降ろし、川に突き出した“自然的水洗トイレ”に入った。入口と側面の仕切りはあるが、正面の壁はない。正面にあるのは黒々とした山々である(その村に着いたのは夜だった)。そして、かなり下の方を川が流れている。

 その“絶壁トイレ”で遠くの川音を聞き、用を足しながらゆっくりと一服した。そのとき、木々の香りやジットリとした湿気のなかで、私は自分の体がその風景の中に溶けていくような感覚に陥った。実に快かった。そこでつくづく自分が“日本人だな~”と思ったのである。だから、逆にチベット人が湿気の多いところに住む苦労が分かる。やはり、日本人の体は日本の湿った環境の中で作られ、チベット人の体はチベットの乾いたチベットの環境のなかで作られているのだ。

 そんなことを考えながら、当時の“グレート・ジャパニーズ・タロー”は、闘争心を駆り立てながら次の目的地・第2の故郷であるネパール、インドへと向かったのである。ネパールはまだいいが、インドでは闘争心がないと生きていけない。いままでの弛んだ精神を引き締め、ふんどしのヒモを締め直し、厳しいがこの上なく面白いインドへまた向かっていったのである(写真5参照)。


写真5=チベットの山を下りて、中国とネパールの国境に向かって歩く若き日の“グレート・ジャパニーズ・タロー”(帽子の男) また、話が大きく横道にそれてしまった。ダラムサラのチベット人が、佐渡屋太郎を“チベットの世界”に連れていってしまったようだ。「アフガン人の『ゾウ』は一体どうなったのだ」という読者の声が、いま私の耳にガンガンと響いている。まあ、いいではないか。急ぐ旅でもあるまいし、ここは佐渡屋太郎を“昔の世界”に浸らせてほしい。ゾウのことは次回に書くことにしよう

 実はこの記事の臨場感を出そうと、佐渡屋太郎は必死になって昔に撮った写真の選択を行なった。その写真を見ながら、また“あの頃”のいろんなことを思い出してしまった。最初の旅でインドを1周して、ネパールに入ってポカラとカトマンズを堪能し、タイを縦断して日本に帰ってきた。
 
 それからネパールで出会った師匠の故郷である九州の小倉で1年ほど勇伏して、修行を積んだ。そして、その次の挑戦は上海からシルクロード、チベットを経てネパールに入り、インドから一躍、陸路でヨーロッパに入り、ポルトガルのロカ岬まで行ったら、その先は海だった。陸路と海路でユーラシア大陸を横断したことになる。

 その間、撮影した写真はかなりの枚数になっている。久し振りでその写真を通して見てみた。やはり、心は大きく動いた。やはり、平常心ではなかなか書くことができないことが分かった。これが今回の大きな収穫である。まだ、修行が足りない。また、変な世界に入りそうだ。今日はここで止めて、明日はいよいよ「ゾウ」のことを書くゾウ。(佐渡屋太郎


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